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プリンティング・ザ・ワールド

(初出:阿部出版『版画芸術』1996-1998 全八回連載)

 

第一回 プリント、プリンティング、版画


 文化理論の視点から「版」や「刷り」をテーマにした連載ができないだろうかと編集部から依頼された。少し困ったが、まあ何とかなるだろうと軽く引き受けてしまった。この気軽さがこの先私を苦しめることになるのかもしれないが、それでもこの「何とかなるだろう」と思った理由について初めに触れておきたい。
 私は今まで特に「版画」というテーマではものを考えたことがない人間である。モダニズム以降の芸術については少し考えてきたこともあるし、また最近ではディジタル・メディアやコンピュータ・カルチャーが我々の身体や表現にもたらした変容について、いわゆる情報文化論という立場から考えてきた。
 いわば、「版画」というジャンルとは余り縁がない人間なのである。「版」や「刷り」というのが、いわゆる「表現ジャンルとしての版画」にだけ関わるものであるのなら、私にはそれについて書く知識もなければ自信もないと言わなくてはならない。実際この『版画芸術』の他のページで話題になっていることの大部分に関して、とりわけ版画「業界」の動向というようなことに関して、私はあまりにも無知なのだ。
 だが、「版」や「刷り」というのは、英語で言えば、つまりは「プリント」または「プリンティング」ということになるのではないだろうか? プリンティングというからには、それは印刷一般のことでもあり、ファックスやプリンタといった新しいテクノロジーにも関わってくるはずである。
 私は「版画」という日本語の単語に惑わされていたのかもしれない。そもそも、版画だってまさしく「プリント」以外の何物でもないのであり、そう考えれば版画というテーマはデューラーや浮世絵だけではなく、拓本や印章、「プリントごっこ」やファックス、コンピュータやインターネットまでを包含しているはずなのだ。いや、そう言えば写真や映画だって「プリント」と言うではないか。だとすれば、それは映画や写真、録音術などにも関わっているはずだ。
 そう考えてみると楽になった。なぜなら、「版画」とは「プリンティング」の一つにほかならないわけだし、版画芸術というのはそうなればプリンティング・アートの一つにほかならないということが分かったからだ。それでは、むしろ狭い意味での「版画」にこだわらずに、「プリンティング」というより広い視点から文化論的なさまざまな現象を論じていくことができるかもしれない。
 私が初めに考えたのはこんなことだったのである。
 だが、それではただ問題を拡散させるだけではないか、と思われなくもない。確かに日本語の環境の中で「版画」という言葉はもう少し限定された意味をもっているようである。そこで私なりに「版画」という単語が持っている意味内容を整理してみると大体次の三つに相に分けられるように思われる。
(1)複製技術としての版画
(2)特定の美術ジャンルとしての版画
(3)美術〈制度〉としての版画
 それぞれについては、これからじっくりと吟味を加えていかなくてはなるまい。だが、はっきりしていることがある。それは、元々(1)の意味しかなかった「版画」が時代の進展と共にどんどん限定された意味内容をもつようになってきたということだ。それは絵画的イメージを複製するためのほとんど唯一の技法であった時代を経て、写真や印刷術の発展と共に、より純粋で自己目的化された表現に向かい始め、現在のように美術の世界における特化したジャンルを作り出すようになってきたのである。通常の使われ方において、たとえばプリンタで打ち出したCGの作品や、デヴィッド・ホックニーが試みたようなFAXを用いた作品はまず「版画」とは呼ばれない。また、アンディ・ウォーホルのシルク・プリントを用いた作品も通常「版画」の中には含まれない。だが、なぜ含まれてはいけないのだろうか?
 本誌には各号に「オリジナル版画」が添付されており、そのことが本誌の売り上げにも大きく貢献していると聞いている。つまり、同じ「プリント」でも、「版画」は通常の「プリント=印刷物」とは異なる、特別で「オリジナル」なプリントであると考えられているわけである。このことは「版画」のライヴァルであった「写真」というジャンルにおいても見られる不思議な現象である。つまり、美術館の写真展で展示されたり、コレクションとして購入されたりする「オリジナル・プリント」は、カタログに掲載される通常の写真印刷とは区別された特別なものであると考えられている。
 なぜこういうことが起こったのだろうか。少なくとも「プリント」とは、唯一性や希少性とは正反対の「複製技術」に関わる技術=技芸であったはずだ。いわば原理的に一枚しか作れない絵画に対して、版画は「二」性あるいは「複数」性をその本質としてきたはずである。それが手作業と希少性を売り物にする「オリジナル」作品に変容したのは、比較的最近になって機械的複製技術が登場し、実用性や生産効率の上で従来の「版画」技術をその土俵から駆逐してしまうようになってから生じた新しい現象に違いないだろう。
 だとすれば、版画の問題はまた、かつてヴァルター・ベンヤミンが問題にした一九世紀の複製技術の出現や、現在のディジタル複製メディアの氾濫とも深い関わりをもっているはずである。はっきり言ってしまえば、その深い関わりとは要するに、写真・映画・録音術、そしてコンピュータ、FAX、コピーなどのこれらの複製メディアがまさしく「プリント」技術そのものであり、つまりは「版画」技術の無際限の拡張であったということではないだろうか。
 つまり、手作りの暖かみをもった「オリジナル版画」と機械的な複製技術との対立というのは、旧来の版画技法が新しい「プリンティング技術」の出現によって、相対的に「ローテク」となり、「解像度の低い」ものになってしまったために起きた、一種の論理的な「すり換え」であり、旧メディアにこだわる版画作家達の「防衛機制」だったのではないだろうか。そして、そのことは版画の領域を自ら狭くさせ、その想像力を自ら貧困化させる要因になってはいないだろうか。
 このように考えてみれば版画を含めた複製技術のプリンティングという視点からの考古学・系譜学的探究は必ずしも無意味なことでもないように思われる。既成の「版画」の側から見ても、プリンティングというより広い遠近法の中に身を置くことによって、その新しい可能性を発見することができるのではないだろうか。
 そこでこの連載では、幅広く人間の文明と「プリンティング」との関わりを考えていくことにしたい。
 「プリンティング」とは基本的には「押しつける」ことであるが、押しつけることによって、あるパターンやイメージを別の表面に「移す/映す/写す」ことを意味している。この原型的な行為は、手の指の指紋を柔らかい土の上に押しつけることであろう。言い換えるならば、プリントとは「痕跡づけ」によるパターンやイメージの複製に関わっているということだ。
 たとえば、縄文式土器の表面の縄目模様はプリントである。硬貨の鋳造や拓本もプリントである。印鑑やスタンプも、そして言うまでもなく木版も活版もプリントである。さらに、光と影のパターンを光学的に痕跡づける写真や映画もプリントであるし、空気の振動の痕跡を記録するレコードやテープレコーダもプリントである。電話やラジオ、FAXやコンピュータもこれと同じ理由でプリントであり、それらの電子機器の心臓部に当たるマイクロチップそのものがこれまた「プリント基板」であることは言うまでもない。つまり、すべてが痕跡づけによるパターンの複製という同一の原理によって説明できるのだ。プリントとは情報の複製に関わるすべての技術を包含する概念であることがわかる。
 さらに痕跡づけによるパターンの複製ということで考えるなら、それは人間による技術の領域を遥かに越えて、自然や生命そのものの中にも広範に見いだせる現象でもある。たとえば、動物の足跡や化石は自然に作り出されたプリントであり、分子結合のパターンを増殖させる鉱物の結晶もプリントであり、自らの情報を複製し、転写する遺伝子そのものもプリントという原理の上に存在している。自らの遺伝情報を宿主のDNAに複製するエイズのレトロウィルスは「逆転写」型ウィルスと呼ばれているではないか。このように考えてみると「プリンティング」ということが含んでいる問題の広がりはきわめて広大なものであることがわかるだろう。
 さあ、前置きはこれぐらいでいいだろう。次回からはこの広大な領域の中にどんどん踏み込んでいきたいと思っている。

 

 

第二回 プリンティングと自然


生命とプリンティング
 スティーブン・スピルバーグの映画「ジュラシック・パーク」(九三)では、バイオテクノロジーによって復活した恐竜たちが画面狭しと暴れ回っていた。  映画の中の説明では、樹脂の化石である琥珀の中に閉じこめられた古生代の蚊の中に含まれる恐竜の血液を分離してDNA構造を解析し、それを鰐などの爬虫類の受精卵に移植して、恐竜を復活させるということになっている。
 これと似た話が先日も新聞に載っていた。鹿児島大学の教授がシベリアに眠る氷漬けのマンモスから精子を取り出して、雌の象に人工受精を繰り返すことによってマンモスを復活させようとしているらしい。また、先日ついに絶滅してしまった朱鷺も将来の技術に希望を託して精子や卵子が貯蔵されているらしい。
 SFの中だけの話だと思っていたら、身の周りでこんな話がどんどん進行しているのである。ことによれば、二一世紀の初頭には絶滅した種ばかりを集めた動物園が本当に実現することになるかもしれない。
 生命の情報定義という考え方がある。一九五三年にワトソンとクリックがDNAの二重螺旋構造を明らかにして以来、地球上の生命はすべてDNAに含まれる「設計図」によって作られていることが分かってきた。そして地球上に現存している、そして過去に絶滅してしまったすべての生命体はこのDNAの同一の「言語」によって書き込まれたものであることが明らかにされたのである。つまり、地球上の生命にはたった一種類しかなく、さまざまな種の違いはそれらがもつDNA情報の違いにすぎないのだ。そして、この情報は適当な仕方で処理されれば別な環境の中でも復元することができることも分かっている。だからこそ、大腸菌にヒト・インシュリンを作らせるといったバイオテクノロジーの技術が可能になったわけである。
 生命とは「情報」なのだ。リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』をはじめとする著作の中で主張しているように、遺伝子に含まれる情報は、自らを複製し拡大しようという意志をもった「自己複製子」なのであり、そして進化とはこの情報の複製や転移に関わる巨大な過程そのものにほかならない。
 だとすれば、生命とはまさしく「プリンティング」の問題にほかならないではないだろうか。生物は数十億年に渡って、世代を超え、種を横断しながらプリントされてきた情報の集積なのであり、ぼくたちはみなそもそも初めから原初の生命情報を「刷り込まれた」存在なのである。生命とは元々プリントだったのだ。

結晶・生命・文化
 自然界はプリンティングに満ちている。確かにプリンティングを狭い意味で捉えるならば、それは人間の「技術」であることになるが、そもそもあらゆる技術は自然がはるかに大きなスケールで昔からやってきたことの模倣にほかならない。そもそもの初めから、印刷や版画とは、自然界に満ちているプリンティングという現象の、人間的スケールでのシミュレーションなのだ。
 それは必ずしも生命ある世界だけにかかわっているだけではなく、無生物の世界にも幅広く行き渡っている。風が作り出す砂漠の風紋、月の重力が作り出す潮の満干、渦を巻く雲や波、岩や石の模様や形態、地層の褶曲、共鳴やハーモニー等々・・・大地が、海が、空が、川が、地形が、光が、音が、要するにわれわれをとりまく環境のすべてがプリンティングの複雑な絡み合い抜きには存在しえないのだ。
 同心円や放射型、螺旋型の模様やパターンは、自然界から生命の形態に転移して、ひとでや巻き貝の形に変わり、蝶の羽の模様や動物の器官の形に映し出されている。つまり、パターンが転移し、「移し/写し/映し」が行われるときに、そこには常にプリンティングの過程が現れているのだ。そして、それを別の言葉で言うなら、情報の自己複製や増殖/流通が行われる時には常にプリンティングが介在しているということである。
 A・G・ケアンズ=スミスは『遺伝的乗っ取り』の中で、生命の起源を鉱物の結晶に求めた。つまり、結晶こそはDNA以外のもので唯一「自己複製する情報」と呼べるものだからである。結晶は自らの分子パターンを周囲の物質に転移し、自己の情報それ自体を複製し、増殖する「情報=物質」である。子供の頃、みょうばんや硫酸銅の結晶を溶液の中に糸でぶら下げて結晶の「成長」を観察した経験をもっている人も多いはずだ。まさしく生き物のようにそれらの結晶は増殖していったはずである。
 ケアンズ=スミスによれば、このような結晶のパターン転写能力が炭素系元素を含んだ粘土に「転移」したのが、現在の炭素系生命体の起源であるということになる。彼が「遺伝的乗っ取り」と呼んでいるのは、結晶における情報の複製能力が炭素系物質へ「転移」したという跳躍を指しており、そしてそれこそがDNAをもつ生命の起源だと言われているのである。興味深いことに、生命と深い関わりをもちながら、細胞をもたない遺伝子の断片にすぎないことからしばしば無生物だと定義されているウィルスの中には、タバコモザイク・ウィルスのように活動していない時には結晶化しているものがある。
 ノヴァリスからJ・G・バラードまで連なる鉱物や結晶への偏愛は、「冷たい」無生物でありながら情報を周囲にプリントするという結晶のこうした特性と関係があるのかもしれない。

文化とプリンティング
 ドーキンスの言う「ミーム」(文化的遺伝子)という概念は、明らかにケアンズ=スミスのこの「遺伝的乗っ取り」というアイディアから生まれてきたものである。つまり、「自己複製する情報子」というDNAの本質は、自然界においては結晶から引き継がれたものであり、そう考えてみれば当然もう一つの「自己複製する情報」である「人間の文化」に引き継がれるべきものではないかとドーキンスは考えたのだ。ミーム(meme)は、模倣(ミメーシス)という言葉を遺伝子(gene)と語呂を合わせる形で考え出された造語であるが、この言葉を用いることによって、ドーキンスは自然と言語という断ち切られた領域を、共に自己複製する情報によって支えられている過程として連続の相から捉え直そうとしたのである。ぼくたちがつけ加えておきたいのは、そこにプリンティングという過程が深く結びついているということなのだ。
 ところで、この考え方を受けて、いまや「人工生命」( Artificial Life = AL ) の伝道者となったハンス・モラヴェックは「第二の遺伝的乗っ取り」という仮説を立てている。
 すなわち、鉱物からの「乗っ取り」によって生まれたDNA系の生命は、次には「ミーム」によって「乗っ取られる」運命にあり、もはやDNAに頼らないスーパーコンピュータ上で作動する「電脳生命体」が現れるのが進化の必然であるというのである。コンピュータもまた「プリント」基盤技術というプリンティングと密接に関わった技術であることを忘れないようにしておこう。
 それはさておき、人間の言語や文化が、基本的には自己複製する情報という本質をもっていることは疑いないように思われる。生命の進化と同じように、それは単に過去の情報を複製していくだけではなく、その相互関係を新しく書き換え、新しい情報を次から次へと生み出していく働きをもっている。ぼくたちの文明が蓄えている知識の全体はまさしくこのようなプリンティングされた情報の集積にほかならないし、また未来の文化を作り出していくのもこのようなプリンティングの累積にほかならないのである。
 はるか古代の動植物が堆積土に埋められて、それが気の遠くなるほどの時間を経た後に化石となって掘り出されるのと同じように、過去の情報は、遺跡や貝塚、古文書や竹簡、記録やモニュメントの形でプリントされることによってぼくたちの記憶に「刷り込まれ」ている。
 それどころか考えてみれば、ぼくたちの日常的な記憶や表現それ自体が、目や身体を通して情報が脳に「刷り込まれ」、それが言語やさまざまな媒体を通して「刷り出される」という身体的な過程にほかならないのではないだろうか。言い換えれば、ぼくたちが情報のやりとりの中で生きている生物である以上、あらゆる局面でプリンティングの問題から離れられないのである。
 このような目が眩むほど複雑で広大なプリンティングの宇宙の中にぼくたちは生きている。「版画」とは実はプリンティングというこうした自然=生命=文化を横断する広大な領域の細分化された断片の一つにほかならないのだ。だが、それを断片のままにしておくのではなく、むしろ本来のプリンティングの巨大で深遠な活動性へと再び接合して考えてみるのもまた面白いのではないだろうか。
 次回もこうした問題を、今度はまた別の側面から考えていくことにしたい。

 

 

第三回〈他者〉と〈私〉



〈私〉を洗い流すこと
 一九六〇年代の初め、当時ハーバード大学心理学助教授だったティモシー・リアリーは自分の実験が生み出したあまりにも予想外の結果に驚いていた。
 彼が扱っていたのは「異常性格者」と呼ばれている精神病質者の集団であり、刑務所から出る度に同じような犯罪を犯してまた刑務所に逆戻りする集団だった。彼らは元々パーソナリティそのものに問題があると考えられており、どんなことをしても更正、あるいは治療することは不可能であると信じられていた。ところが、LSDを用いたリアリーの実験の結果、彼らのほとんど全員が「更正」してしまったのである。その後の彼らの再犯率はほとんどゼロであった。
 いわば絶対に変わらないものとされてきた個人の「人格」があっけなく変わってしまったのだ。それ以上分割されることのない最小単位として「個人」(individual)を置く欧米人の世界観にとってこのような完全な人格改造は大きな衝撃である。なぜなら、それがたとえ改良であれ、社会的適応であったとしても、このことはまさしく「洗脳」が可能だということに他ならないからだ。後にLSDは非合法のドラッグとして製造禁止の措置を受けることになるが、そもそも麻薬に対する強い忌避感覚の根本は、それが個人の「人格」の同一性を損なうものであるからにほかならない。
 しかしながらリアリーは実験を中止しなかった。それどころか、なぜそのような結果が得られたのかを徹底的に考えてみたのだ。LSDという幻覚剤がそこに関わっているのは確かであるように思われた。だが、なぜ幻覚剤の投与が人格を変える原因となるのだろうか。
 そこで彼が借りてきたのが動物行動学の領域で使われている「刷り込み」(imprinting )という概念である。鴨などの雛鳥は卵から孵って最初に見たものを母親と思いこむ性質がある。たとえばそれが人間であったり、あるいは単なる布切れであったとしても雛鳥はそれを母親と思いこんでしまい、けっして考えを変えない。だから、動物学者の後をいつまでも追いかけたりするし、また布切れの場合には飢え死にをするまでそばを離れない。このように一度学習されると後からは変更不能なプログラムを記憶回路に埋め込むことを「刷り込み」というのであり、それは多くの動物においても共通に観察できる現象である。
 リアリーは人間にもこのような「刷り込み」が(もっと複雑な形で)行われていると考えた。このように刷り込まれた情報は脳の中の情報伝達の回路を一定の形で規定し、それ以外の回路が閉じられてしまうことになる。リアリーによればそれが誤って「個性」と呼ばれているものなのだ。だが、人間の脳は多様な可能性をもっているのであり、通常は一つに固定されている回路=チャンネルを別のチャンネルに切り替えることもできるし、複数のチャンネルを開いてやることもできるのである。ドラッグが効果的なのは、それが脳の中で情報の洪水を引き起こすことによってこの刷り込まれた回路を一度「洗い流し」てしまうからであり、その後の再教育によって別な形での「再�刷り込み」を可能にしてくれるからである。このようなドラッグについてのリアリーの考え方の正しさは後に脳内麻薬の発見が証明してくれている。
 もし、洗脳が可能であるとしたら、それはポジティヴに考えれば、人間が自分で自分自身の「意識」を変革することができるということになるのではないだろうか。リアリーはドラッグを意識的に用いることによって、脳を進化させることを試みた。その後このドラッグカルチャーの教祖は長い間サン・クウェンティン刑務所に収監され、出所後は「新しいドラッグ」としてのコンピュータに肩入れし、サイバーパンクやヴァーチャル・リアリティに意識の進化の希望を託しながら、昨年この世を去っている。

刷り込まれた〈私〉
 だが、ここで「洗脳」や「脳の進化論」の話をこれ以上続けるのはやめよう。『脳内革命』などという明らかなインチキ本を取り上げるまでもなく、まだまだ原始的段階にすぎない現在の脳科学を意識や精神の問題に性急に応用するのは危険であるばかりではなく有害ですらあるように思える。そうではなく、ここではぼくたちの意識がまさしく「刷り込み」によって組織されているということを、別の角度からもう一度確認しておきたいのだ。
 人間は言うまでもなく二重の刷り込みから作られている。一つは生物学的刷り込み、すなわち遺伝子による刷り込みである。脳と身体はこれらの異なる遺伝子パターンの刷り込みによって作られており、それはさまざまな形で意識のあり方を規定している。そして、もう一つは環境的刷り込みであり、社会あるいは文化からの刷り込みである。人格や個性といったものは、この二重の刷り込みによって形成されているのだ。
 遺伝子による刷り込みについては前回も話をしたし、より詳細な議論は別な機会に残しておくことにして、ここでは環境による刷り込みに限定して話を進めてみたいと思う。
 環境による刷り込み、あるいは文化的、社会的刷り込みと言ったとき、人間の場合はどちらの場合もそこに「他者」が介在している。乳児は母親から言葉を覚え、子供は周りの大人たちや自分と同じくらいの年の幼児から振る舞いを学び、学校や大学でもやはり他者達からさまざまなことを学んでいる。ぼくたちにとって環境とはまずもって他者たちが構成する社会なのだ。
 だが、ここで重要なのは単にぼくたちが他人から大きな「影響」を受けているというようなことではない。そうではなくて、ぼくたちの意識の内部に潜む根源的な欲望や衝動までが他者によって刷り込まれている、すなわちぼくたちの「核心」が他者の欲望や衝動の投影・透写であるということなのである。
 ルネ・ジラールはこのことを「模倣的欲望」という用語で呼んでいる。つまり、欲望の対象(欲望は定義上必ず「○○に対する欲望」という形を取る)とは、私が模倣している他者の欲望する対象をコピーすることによって構築されるのであり、いわば「私の」欲望とは、他者の欲望の「写し」にほかならないのだ。もし私がある女を欲望しているとすれば、それは私の模倣している他者の欲望の対象だからであり、もし私が自動車が欲しいとすればそれも他者の欲望の対象だからである。他者こそがぼくたちの〈鏡〉なのであり、その相互投影的空間こそが私を〈私〉にし、〈私の欲望〉を作り出すものなのである。そして、言うまでもなくこのことはすべての他者にとっても同様なのである。私の欲望は常にレディメイドなのだ。
 だとすればぼくたちの自己意識の最も深奥にあるもっとも内的な欲望それ自体が、他者の欲望のプリンティングによって刷り込まれている外部であるということになる。つまり、「内」とは「外」の逆転写にほかならないのだ。

相互透写空間としての〈私〉
 繰り返しておけば、プリンティングとは情報の外部化のことであり、その複製化のことである。ぼくたちの自己とはこのようにして複製された無数の他者の情報のモザイクなのだ。その世界観も、人生観も、芸術観も、美的感性も、確かに「かけがえのない」個人がその人生の中で自分の力で身につけてきたものである。だが、それは同時に矛盾なく、すべてが借り物であり、他者の情報のコピーでもあるのだ。
 「自己」はこうして錯綜するプリンティングの無限の過程の中に解体されることになる。だが、ぼくはここでけっして「自己意識の危機」とか「アイデンティティの崩壊」とかについてベシミスティックに語ろうとしているのではない。むしろその逆に、このようなプリンティングの過程の直中にプロセスとして生成される「(非)自己」の空間の豊かな可能性についてこそ語りたいのだ。
 〈私〉の中に何一つ自前のものなどはない。すべては他者の借り物であり、刷り込まれた情報のシステムである。だが、それを〈私〉というシステムとして作り上げているもの��いわばスーパーシステムとしての、もっと根源的な意識の働きがそこには見いだせるはずである。この自己組織化、自己システム化の力こそ「意識」の最も根源的なはたらきなのだ。そして、だからこそぼくたちは自己意識を作り出し、組み替え、別のシステムに変容させることもできるのである。
 分割されない個人的な自己意識とかアイデンティティとかいう、これまでぼくたちが馴染んできた言い方こそ、あまりにも粗雑で幼児的な概念だったのかもしれない。オリジナルで変更できない自己という原始的な固定観念を捨て去った時に、初めてリアリーが語ったような「意識の進化」について考え始めることも可能となるのかもしれない。自己とはむしろ、こうした他者性の投射=透写の複雑な絡み合いが生起するプリンティングの対話的空間そのものなのだ。(了) 

 

 

第四回 コンピュータはクローン羊の夢を見るか?

ドリー

 二月二三日、ロンドン発の外電が世界中を駆けめぐった。
 朝日新聞は次のように伝えている。
「成長した羊から取り出した細胞を使って、もとの羊と遺伝的に全く同一のクローン羊を世界で初めてつくることに、英国・エディンバラ近郊のロスリン研究所が成功したことが二十三日、分かった。/つくり出されたクローン羊は『ドリー』と名付けられ、生後七カ月の現在も無事に育っている。/クローン動物づくりは、受精後間もない胚から取り出した細胞を別の未受精卵に移植する方法が確立され、優秀な牛の繁殖に応用されているが、成長した動物の細胞からクローンをつくるのに成功したのは初めて。/生物学上の画期的な成果といえる一方で、理論上は人間にも使える技術だけに今後、議論を呼びそうだ(後略)」。
 今回の出来事のポイントは、成長した羊から取り出した「体細胞」からクローンがつくり出されたというところにある。生殖細胞からクローンをつくり出すことは随分前から実用化されており、クローン自体はとくに珍しいものではない。だが今回の場合、成長した羊の乳腺から取られた細胞からクローンが作り出されたわけであり、ドリーという名前も大きなバストで有名なアメリカの歌手ドリー・バートンからつけられたそうである。このことは成長した高等哺乳類の成獣から完全な遺伝的コピーがつくりだされたことを意味しており、いわゆる「クローン人間」の出現の可能性を示唆しているわけだ。
 この記事を受けて、「ニューズウィーク」誌は早速、表紙にビーカーに入った三つ子の赤ん坊の写真を載せ、『クローン人間・動物のコピーは科学の快挙か神への冒涜か』というコピーを配したセンセーショナルな特集号を出した(日本版三月一二日号)。また、イギリス政府、アメリカ政府もきわめて迅速な対応をした。それはヒトのクローニングにこの技術を応用することに対する法的な規制を早急に検討すると共に、このような研究に対する資金援助を禁止するといったものである。また、ローマ法王庁もいち早くこの発表についての見解を発表し、言うまでもなくはこの技術の人間への適用を絶対に認めないというものだった。
 実験に成功したロスリン研究所のウィルマット博士は、今回の実験が家畜の改良を目的としたものであって、人間への適用は全く考えていないし、また倫理上許されるものではないとコメントしていたが、そんなことはおかまいなしに「クローン羊」の成功はただちに「クローン人間」をめぐるスキャンダラスな議論に押しつぶされてしまったのである。
 この事実から色々なことが浮かび上がってきた。何よりも「クローン人間」という、これまではSFの中にしかなかった概念が、にわかに現実性を帯びてきたことに対するヒステリックな反応が際だっていた。ヒステリックな反応とは、たとえば「ヒトラーのクローンが作られたらどうする?」とか、「クローンの存在自体が人間の尊厳を損なうものだ」といった、とうてい議論に値しない幼稚な意見までが、大新聞やテレビなどで取り上げられたという混乱を指している。
 クローンとは遺伝的に同一の個体のことだが、だからといって個体の完全なコピーというわけではない。たとえば、一卵性双生児は自然界が生み出したクローンであるが、言うまでもなくそれぞれの個体は独自の人格をもっており、性格なども異なっていることが多い。「ヒトラーのクローン」の話も同じことであり、要するに、遺伝子的に同一と言うことがそのまま個体のコピーということにはならないのだ。「二人っ子」ブームが同時進行していたこの国で、こんな双子の人権を深く傷つけるような言説が堂々とまかりとおっていたことも不思議だが、それだけ今回の混乱の深さを物語っている。
 実際には、専門家の間でクローン人間も「人間」であり、「人権」をもっているということに対する異論は少ない。それが臓器移植産業に利用される可能性があるということに対しても、双子のケースや遺伝的に近い近親者による移植のケースの延長で考えられるだろう。子どものない夫婦にクローンの子どもを作っても何もこれまでと変わらない。要するに「年齢の離れた双子」ができるだけのことにすぎない。基本的にクローンは「自然」なものなのだ。
 また、家畜や動物のクローンについては何の議論もされず、品種改良や薬品製造への応用がどんどん促進されているというのも奇妙である。その底には動物と人間とを画然と区別するキリスト教的自然観が横たわっていると思われるが、有性生殖の生物の進化に対して人間が勝手に介入することになり、再び生態系全体への影響が論じられなくてはならないはずだ。いわば『ジュラシック・パーク』が現実になりかかっているのである。

神経系のシミュレーション
 生命とプリンティングというテーマは第二回でも扱っている。そこで今回は違うテーマでと考えていたのだが、このドリー騒ぎをやはり見逃すことはできない。
 この騒ぎに典型的に見られるように、我々の周囲でこれまでの世界観や人間観が通用しない新しい事態が次々に生じている。その中心にあるのが、情報テクノロジーとバイオテクノロジーであるわけだが、バイオテクノロジーが基本的に生命の情報定義に基づいて成立していることを考えれば、情報テクノロジーこそがその中心にあると言っても過言ではない。いわば文明の「情報論的転回」というものが起こっているわけである。そして、それが広い意味での「プリンティング」というプロセスに関わっていることは、これまでここで繰り返し指摘してきた通りである。
 こんな風には考えられないだろうか?
 技術、あるいはテクノロジーというものはすべて、基本的には我々の身体の拡張であり、外在化であると考えられる。つまり、人間が棒を使ったり、武器を作ったり、あるいは滑車や車輪のような簡単な力学的装置を使ったりしてきたことは、結局は我々の身体器官の形態や機能のシミュレーション��すなわち歯や爪や拳などのプリンティング的延長��であった。ハンマーは腕の拡張であり、槍や弓矢も歯や爪の拡張であり、要するに生物学的な力を有効利用するためのテクノロジーであったと考えられる。
 次の段階で現れたのが、いわゆる産業革命の生み出したテクノロジーである。これは、蒸気機関やガソリン・エンジンといった動燃機関に基づく自動機械システムのテクノロジーだった。これらはすべて、生物学的身体における筋肉や運動系のシミュレーションであると考えられる。簡単に言えば、それは「力とスピードのテクノロジー」であった。これによって、わずか二百年、三百年ぐらいの間に、我々は力と速度においては、それ以前の数万年をかけて我々がやってきたことをあっけなく乗り越えてしまい、さらには数百倍、数千倍に拡大してきたわけである。産業社会とはこのようなテクノロジーに依存した文明形態である。
 ところが、情報テクノロジーというのはそれとも全く異なっているのである。もちろん、それが産業社会の延長線上にしか現れないものであることは言うまでもないが、コンピュータやディジタル・メディアといったテクノロジーは、運動系ではなくていわば神経系・認知系といった「情報伝達系のシミュレーション」なのだ。つまり、力やスピードを拡張するのではなく、人間が世界を認識して、世界に働きかけていく情報認知のシステムそれ自体が拡張されていくという新しいタイプのテクノロジーなのである。つまり、それ以前のテクノロジーが筋肉や運動系を拡張するものであったのに対して、情報テクノロジーは脳や神経系の機能を拡張し外在化するのだ。
 このような神経系のシミュレーション・テクノロジーとしての情報テクノロジーが基盤となるような新しい文明が誕生し始めた今世紀の中頃に、生命をもまた情報系として捉えるという見方が現れてきた。そして、クローン技術や遺伝子組み替えといった生命工学は、まさしくこのような情報論的な文明変動とシンクロしている問題なのである。
 したがって、生命工学の問題とはまさしく世界観や人間観の問題であり、巨大な規模で進んでいる文明変動の問題なのである。言い換えればそれは、近代的な思考の枠組みや倫理では捉えることができないものなのだ。

「近代」の揺らぎ
 「近代」とは、一番簡単な言い方をするなら、西ヨーロッパの一部地域の文明の形態が全世界を支配した数百年間のことを指している。そこでは、一方にはいわゆる客観的自然というものを置いて、それを科学的に研究することによって人間が好きなように利用できるんだという自然観、他方には、人権宣言に見られるような、人間というものは何にも替えられない自由でかけがえのない存在なんだというような人間中心主義が横たわっている。
 ところが、この近代的な世界観はこれまで見てきたような新しい情報テクノロジーと照らし合わせてみるときわめて折り合いが悪いものなのである。なぜなら、これまで人間が頭の中でやっていたことを、外部の自動システムが勝手にやってしまうことになるからだ。つまり、我々が意味を与えたり、アイディアをつくり出したりしてき�スことを、テクノロジーが自動的に処理してしまうのである。
 こうしたことが我々に大きな不安をもたらしている。なぜなら、近代的な世界観においては、我々が機械や自然を自由にコントロールできる全能の支配者でなくてはならないのに、ここでは機械や自動システムが勝手にやってしまう��人間は単なる自動システムの操作者にすぎないということになるならである。コンピュータが人間を支配する未来社会の悪夢や、人間が手を出してはならない領域に入り込んでいるのではないかといった意識はここから生まれる。要するに人間がコントロールできないことが始まっているということが恐いのだ。クローンの問題はまさしくここに位置しているのである。
 だが、今回はここで紙数が尽きてしまった。我々の文脈ではそれは「プリンティングの自動システム化」の始まる写真以降のアートや表現と深く関わっている問題である。尻切れで申し訳ないが、クローンと現代美術のこの結びつきについては次回にまわしたい。(了)

 

 

第五回 写真とテクノコード



写真の「誕生」
 「写真」という自動システムに基づくプリンティング・テクノロジーが出現したことの歴史的意味は、長い間正しく捉えられたことがなかった。いや、それどころではなく、現在においてすらそれはかなり怪しいと言わざるをえない。はっきりしていることは、写真が出現して以降、ぼくたちがそれに魅惑され続けてきたこと。そして、何よりもそれがぼくたちの文明の形態を大きく変えてしまったということだけだ。
 ジャック=マンデ・ダゲールといういささかいかがわしいパノラマ館の絵師上がりの男が写真の発明者ということになっている。だが、一体何が「発明」されたというのだろうか? 一八三九年にアラゴーによってアカデミー・フランセーズで発表されるや一大センセーションを起こしたと伝えられる彼のダゲレオタイプは、一体どのような種類の「発明」だったのだろうか?
 それよりも十年以上も前の一八二六年、ジョセフ=ニセフォール・ニエプスが最初の風景写真を発表している。ニエプスは銀化合物による光に感応する薬品を発見し、それを当時ごく普通に見られる装置であったカメラ・オブスキュラと組み合わせ、窓の外の景色を定着させたのだった。
 カメラ・オブスキュラとはレンズと鏡を用いて風景を手元に投影してトレースをするためのものであり、当時の画家たちの間ではかなり普及していた道具であった。ニエプスは自らが発見した感光剤の能力を証明するために、この装置をそれほど深い考えもなく利用してみたのである。その時にこの写真に異様な関心を寄せ、ニエプスに手紙を書いてきたのが、当時パノラマ館でさまざまな視覚的トリックの実験を続けていたダゲールであった。
 ダゲールはニエプスと共同で写真術の開発に当たり、一八三一年には最初のダゲレオタイプを、三七年には現像から定着までのプロセスを完成させている。また、同じ頃イギリスのタルボットは独自の方法で写真術を完成させていた。技術的には何も難しいことはなかったのであり、ダゲールが写真の発明者になったのは偶然にすぎない。したがって、一八三九年という年は「写真」の発明ではなく、実際には「ダゲレオタイプ」というシステムが大々的に発表された年にすぎないのである。
 ここには何か特別に「発明」されたものは何もない。原理的には既にありふれた技術であったカメラ・オブスキュラに感光剤が組み合わされただけのことである。ダゲレオタイプとは、撮影�現像�定着という写真の工程を一定の手続きにまとめあげた、いわばプログラムのようなものなのだ。写真という特殊な視覚データの形式がその上で成り立つプラットフォーム、いわばオペレーティング・システム(OS)なのである。それは、蒸気機関車や自動車の発明よりも、どちらかと言えばマッキントッシュやウィンドウズ95の発表とよく似た事件だったのである。
 このダゲレオタイプという標準的なOSの上に、さまざまなアプリケーション・ソフトウェアが作られ、さまざまな文化的生産が積み上げられていく。同じようなプリンティングの自動システムとしての録音術や映画、さらには電子メディアが現れ、ぼくたちの世界はおびただしい数の写真や映像で覆い尽くされるようになっていったのだ。
 このような映像はそのうちに、生まれた時からぼくたちを魅惑し、方向付け、作り上げていくものとなった。子供向けの雑誌に印刷されたレーシングカーや飛行機の写真、怪獣ものや時代劇などの映画、さまざまなテレビ・アニメーション、雑誌の中で微笑むアイドルスターたち……これらのすべてがぼくたちの人格の奥深くに刻み込まれ、欲望を方向付け、いわばぼくたちをプログラミングしているのだ。ぼくたちは、映像でよく知っている景色を追体験するために世界中を旅行し、新聞のカラー写真で見た絵を見るために美術館に足を伸ばし、ピンナップガールのイメージに駆られてガールフレンドをみつけようとし、外国のロックバンドに魅せられて自分たちでバンドを組んだりし、そして結局はまるでどこかで見たような病院の風景の中で死んでいくのである。
 したがって、写真の誕生はただ単に新しい道具の出現であったのではなく、ぼくたちの世界体験そのものを形作る基本的な組織化の原理の変容でもあったのだ。それは経験の意味を変え、人間の生の根源的なあり方を変え、ぼくたちの感覚の組立てを変えたのだ。端的に言って、それは文化の基本的コードの転換を作り出したのである。

テクストからテクノコードへ
 ヴィレム・フルッサーの『テクノコードの誕生』(村上淳一訳、東京大学出版会)によれば、人間はこれまで二つの大きな「コード変換」を経験してきた。その二つとは「文字テクスト」の発明と「テクノ画像」の発明である。
 言うまでもなく人間のコミュニケーションは世界それ自体ではなく、文化的コードによって整序された「記号」を基盤にするものである。それは世界についてのコミュニケーションではなく、世界の「記号」についてのコミュニケーションなのである。このコミュニケーションの歴史の中で最初の大きな亀裂は「文字テクスト」の誕生であった。
 文字テクスト��とりわけ線的な表音文字によるテクスト��が誕生する以前、主要なコードは「画像」であった。入れ墨や紋様や絵文字が世界を象り、呪術的な世界観が人々を支配していた。それに対してテクストのコードは世界の表象を概念化し、それを線形的に配列することによって「歴史」を作り出した。それは線形的なコードを組み立てる規則によって諸記号を論理的に関係づけ、イメージから計算へ、情景から歴史への跳躍を作り出したのである。世界と世界の中の生は、人間の在りようをプログラミングするさまざまなコードのネットワークにおいて体験・認識・評価されるものであるが、フルッサーによれば、西洋のコード化された世界がほぼ三千五百年前に始まって以来、テクストのコードこそが主要な情報の搬送者であった。そして、それはほぼ紀元前千五百年頃(アルファベットの誕生)、紀元前八百年頃(ホメロスと預言者のテクスト)、紀元千五百年頃(印刷術の普及)、紀元千九百年頃(テクノ表象の進撃の開始)という四つの転機によって語られている。第一の転機においてそれが出現し、第二の転機において支配的となり、第三の転機においてそれは頂点を迎え、第四の転機において支配的なコードの地位から転落したというのが彼が主張するシナリオである。
 彼によれば現在は、写真・ヴィデオ・CGといったテクノ画像のコード(テクノコード)が支配的になりつつある時代である。なぜなら近代において頂点に達したテクストのコードはもはやわれわれに世界に関する新しい意味を与えてくれなくなったからである。
 元々テクストが出現したのは、それ以前のイメージによる呪術的コードがもはや新しい意味を与えてくれなくなり、その結果自分たちの生が無意味化に陥りかけた時であった。それと同じように、印刷テクストの氾濫は、テクストを説明するテクスト、テクストについてのテクストを数多く生み出し、テクストによって世界が秩序づけられるよりも、むしろそれを複雑にし、不可解に見えるようにしてしまったのである。テクストは本来表象を解明し、意味に変換し、物語るためのコードである。それが世界の意味を開示するのではなく遮蔽する段階に達したとすれば、いまやコミュニケーション・コードとしてのテクストは破産したとさえ言えるだろう。
 写真に始まりコンピュータに至るテクノ画像は、こうしたテクストのコードの危機に際して現れた新しいコミュニケーション・コードなのである。それは、一見するとテクスト以前の画像に似ているが、全く異なる形で組織されたものである。前者は記号だが後者は写し取られた情景自身の痕跡=反映だからだ。それは情景に意味を与えるのではなく、もはや意味を与えられなくなった概念に意味を与える。つまり、テクストが画像の概念化のコードであるとすれば、テクノ画像は概念を再表象化するコードなのだ。したがって、テクノ画像は、「世界�画像�テクスト」という連鎖の下につけ加えられる新しい項目となる。彼によれば写真は「世界についての像をもとうとする写真家の試みではなく、写真家が画像についてもった概念についての像をもとうとする試み」であり、「アルファベット前の画像が世界に意味を与えるものだったのに対して、テクノ画像は、世界に意味を与える画像に意味を与えるテクストに意味を与えるもの」なのだ。

テクノ画像と現代美術
 フルッサーのいうテクノ画像が支配的な文化のコードとなったのは今世紀の初め頃ということになる。ちょうどその頃現代美術の世界でも大きな変化が押し寄せてきていた。たとえば、ピカソの『籐椅子のある静物』(一九一一)に始まる「コラージュ」の手法や、同じ頃マルセル・デュシャンの手によって始まったレディメイドは、現実の断片を直接的に表現の領域に持ち込むことによって、世界と画像の二つの次元をショートさせたような新しい表現の世界を作り上げた。だが、かつてベンヤミンが鋭く見抜いていたように、これは現実の痕跡を切り取ってきて新しい文脈に再配置するという点において、ちょうど映画のモンタージュと同一の操作を行っていたのである。いわば、それらの表現は画像ではなくテクノ画像の操作を無意識的に行っていたわけだ。 
 ダダイストたちによるフォトコラージュ、アンディ・ウォホールによる見慣れた映像の無際限の増殖、シンディ・シャーマン、リチャード・プリンス、森村泰昌らによるテクノ画像の再配置に基づく作品などは、いずれも世界についての画像を作り出すのではなく、写真以降の自動システムが作り出すテクノ画像の地平を基盤にした表現なのである。フルッサーにならえば、それらはいわば「世界についての像をもとうとする試みではなく、画像についてもった概念についての像をもとうとする試み」であり、ぼくたちの経験世界を構成する夥しい数のテクノ画像の地平そのものの上に成り立つ表現であるということになる。したがって、そこでは従来の美術に向けられる視点では捉えられない新しい事態が生じていることになるだろう。たとえば、制作=受容の意味や、作者のポジションなどが従来の表現とは大きく異なっているであろうことがただちに予想される。
 また、さらにはヴィデオアートやメディアアートといった、それ自体がテクノ画像を作り出す自動システムに基盤を置く表現の登場もこのような視点から捉え直されなくてはならないだろう。それでは、それらは一体どのようなものなのか? 次回はこうした問題について考えてみたい。

 

 

第六回 写真とテクノコード2



<写真という自然>
 話を先に進める前に、ちょっと回り道になるかもしれないが、前回書ききれなかったことを少し補足しておきたい。
 写真は世界中で毎日おそらく何千万枚、いやおそらくは何億枚も生産されている画像である。さらに写真という言葉を技術的に作られた人工的イメージ一般にまで広く解釈するならば、それはテレビや映画、CGなどのディジタル画像を含むあらゆる映像を包含しており、こうなると日々生産されている写真イメージはもはや枚数の単位では数えられない天文学的な量となるだろう。
 ぼくたちは毎朝目覚めて朝刊を読み、テレビをつける度に既に無数の写真イメージと出会っており、町を歩いていても、駅のホームでも、電車の中でもやはり数多くの写真イメージと顔をつきあわせている。考えてみれば、写真はぼくたちの周囲をほとんど隙間無く埋め尽くしており、もはや写真なしの都市生活を考えることはほとんど不可能と言ってもよい。それはぼくたちの第一の「環境」となっしまっており、現実の世界以上にリアルな現実(ボードリヤールの言う「ハイパーリアリティ」)を作り出しているのだ。ここで「第一の」と書いたのは別に書き間違いではない。実際のところ自然やナマの現実はぼくたちにとってもはや「第二の環境」にすぎないものになってしまっているのだ。
 現代の多くの子供たちにとっては、コンピュータゲームの方が昆虫採集よりもずっと身近で現実的(リアル)な体験である。子供たちばかりではない。生まれた時からテレビを毎日何時間も観てきた世代の人間は、旅行、恋愛、夫婦生活、そして不倫に至るまで、生活の仕方全般をテレビ(や技術的映像)が分節する仕方を模倣して組織化するようになってしまっている。いわばテレビという洗脳光線に毎日何時間も晒されることによって、それらが提供する解読格子なしには現実を現実として経験できないようになってしまっているのだ。もはや、世代の共通体験は「ウルトラマン」や「仮面ライダー」を同じ年頃に見ていたというようなことにしか見いだせなくなってしまってからずいぶん久しい。

<イメージの権力>
 あなたがいま旅行をしたいと思っているとしよう。なぜ旅行がしたいのか? それは、電車や駅で見かける旅行代理店のポスターに、テレビの旅行番組に、あるいは雑誌の旅行記事に囲まれて生活しているうちにいつのまにか無意識の中にそうした欲望が埋め込まれたからではないだろうか。
 あるいは、どこに旅行したいと思っているのだろうか。カナダか?オーストラリアか?ヨーロッパか?それともどこか違った場所にか?……いずれにしても、それらの土地に旅行してみたいという欲望を生み出したものも、やはりどこかで見かけた観光ポスターや絵はがきの人工的イメージの集積ではないだろうか?
 実際のところ、たとえばパリに行ってエッフェル塔をバックに絵はがきそっくりの構図で記念写真を撮らないで帰ってくる旅行をすることは難しい。しかもそれを嫌ってエッフェル塔に行かないからといって、そこから自由でいられるわけでもない。なぜなら、ぼくたちは結局はあらかじめ何らかの人工的イメージによって知っている場所にしか旅行することができないからだ。そうでなければ、そもそも目的地を探すことすらできないはずである。観光旅行とは人工的イメージそっくりの風景を見に行く移動の形態にほかならない。それは無銭旅行やヒッチハイクをしたところで変わらない。「地球の歩き方」や「何でも見てやろう」や「猿岩石日記」といった先行するイメージなしには、それらの旅行モードそれ自体が不可能だったはずだからである。結局は何をしても自分をそうした先行的イメージに重ね合わせることによってしか、そのような旅自体が成立しないのである。ぼくたちが旅行可能な空間は人工的イメージによってあらかじめ分節された空間であり、その外部は存在しないのだ。たとえ宇宙旅行をしてみたところで、事情は全く変わらないだろう。
 思春期にはもっと悲惨なことになる。性的欲望のコントロールが難しくなるこの時期には、恋愛物のマンガやテレビドラマ、性的情報が氾濫する雑誌、さまざまな商業的ポルノグラフィがこれらの欲動を制御するコードとして参照されることになる。「素敵なカップル」になるために引用されるこれらのコードは、「どんな場所でデートをするか」「どこで食事を取るか」「ファーストキスはいつすればいいか」「どのような幸せなエンディングとどのような別れがありうるのか」といった細目に分化しており、その最適な組み合わせを提供する情報誌はますます売り上げを伸ばしている。これらのコードに自分をシンクロナイズすることができないか、あるいは「カレ/カノジョ」をもつことのできない人間は自らを人格障害のある存在とみなすか、あるいは「オタク」とか「○○教信者」という別の存在モードに乗り換えるしかなくなるのである。
 こうした例はいくらでも挙げることができるだろう。いずれの場合にも、直接の経験によって学んだ情報よりも、人工的イメージの蓄積によって媒介された間接的情報の方がより深くぼくたちの無意識に浸透しており、いわば第一の「自然」と化してしまっていることを意味している。この原稿を執筆している現時点でも、ワイドショーは不倫関係にある中年男女の心中事件の多発を伝えているが、『失楽園』という小説の映画化やドラマ化との関係はあからさまである。余りにも安っぽい死--しかし、死すらももはや表層的な人工的イメージによってしか意味づけることができなくなっているのだ。

<コードとテクノコード>
 もちろん、こうした現象は写真出現以前に全くなかったわけではない。
 記号を用いる生物である人間は、もともと経験を記号によって意味づけることによってしか世界との関係を作り上げることができない。ぼくたちは世界や事物を直接経験しているのではなくて、記号に変換することによって経験する存在なのである。たとえば、山とか雲とか空とか霧といった名前のモノが人間なしに初めから存在しているわけではないし、電話機とかコンピュータとかテレビとかいったモノが自立して存在しているわけでもなく、それらは人間が世界を記号として構築する仕方(コード化の様態)を意味しているにすぎない。したがって記号を配置する仕方だけが重要なのであり、そのような配置のモードがぼくたちの生に意味づけを与えるのは、人類が生まれて以来恒常的に続いている人間の宿命のようなものなのである。
 だから、先史時代から既に、人間は想像力が生み出した妄想にすぎない神に祈り、生け贄を捧げ、命をかけてきた。また、英雄や有名人の髪型や服装を模倣したり、詩や演劇や文学に影響を受けて革命や戦争を起こしたり、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に影響を受けて簡単にピストル自殺をしたりしてきたのである。情けないが、人間とはそのように自らが生み出した記号によって生きることが可能になると共に、それに支配され、それに滅ぼされる宿命をもった存在なのである。
 だから、ここでぼくが言いたいのは右に述べてきたような人工的イメージの支配から解放されなくてはならないということではない。この連載のテーマから言えば、「プリンティング」と「映し/写し/移し」というプロセスによって反復される記号の支配から自由な人間の生などかつて存在しなかったし、人間が人間である以上未来永劫存在しないだろう。むしろ、簡単にそこから脱出して自由に生きることができると思いこんでしまう方がずっと問題だと思う。たとえば、自然とのふれあいを回復しようとして、四輪駆動車で山や海岸を駆けめぐる「アウトドア・ライフ」や、過疎の農村に移り住む特定の文化人や芸術家の主張するシンプルな生活や、「人間らしい生き方への回帰」といった主張がそこから自由なものだとはとうてい思えない。こうした態度は、この百年間続いており、これからも続くであろう歴史的な必然性から目を背けているだけのことにすぎない。重要なことは記号の支配の外部に抜け出そうとすることではなくて、その支配のモードを理解し、あくまでもその内部に残された自由の可能性を探ることではないかと思うのである。
 そのように考えてみると、写真やコンピュータに象徴される技術的映像が作り上げるコード編成をそれ以前の支配的な文化コードの編成(絵画的イメージ、文字テクスト)と比較して、その特性を綿密に分析していく作業がどうしても必要であるように思える。なぜなら、現在ぼくたちの生が支配されている写真的イメージによる記号の組織化は、たとえば少し前まで優勢だった文字テクスト(書物)による記号の組織化とは、根本的に異なる原理に基づいているものと思われるのだが、にもかかわらずぼくたちの文化の方がまだこの新しいコード変換にうまく対応することがでないということが、ぼくたちの生を救いようのないほど貧困化させていると思うからだ。古い枠組みにしがみついているうちに、ぼくたちはどんどん自分の頭で考えることもできない状態に追い込まれている。したがって、いま緊急に求められているのは、文化コードの急速なテクノコード化に対応する新しい理論の枠組みなのだ。
 前回少しだけ紹介したフルッサーの写真論やテクノコード(技術的画像による記号の組織化原理)の分析が重要だと思われるのもそのためなのである。

 

 

第七回 情報文化の行方


 前回述べたように、現在「情報化」という名前で呼ばれている文明論的な地殻変動の核心にあるのは、支配的な文化コードの変容である。そして、現在このような動きの中心にあるのが「コンピュータ文化」とか「マルチメディア文化」とか呼ばれている問題圏である。だが、残念ながらこれらの言葉はあまり適切なものとは言えない。適切ではないと言う前に、まず何よりもきわめて不明確である。そこで今回はコンピュータ・カルチャーをめぐる諸問題について考えてみたい。

コンピュータ文化/マルチメディア文化
 そもそも「文化」とは何だろうか? 「耕作」とか「培養」とかいう語源的な意味を別にすれば、少なくとも近代に入ってから「文化」には大きく言って伝統的な二つの捉え方があったように思われる。その二つとはいわば「アートとしての文化」と「コミュニケーション形式としての文化」である。つまりひとつはマシュー・アーノルドがかつて定式化したような「世界においてこれまで思考され言表されたもののうち最善のもの」といった文化観であり、オペラ、バレー、演劇、文学、美術といった古典的な美的形式の鑑賞に由来するものである。「文化勲章」「文化庁」「文化政策」といった熟語が指し示しているのは明らかにこのような「文化」のことであろう。
 だが、それに対して、ヘルダーに由来しており、今世紀になって人類学や社会科学の進展と歩みを合わせるように急速に強力になってきたもう一つの文化観がある。たとえば、レイモンド・ウィリアムズは次のように書いている。
 「……芸術や学習だけではなく、諸制度や日常の行動における特定の意味や価値を表現している生活の特定の仕方。このような定義からなされる文化の分析は、特定の生活の仕方、特定の文化において、明示的、暗示的に示される意味や価値の解明となる」。
 すなわち、いわば「生活の仕方全体」としての文化--料理、衣服、日用品、スポーツ新聞、ダンスミュージック、漫画、放送、競馬、プロスポーツ等々を含んだ文化の捉え方である。ここでの「文化」はぼくたちの生活全般にわたる「コミュニケーション形式」を指しており、サブカルチャーやライフスタイルのすべてが「文化」と考えられるのである。
 グローバリゼーションが進行する現在の社会の中で、この後者の文化観はますます強力なものとなってきている。ところが、コンピュータ文化とかマルチメディア文化について議論される時にいつも言及されるのは前者の方の文化観だけなのだ。そこではコンピュータ、あるいはコンピュータ・テクノロジーを用いたマルチメディアがどんな「アート」を作り出すのかということだけが考えられているのである。
 もちろんここでの「アート」の中には映像や音響、あるいはヴァーチャル・リアリティなどのジャンルも含まれてはいる。だが、いずれにしてもコンピュータ文化が、「コンピュータという装置を用いた新しい芸術文化」にだけ限定されて捉えられているということは間違いがないだろう。だが、そうだとするとたとえば絵画などの「アナログ文化」と対立するものだけが「コンピュータ文化」ということになってしまうし、コンピュータ・テクノロジーが普及することによってぼくたちの生活やコミュニケーションスタイル全般にもたらされる大きな変化は見過ごされてしまうことになる。ただ単にCGやコンピュータ音楽だけがコンピュータ文化であるとしたら、そんなものは改めて問題にするほどのこともないのではないだろうか。
 したがって、ここでも文化を生活やコミュニケーションの全領域に広げて考えていく視点が必要なのだ。コンピュータやパソコンそれ自体ではなく、それらが作り出す新しいコミュニケーション環境の全体的な変化こそがコンピュータ文化の外延として考えられるべきなのである。

新しい社会的環境としての情報文化
 マーク・ポスターはインターネットに関する論文の中で、人々がしばしば口にする「インターネットが社会にどのような影響を与えるか」とか「インターネットを使ってどんな新しいことができるだろうか」といった問題設定自体が根本的に間違っていると言っている。なぜなら、彼によれば「インターネットはハンマーのような道具なのではなくドイツのようなもの(社会的空間)であり、すなわちその効果はただの人々をドイツ国民にするといったもの」だからである。
 つまり、彼がここで言いたいのは、インターネットが従来の社会的空間の中に何らかの変化をつけ加えるのではなく、インターネットが新しい社会的空間そのものを作り出すということなのだ。だとすれば、インターネットは道具として従来の社会のニーズに応えるものというよりも、これまで存在しなかった全く新しいニーズを生み出すと共に、従来のコミュニケーション空間をも全く新しい意味づけで塗り替えるようなものであるということになるだろう。
 コンピュータ文化やマルチメディア文化についてもこれと全く同じことが言えるはずである。つまり、それらは「コンピュータを使って何ができるか?」というような問いとは全く次元を異にする問題設定の中で捉えられなければならない。それは狭い意味でのコンピュータや新しいテクノロジーにだけ関わるものであってはならないのだ。それはディジタル情報処理が支配的な文化コード編成の場となった新しいコミュニケーション空間そのものなのであり、その意味でコンピュータ・オリエンティング・カルチャー(コンピュータが導き出す文化)という最も広い意味で捉えられるべきなのではないだろうか。
 だとするとコンピュータ文化やマルチメディア文化というよりも「情報文化」という呼び名の方がより適切かもしれない。それは、いわゆるアートの領域に関わるだけではなくサブカルチャーや生活様式全体に関わるものとして構築されなくてはならないし、それどころかいわゆるディジタル・カルチャーだけではなく、演劇、舞踊、油絵、版画といった「アナログ」な文化までのすべてを包括するものでなくてはならないはずだ。読者の皆さん、「版画」もまた情報文化なのである。
 なぜ、そんな風に考えなくてはならないのだろうか? なぜ、従来の芸術や表現文化の「外側」にコンピュータ・アートやディジタル・カルチャーをつけ加えるだけでは不十分なのか? なぜなら、新しいメディアというものが普及し、支配的になるときに、それは必ず従来のコミュニケーション空間を大きく変容させるものであるからである。つまり新しい文化コードは文化全体の構造変動を引き起こさずにはおかないのだ。
 たとえば、電話を例に取って考えてみよう。電話はきわめて便利な(ハンマーのような)ツールに思えるかもしれない。それは遠くの親戚や友人とじかに会話をすることを可能にしてくれる技術であるように思われる。だが、実際は逆なのだ。電話が出現したことによって「遠くに住む親戚や友人」という社会的関係が新たに出現したのである。つまり、それまでは旅行するか、手紙を出さなくては連絡を取ることができない友人などというものは、ほとんど存在できないか、存在できたとしてもごく少数の例外にすぎなかったはずである。したがって、電話は遠くの知り合いと連絡を取る便利な手段なのではなくて、遠くの知り合いという存在そのものを生み出し、新しい社会的関係とコミュニケーション空間を作り出したメディアと考えられるべきなのだ。
 そして、この新しいコミュニケーション空間の中では先行する従来のメディアの意味や役割も大きく変化することになる。たとえば、電話が普及することによって「手紙」の役割や意味合いは大きく変化した。そこには「わざわざ手紙にする」という新しい意味が加わったのである。郵便しか連絡を取る方法がない時代の手紙と、電話も電子メールもFAXもポケベルもある時代の手紙とでは、その存在の様態と意味が著しく異なってくる。
 それと同じようにディジタル情報処理とネットワークが支配的な文化的コードとなる社会においては、旧来の(アナログな)表現領域も大きな意味変容を受けざるをえないのだ。版画は元々最先端の複製技術として登場したが、印刷機械の普及と共に「手の温もりを残す」表現ジャンルに意味変容した。演劇はたかだか数百人の人たちしか観ることのできない限定された芸術だが、映像技術とメディアの拡大によって、国際的に注目される演劇祭まで行われるようになった。写真が出現して以降「写真のような絵」は軽蔑されるようになった……等々。こうした例はいくらでも挙げられる。
 そして、それと同じことが情報文化についても言えるはずである。そこでは従来の表現文化の土台そのものがこれまでとは全く異なるものに変容していかなくてはならない。

   ポイントはどこにあるのか?  残された紙数が足りなくなってきたので、詳細はまた次回以降に回すとして、ここでは来るべき情報文化の未来を考える上でのいくつかの重要なポイントを指摘しておくだけにしたい。

1、情報はモノ(リソース)ではないので、時間・空間に限定されず、希少性に限定されず、磨耗せず、全員が共有することができる。むしろ、共有されることによってその価値は増大する。つまり、モノの価値が専有されることによって生まれるものだとしたら、情報の価値は共有されることから生じてくる。
2、編集の自由度が高いこと。コンピュータとは感覚情報の汎用プロセッサであり、そこでは感覚情報と経験のすべてをディジタル情報に変換することができる。したがって、アナログ/ディジタルの区別は少なくともディジタル・メディア上では消滅する。アナログかディジタルかという二項対立は近い将来消滅するであろうし、いずれにしても大きな問題ではない。
3、自由にネットワークを作ることができる。このネットワーク空間を生きられる空間としてデザインしていくことが必要である。
4、プログラム-装置-人間の絶えざるフィードバック過程が生じ、そこでは人間が表現の主体ではなくなる。こうした装置=人間の新しい結びつきがコンピュータ文化の未知の可能性をかたちづくる。

 おそらくこのような指摘に反発や抵抗を感じられる方も多いだろう。次回はもう少し突っ込んでこうした問題を考えていきたい。(了)

 

 

第八回 情報文化とアート



自由な技術?
 この連載を続けてきた二年間で日本社会は大きく変わった。経済危機や政治の混迷が続いているばかりでなく、大きな社会的事件や凶悪な少年犯罪が頻発し、戦後の日本社会が歩み続けてきた道が改めて根底から問われ直されるようになってきている。こうした変化は日本の国内ばかりではなく、世界的な潮流でもある。ぼくたちが歴史的とも言える大きな転換期にさしかかっていることは間違いないだろう。
 日本はこの危機からそう簡単に立ち直ることはできないだろう。特に経済状況はこれから確実にますます悪くなっていく。後の話にも関係があるが、現在の金融危機などはほんの序曲にすぎず、2年後から5年後にかけてさらに大規模な経済危機が襲ってくることはほぼ間違いなく予測できる。
 巷間「バブルのつけ」という言葉が囁かれている。確かにバブル期の膨張した経済が日本社会に残した傷跡は大きい。しかしながら、それではその「つけ」を清算しさえすれば元通りになるかと言えば、そんなものでもないだろう。ぼくたちの文明を成り立たせている基盤構造自体が、ゆるやかにではあるが、確実にその根底から揺らぎ始めている限り、時計の針を戻して冷戦期の体制に逆戻りさせることなどはできないのだ。古い枠組みにしがみつくのをやめて新しい組織や生活スタイルを作り出すことができる人々と社会だけがそれを乗り越えることができるのである。したがって、それは数年といった短期的な時間単位ではなく、数十年、あるいは半世紀といったスパンを必要とする試みとなるだろうし、単に経済や政治ばかりではなく文化全体や生活様式を包含した広範な生活革命に関わるものとなる。
 したがって、今度ばかりはアートや表現の世界に関わる人々も無関心ではいられない。なぜなら、この地殻変動は芸術や表現という行為を成立させてきた地盤そのものに関わる変動でもあるからである。簡単に言えば、もう芸術だの表現だのと言っていることはできなくなる。だが、それは悪い意味でそうなのではなく、いい意味でそうならなくてはならないのだ。
 近代化の過程にあった戦前の社会や、戦後の高度経済成長期には、アートや表現の世界はこうした世の中の流れと無縁で居られるという幻想の中に住みつくことができた。経済や政治、さらには科学やテクノロジーとは切り離された居留地、あるいは人工楽園がアートや文学の世界であるという虚構は、過渡的な近代においては必然的に要請されてくるものだった。
 一八世紀の末にカントはすでに「報酬のための技術」に対する「自由な技術」という概念を立て、芸術は報酬を求めない自由で自律的な戯れとしての技術であると書いている。
 金儲けやイデオロギーに捕らわれない自由な活動としての芸術という理念は、しかしながら、芸術が経済活動や政治活動から無縁であることを意味しない。それは自律的な領域であると仮構されることによって、むしろ他の社会的活動を媒介し、橋渡しする重要な経済的・政治的領域として機能してきたのだ。芸術のパトロンたちはそうすることが自分の「利益」につながることをよく知っていたからこそ芸術家たちを援助したのだし、今世紀におけるベストセラー市場や美術市場の形成は、経済的・政治的領域の「外部」にある特殊な「資源」としてアートを商品化してきた。
 こうしたアートの商品化の流れが急速に進行したのが八〇年代の日本だった。評価が定着した美術作品はあからさまに投機の対象となり価格が高騰し、豊かさの象徴として各地に作られた「美術館」に法外な価格で買い取られた。それまでは貸し画廊で展示された後は単なる粗大ゴミでしかなかった現代美術系の作品も急速に商品化され、学校の先生にならなくても食べていける美術作家が数多く現れるようになった。みんながこれがいいことだと思っていたのが不思議である。今更古いタイプの「文化国家」になってそれがどうだと言うのだろう。

アートの終焉
 だが、逆に言えばそれは芸術や表現の資本主義システムに対する最終的な敗北にほかならないのである。それらは市場化された戯れ、デパートや展示会で切り売りされる商品にほかならない。そうではないものがどこにもないと言っているのではない。だが、少なくとも従来の芸術とか美術とか文学とかといった枠組みの内部にいる限り、けっしてそこから抜け出すことはできないだろうと言っているのだ。言い換えれば「芸術」や「表現」という枠組みにこだわっている限り、表現は資本主義システムの「部品」であること以外のいかなる存在様態も許されないということなのだ。
 ぼくがこの連載を始めたときに「ジャンルとしての版画」には何の関心もないと述べ、もっと広い「プリンティング」という視野から考えてみたいと書いたのはこうした意図からであった。「版画芸術」という誌名をもつ雑誌にそんなことを書いたところで仕方ないとは思うが、それでもはっきり言ってしまえば「版画芸術」などというものはどこにも存在しないし、そもそも「版画」などとという独立した美術ジャンルが存在すると思うこと自体、もはやナンセンス以外の何ものでもないのである。「西洋近代美術」という、とりあえずは数百年続いた文化制度自体が空洞化し、存在意義が失われつつある時代に、そんなサブジャンルにこだわっていてところで仕方ないではないか。もう手作りの味とか反近代主義とかに何かの文化的価値があると思うのはやめた方がいい。そんなのは歴史が停滞しているように思われた冷戦時代にだけ通用した戯言にすぎない。もちろん編み物をしている主婦にも、備長炭を作っている炭焼きにも優れた技が残っているし、もの作りの過程の中で人格的な魅力が熟成されていくというようなこともこれまでもずっとあったし、これからもあり続けるだろう。そうしたこと自体を何ら否定するものではない。ただ、それが「芸術」や「表現」の一ジャンルであって、何かしら新しい文化的創造に結びついているというような、誤って広く共有されている虚構を真っ向から否定しておきたいだけである。
 したがって、アートや表現が経済や政治や科学から切り離された自律的な文化領域であるという幻想は、今や内側から転倒されなくてはならない。もはや、自由な技術と報酬のための技術の二項対立では何も語ることはできなくなっているのだ。資本主義システムの内側では報酬のための技術/あるいは結果的に報酬のための技術しか存在しえないのであれば、むしろどんな場所にあっても「自由な」技術が生き残る可能性を信じていくしかないだろう。そして、それは従来の表現ジャンルや芸術という制度に限定されるものである必要はないし、むしろそうではないところにこそより大きな可能性があると思われるのである。自由な技術とはまた、「自由を作り出す技術」にほかならない。それではそれはどのような技術なのだろうか?

情報文化としてのアート
 前回、芸術もまた情報文化であると書いた。アートは元々情報のエンジニアリングだったのだ。情報文化の特性は「共有による価値の創出」である。情報の文明はモノの文明に対立する。モノの文明は共有ではなく「専有」あるいは「所有の不均衡」によって価値を生み出す文明だった。たとえば、天然ダイヤモンドは希少であり、誰もが所有することができないために高い価格がつけられる。もし、それがコンビニで十円で買えるありふれた石ならばダイヤは水晶と同じくらいの価値しか与えられなかっただろう。
 ところが情報の価値はそれとは根本的に異なっている。ある情報はできるだけ多くの人によって共有されることによって初めて新しい情報を生み出すことができる。つまり共有されればされるほどその価値創出の力は高まるのだ。
 たとえば、市民社会は特権階級の独占物だった知識をより多くの人々に開放することによって、それまでとは比較にならない急速な科学や文化の進歩を作り出すことができた。また、絵画や文学を王侯貴族による独占から開放することによって、芸術の急速な発展を生み出してきた。このように、情報の価値は共有からこそ生まれるのである。
 現在、さまざまな自治体や企業が情報化社会に向けた新しいプロジェクトに取り組んでいる。それらの多くは日本版シリコン・ヴァレーとか、インターネットを用いた新しいサービスやビジネスとか、商用のスーパーデータベースの構築とかいったものである。
 だが、これらの試みの多くはおそらくは失敗することであろう。とりわけ、バブル期に立てられた予算計画をそのまま消化することしか考えていない自治体のプロジェクトは大きな借金を抱えたまま破綻し、近いうちに巨大な「不良債権」となることは目に見えている。
 そうした試みの多くが根本から間違っているのは、情報文化をモノの文明のパラダイムでしか捉えていないことだ。そして、そこで本当に必要になってくるのはアートが培ってきた自由な情報編集の技術なのである。それは「写真」について語った回で述べたように、身体と世界をさまざまなメディアや機械装置を介して結びつける新しい文化コードの構築とならなくてはならないだろう。アーティストはけっして反近代的、反テクノロジー的なぬくもりのある「手作りの世界」などにおさまっていてはいけない。そんなのはただのアナクロニズムにすぎない。とりわけ、複製メディアを通した表現である版画=プリンティングの世界に関心をもつ人々は、それと全く同じ平面でインターネット時代のプリンティング表現の可能性にもっと目を向けていくべきだと提言しておきたい。それは、いつしかぼくたちの文明を変え、本当の自由な技術を作り出していく可能性を開いていくだろう。
 結局のところ、プリンティングについても、アートについても、情報文化についても残念なことに十分に語り尽くすことができなかった。この連載を読んでくれた読者の方々に感謝したい。(了)

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