top of page

 第 七 章   S F か ら バ イ オ ロ ジ ク ス /

              ニ ュ ー ロ ポ リ テ ィ ク ス へ

 

1細胞の海

 

 ぼくたちの身体は細胞からできている。人間ばかりではない。地球上のすべての生命が細胞によって成り立っている。一ミクロンの細菌から巨大な杉の大木や鯨まで、すべての生命は細胞によって作られているのだ。約三〇数億年前に原始の海で誕生したと言われる地球上の生命はどれも基本構造は同じものなのである。つまり、地球生命体はただ一種類であり、生命の誕生はただ一カ所で、ただ一度だけ、起こったということになる。

 人体の総細胞数は約六〇兆であり、これらの細胞は人間を作るすべての遺伝情報をもっているが、ある細胞は皮膚となり、別のものは骨になりと、それぞれ特殊化しており、約二〇〇種類の細胞に分化している。これらの細胞の緻密なコミュニケーション・ネットワークによって、ぼくたちは生きているのだ。

  一九五三年にワトソンとクリックが、いわば生命の設計図である、DNAの二重螺旋構造を発見して以来、生命に関する考え方の転換が起こった。マクロな視点からみれば、ぼくたちは個々の身体という閉鎖系に閉じこめられているが、それはさまざまな微生物との共生、交流の絶えざる過程であり、何億、何兆もの細胞が作り出す情報の宇宙へと開かれているのである。実際のところ、ぼくたちは数兆の微生物と共生しているし、またそもそもそれらの微生物がなければ地球上の生物は生きていけない。さらには、動物細胞や植物細胞は、実は原始原核細胞に藍藻類が入り込み共生したものだと言われている。動物や植物はこのような細胞の海に浮かぶ列島にすぎないのだ。あるいは、そうした個体としての生物は巨大な流れの表面に浮かんでは消える泡のようなものにすぎないと言えるのかもしれない。

 生物のもっている遺伝子の情報量は膨大なものである。たとえば一人の人間の遺伝子情報は約三〇億であり、書物にすれば約百万頁分に相当すると言われる。したがって、この「設計図」を解読し、それぞれの意味を読みとるためには、それだけでも気の遠くなりそうな時間が必要になるだろう。だが、いずれにしろ生物の秘密のすべてはこのコードに書き込まれているのであり、そして「進化」もまたこうした遺伝子情報の「書き換え」によって起こると言われている。

 この書き換えが逆転写酵素をもったウィルス、すなわち「レトロウィルス」によって引き起こされるという説がある。ウィルスとは、遺伝子とタンパクだけでできており、別の生命の遺伝子に入り込み、生命の間を移動するという奇妙な存在である。こうしたウィルスの中には遺伝子情報をDNAに逆転写するものがあることが知られており、遺伝子の運び屋、遺伝子の書き換えを行なう存在ではないかと考えられている。こうした運び屋によって運ばれる異種の生物の遺伝子は人間のDNAの中にも多数含まれており、そうした中から新しい遺伝情報が生まれてくると考えることができるのだ。

 中原英臣と佐川峻は、共著『ウィルス進化論』の中でこのウィルスこそが進化の引き金となる遺伝子の運び屋であるというきわめて大胆な説を展開している(1) 。従来ウィルスは生物に感染することからバクテリアのような生物と考えられてきた。しかし、ウィルスは例えば結晶として取り出すこともできるし、感染しても宿主に害をなすことをしないウィルスもいる。それどころか宿主の遺伝子と合体し、一緒に分裂を始めるものさえいるのだ。そして、何よりもそれはバイオテクノロジーの発達につれて、細胞質内の遺伝子のかけらであるプラスミドと共に遺伝子のベクター(運び屋)として現実に利用されるようになっているのである。

 ウィルスは宿主を極めて厳密に選んでいる。それを宿主特異性という。たとえばあるウィルスは特定のバクテリアにしか感染しない。また、人間とチンパンジーだけに感染するB型肝炎ウィルスのようなものもある。また人間にだけ感染するにしても特定の人種にしか感染しないものもあり、民族の遺伝子のルーツ探しに利用されたりしている。ウィルスの感染力は極めて強く、短期間にほとんど地球の全域に広がることがある。つまり、ウィルスによる遺伝子の水平移動という仮説は、ある特定の種が一斉に進化するという進化論上の謎を解決してくれるのだ。

 とは言え、ここでは自然淘汰を原則とするダーウィニズム系の正統派進化論からはまだ異端視されている彼らの仮説の可否を決定しようというつもりはない。おそらくは近いうちに、ウィルスが進化の上で果たしている役割が更に詳しく解明されることになるだろう。だが、とりあえずぼくたちにとって重要なのはウィルスやプラスミドが生物の遺伝子の運搬という役割を果たしているという事実であり、生物の遺伝子は隔離され、固定されているのではなく、常にこうした遺伝子の交通ネットワークの中に開かれているという認識なのである。

 栗本慎一郎は、右のようなウィルス進化論を紹介しながら、生物の進化を作り上げてきたのはウィルスであり、ウィルスこそが生命進化の主役であり、人間やあらゆる生物はその手の中でいいように泳がされてきた存在にすぎないというような大胆なことを言っている(2) 。いわばここではウィルスは「超生命体」として実体化、主体化された形で解釈されているわけだ。それはつまり進化を決定する盲目的な超越的意志をもつ何物か(「神」?)と考えられている。

 しかしながら、中原・佐川はウィルスを無生物と考え、細胞の内部の小器官だと言っている。つまり、あくまで「生命体」が主役であり、ウィルスは遺伝子移動のための道具だと言っているのだ。だが、みずからの遺伝子を変化させる主体とはなんなのだろうか? 遺伝子なのか、それとも「種」なのだろうか、あるいはもっと根源的な何かなのだろうか? いずれにしてもここからは何か途方もない疑問が湧き起こってくるのである。

 だが、ウィルスが運ぶ遺伝子が情報でありメッセージであることを考えるならば、むしろ遺伝子〈情報〉こそが生命の根幹にあると考えることも可能であろう。すなわち、生命とは自ら増殖し、変容する「意志をもった」(遺伝子)情報なのではないだろうか。こうした情報が細胞を形成する。そして、その細胞は細胞で遺伝子を伝達し、複雑な共生のシステムを作り上げている。超生命体とも言えるこうした幾層ものミクロな「情報のネットワーク」の上に、いわば個々の生物は「生かされて」いるのではないだろうか。

 「意志をもった情報」、あるいは「情報ネットワークの中に生まれる意志」――それは、この書物全体のテーマでもある。

 

2 バイオロジクス

 

 ところで、レーウェンフックの顕微鏡によって細胞が発見され、また一九世紀に細胞分裂の様子が観察されるようになって以来、人々は生命の設計図をなんとか手に入れようとしてきた。また、その設計図を作り替えたり、別な設計図に変える可能性を探し求め続けてきた。その一つの方向が今世紀におけるバイオテクノロジーであり、微生物に対する関心や、細胞融合による品種改良やクローン化などの技術であり、要するに生命を人間の手でコントロールしようといった科学的探究である。だが、一方でこうした研究の中には、ぼくたちを震撼させる不気味な悪夢が隠されているということにも多くの人が早い時期から気づいていた。

 細胞融合によって作られたトマトとポテトの融合種ポマト、山羊と羊の受精卵を融合させたキメラ、DNAを改造した大腸菌など、実際に作られた新しい生物たちは、新しい技術の未来を予言すると同時に、フランケンシュタイン的怪物に対する未曾有の悪夢を生み出した。これらの怪物達に対する恐怖は、しかしながら、ただ単に宗教的な忌避感情からのものではない。そうではなく、遺伝子操作によって作られた生物が、たとえばぼくたちの生きるエコロジカルなシステムをはみ出し、場合によってはそれを取り返しのつかないまでに変えたり、破壊してしまったりするのではないかという、いわば存在の根幹に関わる恐怖なのである。それは、したがって現実的な恐怖と言うよりも、ぼくたちの身体そのものを支えているシステムや現実の崩壊という悪夢へとつながり、いわば身体がどろどろした培養液の中に溶け出し、分解してしまうといったおぞましいイメージへとつながる、そうした神話的な恐怖なのだ。

 だが、ここで注意したいことは、これは人間や現存の生命形態の破局につながるかもしれないが、細胞や遺伝子単位で考えた場合の生命全体の危機にはならないかもしれないということである。なぜなら、もし遺伝子の「意志」が自己複製と増殖にあるのなら、人間のこうした自然破壊や宇宙開発すら、最終的にはかれらの利益に役に立つものであり、あらかじめプログラムされていたことであるかもしれないからである。初期の生命は嫌気性微生物であって、酸素を含む大気はむしろ邪魔なのだったのかもしれないし、また人間の宇宙開発だって、地球上の遺伝子の宇宙進出を意味しているかもしれないではないか。そう考えてみると、ぼくたちが現在生きている、無数の生命形態の緊密なネットワークとしての生態系が必ずしも最終的な生命の形ではないのかもしれない。エコロジー的思考もまた単なる人間中心主義的な幻想かもしれないのである。それが一体どこに向かっているのか、本当は誰も知ることはできないのだ。

 だが、「知的生命体」である人間が、こうした生命の設計図の存在を認知できるようになったのは、ごくごく最近のことにすぎない。ぼくたちはこのような「不滅の」遺伝子(あるいは、遺伝子そのものは継起的に変化していくのだから、その背後に存在している「宇宙意志」?)に対してどのように立ち向かうべきなのであろうか。人間はいわば、生命の盲目的な意志によって支配されているだけなのだろうか。生命科学はこうした、ショーペンハウエル的とも言える新しい問題系をぼくたちにつきつけたのだ。

 

3 溶ける身体

 

  ところで、こうした不安や恐怖がいまだ未知のものであるとすれば、それを読みとくことができるのは、「いまだ……ない」恐怖や不安や期待を、小説という過去形の言説で語るSF小説の中しかあるまい。SFはテクノロジーが人間に不意に突きつける不安や恐怖を黙示録的に差し出している。それは文明や知識が与える不安や身体を揺るがすような恐怖に、ひとつの漠然とした形式を付与しようとする意図によって作られている。

 SF小説の中に現れたこうした恐怖の比較的古いもののひとつに、エドガー・ライス・バローズの『火星の合成人間』がある。一九四〇年に「火星シリーズ」のひとつとして発表されたこのスペース・オペラは、こうした生命工学的な空想に満ちた怪作である。バローズの描く火星は、八本足の肉食獣や蜘蛛人間や吸血獣などのさまざまの怪物達や、緑色人、赤色人などの際だった人種的特色をもつ火星人達の住む巨大な空想動物園であり、そこでターザン的ヒーローである、アメリカ人ジョン・カーターが大活躍するといった通俗的な物語であるが、この『合成人間』では、人造人間の創造に成功した火星の大科学者ラス・サヴァスという人物が描かれている(3) 。

 バローズの描く火星の科学は、(ラジウム・エネルギーによる!)エアカーや重火器と共に乗り物としての翼鳥や剣も生きているといった、つまり「剣と魔法の世界」のようなものであり、それも機械的と言うよりは錬金術的な感じなのだが、このラス・サヴァスが作り出したのは、細胞を培養して培養液の中から人間を作り出す装置であり、まさしく錬金術〓バイオテクノロジー的な技術である。

 この培養装置は次のように描写されている。

 

 ラス・サヴァスはわれわれを巨大な部屋へと導いた。そこで目にしたものは、おそらくこの世のいかなる場所でも、かつて演じられたことのないような光景であった。部屋の中央には、一メートル強の高さの大タンクがあって、そこからはおよそ人間の想像を絶するような醜怪きわまりない化け物どもが姿を現わしている最中だった。そしてタンクの回りには多数のホーマッド[合成人間]戦士たちが将校とともにその化け物に向かって突進し、とりおさえては縛りあげていた。また変形がはなはだしくて、戦士としてうまく機能しないものは破壊されていたが、少なくともその五〇パーセントは、獣でも人間でもない恐ろしい生きた戯画のようなものであって、このように破壊されねばならぬ運命にあった。たとえばその一つは、一つ目で、腕も一つの、単なる生きた肉の大きな塊りであり、また腕と脚とが逆に発育してしまって、首を脚の間につけてさかさになって歩いているのもいた。多くの顔にはあるべきところにあるべきものがなく、グロテスクであった。鼻、耳、目、口などが、胴体や手足の上に無秩序にちらばってついているのだ。こうしたものは、みな破壊された。ただし二本の手足を持ち、顔らしきものがついているものだけが残された。鼻が耳の下に、口が目の上にあるものもいたが、とにかくそれが機能すればよいのであって、容貌は問題外なのである。

(P59)

 

 このような、のたうつ生命体でうようよしているタンクがいくつもの研究所におかれ、続々と戦士を生み出している。ところが、ラス・サヴァスは謎の失踪をしてしまい、取り残された装置のうちの一つが変調を起こしてしまう。発明者以外にこの装置を制御できる者はいない。培養器は人間を分節できないようになり、培養液がそれ自体巨大な肉塊として、無限の成長を始めたのである。

 

 

 第四培養室に行ってみると、かつて見たこともないような恐ろしい光景が展開していた。明らかに培養器に故障が起きたのだ。個々のホーマッドは形を成しているにもかかわらず、培養器から現われ床におどり出しているのは、一つの大きな動物組織の塊りであった。さまざまな人体の外部や内部の各部分、器官などが、脚はここ、手はそこ、頭部はあちらというぐあいに、他の部分とは関連なしにそこから生えているのだ。いくつもの頭はどなったり叫んだりしているが、それはその場の光景のすさまじさに、いたずらに度を加えるだけ。

 「何か手を打とうと思ったのですが、このがらくたを殺そうとすると、手はわれわれをつかまえるし、頭は咬むのです。ホーマッドでさえ恐ろしがって近づこうとしません。もし彼らにとって恐ろしくてたまらないものであるとすれば、人間に耐えられるわけがありません。」

  まったく同感である。正直なところわたしにもどうしてよいかわからない。培養液を流しだして成長を止めようとしても、培養器に近づくことができない。それにホーマッドたちが尻ごみしているので、破壊することも不可能だろう。     「ドアと窓を全部、閉じろ。いずれ窒息するか餓死するだろう」。しかし、わたしが部屋を出る際に、頭のひとつが身近にある組織をぱっくと咬みとるのが見えた。少なくとも、餓死することはないようだ。(P126)               

 

 この肉塊は培養室の窓をぶちやぶり中庭にまで溢れ出す。だれも部屋に入ることが出来ないので、この増殖を妨げる手段はない。それは自給自足し、理論的には火星の全表面を覆うまで無限に増殖すると語られる(実際には動物組織を食べないといけないのだから、成長に限界があることは確かだろうが……)。

 ラス・サヴァスはその後発見されるが、事態を知って次のように述懐する。

 

 「それは、まずい。わしがいつも恐れて念入りに予防していたことだよ。もし第四培養室の成長をくい止められぬようだったら、万難を排してもモルバス脱出の手配は極力ととのえておかなければならん。阻止しないと、そいつは早晩、全島を覆ってしまう。理論的には全バルスーム[火星]を覆って、ありとあらゆる生物を窒息させることになるのだ。そいつは原始的な生命体で、死滅することはないが制御しなければいけないのだ。自然はそれを制御できるが、悲しいかな人間にはそれができないということを、わしは悟った。わしは秩序だった自然の機能に干渉したが、これがおそらくはその報いだろう。」(P147)                         

 そして、結局この生命体は「もうひとつの自然現象」である「火」によってくい止められることになる。つまり大規模爆撃によって培養器と生命体が焼かれ、分断されることで決着がつくのだ。しかしながら、それが「死滅することはない」以上、それは生きており、とりあえず「制御されている」だけなのである。

 この結末はフランケンシュタインやゴジラなどに代表される、「人間が神の領域を侵し、誤って」作り出してしまった怪物という古典的テーマ系に属していると言えるだろうが、しかし人工培養された細胞の塊りが、未分化のまま、惑星を皮膜のように覆い尽くしてしまうというイメージはきわめて二〇世紀的と言えるだろう。この肉塊の中で各個体は部分に寸断されているが、同時にそれは半分溶解したままの連続性をもっているのだ。それは、ちょうど通信ネットワークによって情報的には流体のように連続していながら、個々の寸断された個別性に閉じこめられてもいる、現代世界における都市や身体のメタファーと考えられるかもしれない。

 もちろん、それが持っている「溶ける身体」というおぞましいイメージはまた別の領域の想像力に属している。実際のところ、このようなゲル状の物質の中に自らの身体が溶け出していくという状態はかなり想像しがたいものである。バローズの小説では、この溶液上の頭は勝手に叫んだり、悪口を言ったりしているし、手や脚は勝手にうごめき、内臓は内臓で動いており、頭はその辺の組織を食べるということだから、むしろこの溶液はシャム双生児の接着面が無限の広さに拡大されたようなものなのかもしれない。各器官はそれぞれ有機的な結合をむなしく求めながら、けっしてそれを与えられることがないという業苦のなかにある。ここでは痒くても掻くことができないばかりか、そもそもどこが痒いのかすらわからないだろう。

 もしこれが、単なる外からの敵――たとえば『アンドロメダ!』の宇宙微生物――にすぎなければ、恐怖は単なる未知の存在に対するものにすぎなかっただろう。したがって、結局のところこのイメージのおぞましさは、ぼくたちの精神―身体の有機的構造がこうした細胞の海の中に溶解し、解体して行くことから生じていることがわかるのである。

 

4 血の音楽

 

 バローズによるこのようなおぞましい細胞増殖のイメージは、八〇年代の初めにグレッグ・ベアによって、さらに精密に反復されることになる。すなわち、ベアの大作『ブラッド・ミュージック』には、地球の大部分を覆い尽くす知性をもった細胞が描かれているのである(4) 。ここでは、この半世紀の間の分子生物学と情報科学の発展に基づいた情報論的な宇宙のヴィジョンが開かれる。

 この物語はカリフォルニアにあるバイオ・チップ研究所に勤めるヴァージル・ウラムが、自らの白血球から全コンピュータ業界が切望する生体素子(すなわち知性のある細胞)を作り出すことから始まる。

 ヴァージルはシリコン・チップとタンパク質とのインタフェースを作っているうちに、細胞そのものをコンピュータにすることができるのではないかというアイディアを抱くようになる。

 

 

 ほぼすべての生きた細胞の中には、すでに巨大なメモリをもって機能しているコンピュータが存在するというのに、なぜシリコンとタンパク質に、幅百分の一ミリのバイオチップにこだわるのか。哺乳動物の細胞は、おのおの一片の情報として機能する塩基対が合計数十億にものぼるDNAをもっている。そもそも生殖とは、とほうもない複雑さと精度とをもってコンピュータ化された生物学的過程にすぎないのではないだろうか。(P32)

 

そこでかれは遺伝子合成装置で細胞のDNAをいじりはじめる。

 

 

 もっとも初期のバイオロジック配列は環状プラスミドとして大腸菌バクテリアに挿入された。大腸菌はプラスミドを吸収し、それらを自身のDNAの中にとりこんだ。そしてバクテリアはプラスミドを複製して放出し、ほかの細胞にこのバイオロジックを伝える。ヴァージルは研究のもっとも重大な局面で、RNAとDNAのあいだにフィードバック・ループを固定するため、ウィルスの逆転写酵素を用いた。最初の、もっとも原始的なバイオロジックをそなえたバクテリアでさえ、リボソームを《暗号機》や《解読機》として、RNAを“テープ”として利用していた。ループがちゃんとおさまると、細胞は固有の記憶と、環境情報に応じて処理し行動できる能力を発達させた(P33)

 

 これらの細胞はエレクトロニクスによるコンピュータより圧倒的に大きな演算能力を示し、ヴァージルはついに自らのリンパ球の細胞に知能をもたせることに成功する。ところが、かれが隠れて行なっていたこの実験が会社の上層部に漏れて、かれは会社を追放されてしまうことになる。そこで、かれは研究成果をすべて破棄することを命令されるが、それに背いてこのリンパ球を自分自身の体内に注射して外に持ち出そうとするのだ。

 ところが、ヴァージルは再就職ができず、もう一度取り出して実験を続けようとしていたリンパ球はかれの体内に同化してしまう。それは、かれの体内で増殖し、学習を続け、ついにはかれの身体組織を変えてしまうのである。さらに、それは知能をもつようになり、かれの脳と直接対話するようになる。血や骨や内臓はすべてその細胞に都合の良いように変えられ、ついにはヴァージルという人格もすべてその細胞のデータに置き換えられてしまう。細胞はさらに増殖し、変態を始め、ついには北アメリカ大陸の全生物が皮膜と化したこの何百兆もの知性をもった細胞に覆い尽くされてしまうのである。

 以下は偵察機から変容した北アメリカの状況を実況するアナウンサーの報告の引用である。

 

 

 わたしたちの下にひろがる光景をどうすれば描写できるでしょう? 新しい語彙、新しい言語が必要なのかもしれません。これまで生物学者にも、地質学者にも知られていない構造と形態が北アメリカの都市と郊外を、荒野までも蔽っています。森林がそっくり灰緑色の……その……尖った木梢や、花穂や、針葉のある森です。望遠レンズをつうじて、これらの複合体の中に動きが見えています。象のような大きさの物体が未知の手段によって動いているのです。河川が制御された流れといったようなものに見舞われているのを目撃しました。通常の水路の流れとはちがうパターンです。大西洋岸、とくにニューヨークとアトランティック・シティ付近で、約十キロから二十キロにわたって、海洋自体が、明らかに生命をもつ輝くガラス状の緑の毛布をかけられています。

 

  この知性をもった微生物(ヌーサイトと呼ばれる)は、あらゆる生物細胞を変容させ自らに同化し、それと共にその同化した生物の記憶をすべてとりこむ。同化させられた生物は消滅するのではない。その反対にそれはその内部で別の不滅の生を生き始めるのだ。したがって、そこにはすべての人間が同化して生きているが、誰もそこから出ようとはしない。取り残された数名を「救いに」再び再肉体化された家族が送り出されたりするが、かれらもまたすぐ元に戻ってしまう。また、この「思考宇宙」の中では時間も変わる。過去を生きることも、同時に他の場所にいることも可能である。何百万人もの自分がいることもできるし、他人の生を生きることもできる。小説のラストは次のようなことばで終わっている。

 

 

何ひとつ失われはしない。何ひとつ忘れられはしない。

それは血の中に、肉の中にある。

そしていま、それは永遠になったのだ。(p405)

 

 このベアの描くヌーサイトという超生命体は、コンピュータによるサイバースペースと分子生物学の知見との連続性を何よりも雄弁に説明している。地球の生物は基本的には同じものであり、生命体は一種類しかない。それらは核酸の中に集蔵されている情報を交換し、記憶し、保存することによって、自己を維持、複製、増殖、進化している。生命とはそれ自体、情報体であり、自己以外のものとのエネルギーや情報のやりとりによって存在している。それは端的に言って巨大な情報処理システムにほかならないのではないだろうか。

 そう考えてみると、ヌーサイトとは虫眼鏡で拡大された生命そのものにほかならない。つまり、これはSFであると同時にひとつの現在におけるコスモロジカルなヴィジョンにほかならないのである。それは「ブラッド・ミュージック」――すなわち、血液の中の微細な細胞の内部のネットワークから、生命体を、そして更には間―生命体的な巨大なネットワークと力とをコンピュータ時代の生命観として提起しているのである。

 

5 生命と宇宙

 

  ここまでいくつかのSF小説に描かれた情報一元論的な生命ネットワークのイメージを紹介してきたわけだが、これらはすべて二〇世紀の「科学的」想像力が生みだした身体的恐怖に基づいていた。だがこれは見方を変えれば、実は単に「現実」の歪小化されたイメージにすぎないとも言えるのである。なぜなら、この章の初めに書いたように「生命の宇宙」とは、そもそもの初めから「ブラッド・ミュージック」的なものにほかならないからである。

 コンピュータ時代がもたらしたのは、巨大で全能のマザーコンピュータにすべてが支配される超管理社会ではなく、無数の小さなコンピュータが相互に結びついた複数のネットワークがあらゆる所に入り込んだ多頭の社会であった。そこでは、中心と部分の区別は廃棄され、情報の交通が極度に加速され、拡大され、渦巻く微粒子の波動となる。そこではモノ〓実体とは情報の停滞した定常状態にすぎず、現実にそれを支えているのは記号――あるいはその記号を生成する情報の過剰な交通そのものにほかならない。

 コンピュータは同時に脳の中に起こっている過程の外在化でもあった。それはまた逆に脳や人間の意識を外から眺める視点を提出した。六〇年代のドラッグカルチャーや脳内伝達物質の発見は、ぼくたちが「自己意識」と呼んできたものの複数性と可塑性というぼくたちの基盤を揺るがすような認識をもたらしつつある。脳の内部で起こっていることは、巨大な情報系の自己組織化であり、たとえばベアのヌーサイトの皮膜が作り出す宇宙と、そして生きる情報である遺伝子の交通と基本的に同じなのだ。

 その意味でコンピュータ科学、脳科学、生物工学は同じ種類の情報論的過程に関わっていることになる。たとえば、脳に入力される世界データのインターフェースを薬物的あるいは機械的に変化させたり、身体感覚を別のものに置き換えたりする技術としてのインナーテクノロジーや、身体や感覚の外在化としてのコンピュータの氾濫は、必然的にぼくたちの世界認識や諸人文科学のあり方に大きな影響を与えずにはおかないだろう。バイオロジクスは、思考や認識の戦略であり、新しい宇宙観の創造へとつながるニューロポリティクス(神経政治学―T・リアリー)へと結びついていくのだ。

 そして、それは遺伝子や分子などのミクロのレベルから、思考や社会などのマクロなレベルまで、あらゆるレベルにおける情報の自律的な交錯と交通という情報一元論的な過程によって貫かれているのではないだろうか。

 以前、ぼくは「メディア」という視点から人間の文化や社会を捉え直す試みを示したことがある。これは、実体ではなく「交通」や「コミュニケーション」のただ中でのみ、意味や思考を捉えようという試みであった(5)。 だが、「メディア」は飽くまでもそうした過程を捉えるための仮の方法概念にすぎない。その底にあるのは、自律的な情報の運動そのものである。生命を作りだし、社会を形成する、このような根源的な情報の様々なレベルにおける自由な交錯の中に「意味」が生まれ、「方向」や「意志」が生じるのだ。

 ところで、サイエンス・ファンタジーの語り手という意味では、これもまたもう一人のSF作家でもある中沢新一は、『虹の理論』の中で、チベットのタントリズムやバリ島の宇宙論の「胎生学」的な構造について記述している。たとえば、彼がバリ島の宇宙論を紹介している次のような一節を読むと、右に述べたような考え方がけっして「現代的」でも、「空想科学的」でもなく、それどころかさまざまな文明において人類が古代から抱き続けてきたコスモロジカルなイメージであるということがわかるのではないだろうか? 

 

 

 「ブタ(Bhuta )は、いたるところにある。庭に生えているヤシの木にも、遊んでいる鶏にも、眠っている犬にも、そしてあなたの身体にも、生命のあるものはもちろん、一見生命のないように見えるものにも、いたるところにブタがいて、活動している。ブタはエネルギーなのだ。力なのだ。だから、ブタを見ることはできない。眼に見えない力の働き、それがブタだ。しかし、私にはブタが見える。感じとれるといったほうがいいかな。いま、あなたは息を吐いた。その息といっしょに、ブタの破片がちぎれ雲のようにして、あなたの身体から出ていったのを、私は見ることができるのだよ。皮膚からも毛髪からも、たえまなくブタのちぎれ雲がわきたっている。こういう眼で見ていると、あなたの身体全体が、なにかもやもやとうごめく雲のかたまりのように見えてくる。もっと見つめていると、あなたの身体の輪郭まで、ぼおっとかすんでくるが、ここまで心をこらしてみると、あなたがじつはブタの雲のかたまりだということがわかってくる。ブタはエネルギーの流れだ。それはいたるところをつらぬいて流れている。けれど、あなたの身体があるそこの場所で、ブタの流れは急に密度を濃くして、雲のかたまりをつくる。その雲がしじゅう活発にうごめいているのだ。」(6)

 

 こうやって見てくると、こうした眼に見える現象の背後に流れている微細で複雑な運動を忘れてしまっていた近代の宇宙観こそが、むしろ特殊で偏ったものだったのかもしれないという気分になってくるだろう。その意味で、こうした「情報の銀河系」としての宇宙や生命をもう一度ぼくたちの思考の中に取り入れることによって、ぼくたちは初めて見失ってしまったコスミックな思考の手がかりを再構築することができるのかもしれない。

                           

 

〈注〉

(1) 中原英臣、佐川峻『ウィルス進化論』(泰流社) 

(2) 栗本慎一郎『パンツを捨てるサル』(光文社)。

(3) E・R・バローズ『火星の合成人間』(厚木淳訳、創元推理文庫)

  ()内はページ数。

* バローズはターザン・シリーズや金星、月、南海、地底などのシリーズでも

一貫して、生命の進化や異なる生態系の可能性について大きな関心を示している。そこには「生命の木」よる生物の分化とか、生物進化のサイクルがきわめて短い領域とか、さまざまの奇怪な空想が溢れており、以後のSFにも多大な影響を与えている。しかし、「火星用語辞典」などにおける、異常に詳細なこうした動植物の描写を見ると、これほど怪物に取り憑かれた作家も珍しいということがよくわかるだろう。ひとつだけ、火星の怪物アプトについての記述を紹介しておく。  「アプト〓北極の怪物。六本足の巨大な白い毛皮の動物で、短い大きな四本の肢で雪と氷の上をすばやく進む。長くたくましい首の両側の、肩から前方に向かって生えた二本の前肢の先は、獲物を捕らえたり持ったりする白い毛」のない手になっている。頭と口は二本の大きな角をのぞけば、地球の河馬に一番よく似ている。角は下顎骨のわきから前方にのびて、かすかに下向きにカーブしている。その二つの巨大な目は頭蓋の頂部中央から頭の両わきをさがり、角のつけ根の下まで達する二つの大きな楕円形をなしている。だから二本の角は、実はそれぞれ五、六千個の個眼からなる両目の下のほうから突き出ていることになる。それぞれの個眼がおのおの、まぶたを持っているので、この獣は、巨大な目の中の個眼を任意の数だけ、好きなように閉じることができる。」

 創元文庫版にはこうした描写に基づいた武部本一郎画伯の挿絵が載っている。

 

(4) グレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』(小川隆、ハヤカワ文庫)  

(5) 室井尚『メディアの戦争機械』(新曜社)、『ポストアート論』(白馬書房)  などを参照。       

(6) 中沢新一『虹の理論』(新潮文庫)、二〇七-二〇八頁。

bottom of page