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「美学」の喪失−−<芸術>の死後どこに行くのか?

 

 

(このファイルは、2005年3月26日に、東京大学本郷キャンパスで開かれた美学会東部会で口頭発表したものの草稿です。自分では大変面白いものだと自信があるのですが、誰も「美学」に掲載させて欲しいと言ってこないので、ここに載せることにしました。)

 

 

 

 

前置き、あるいは美学の喪失

 

 

 

 去る二月二日に吉岡健二郎先生が亡くなられた。密葬だったのでまだ知らない方もおられるかもしれない。私が京都大学文学部美学美術史学研究室に入った時の主任教授である。1975年のことだった。もう一つ、一昨日の三月二十四日、私は満五十歳になった。身体は全然元気だし頭の中身もさほど成長しきっていないのだが、それでもこれまで半世紀も生きて来たと思うと、やはりやや回顧的な気持ちにはなる。この二つの出来事に遭遇したことが、今日の美学会で「美学」そのものについて話をしてみようと思ったきっかけである。

 

 

 美学を専門として選んだことに積極的な意味はない。もとより最初の頃は大学院に進学する意志など毛頭なかったし、文学部の中にあるそれぞれの学科や専門領域のこともあまり知らなかった。とりあえず「フランス文学科」にでもと曖昧に思っていたにもかかわらず、初級のフランス語の単位がほとんど取れていなかったというのが一番の大きな理由である。ちなみに私はその頃無謀にもL4というフランス語が第一外国語のクラスを選んでいた。ドイツ語には全く手をつけておらず、まともに読めるのは英語だけという状態だった。

 

 

 文学や演劇や映画は好きだった。ほとんど淫していたと言っていい。戦後の教育ブームの中で育ち、少年少女文学全集や音楽全集を親から買い与えられ、ピアノをはじめさまざまな習い事をさせられ、自分から翻訳文学にのめりこみ、バンドを作ったりしながら、映画の全盛期や60年代のカウンター・カルチャーをくぐり抜けて来たためか、文化や芸術こそが世界を変えることができる唯一のものだと信じていた。それと比べれば、経済や法律や国家や工業技術や軍事力などは何ら問題にするほどのものではなく、文学や芸術は簡単にそれらを乗り越えることができるとまで信じていたと言ってしまっても過言ではない。こうした「芸術至上主義」的な過度な「芸術愛」や世間知らずな「文学少年気質」というものは、十九世紀くらいから近代化と共に世界中に伝播していったセンチメントであり、多少自分を弁護しておくならば、その当時はなんら特殊なものではなかったし、またロマン主義に起源を持つこうした「気分」こそが、まさしく近代芸術や文学を再生産させてきた原動力であったように思われる。たとえば、マテイ・カリネスク(モダンの五つの顔)やレナト・ポッジョーリのアヴァンギャルド論の中で触れられているように、こうした思春期から青年期にかけてのロマン主義的な「気分」こそが、モダンそれ自体の内包する強力なエンジンのようなものであったと言えるだろう。それはもちろん、「自立した個人」と「社会」とを分断し、合理性に基づいたシステムを増大させていくと同時に、従来は宗教や魔術的な領域に委託されてきた、人間の非合理的な衝動や「欲動」の領分を、主として「芸術」や「文学」という制度に分配することで昇華させようとしてきた近代の社会編成と深く関わっていたのである。

 

 

 しかしながら、その頃の私は文化や芸術には過大な期待を寄せてはいても、大学や社会には何の期待もしていなかった。親しい先輩が一人先に美学に入っていたが、話をいくら聞いても美学が何だかほとんど分からなかったので、京大北門前にある「吉岡書店」で井島勉(つとむ)先生の「美学入門」を買った。どうやらドイツ語が読めないと不利だということだけはよく分かった。ほとんどそれだけの知識で面接を受けて美学研究室に入った。同級生は8人くらいだったと思う。ほとんど誰のことも覚えていない。

 

 

 文学や芸術一般についての卒論を書かせてもらえればそれでいいというくらいの気持ちだった。まさか、こんなに長いこと関わることになるとは思ってもいなかった。

 

 

 京大における「美学」がバウムガルテン以来のいわゆる近代美学(Aesthetics)のことを指しており、必ずしも芸術学(いわゆるKunstWissenshaft)や芸術論のことではないということを初めて知った。明確ではないが、美学が哲学の一部門であり、それが京都学派的な西洋哲学と東洋哲学との融合を目指さなくはならないというような漠然とした雰囲気があるように思われた。講義で扱われるのはいわゆる「美学史」であり、主として十九世紀から二十世紀初頭にかけてのドイツ系の美学や芸術学である。東京大学と違って、美学と美術史が一つの講座を作っているが、美術史とはこの場合、実証主義的な日本美術史のことであり、美学をやっている連中とは当時から全く馴染まない。死んだ千野香織は、一年上だったが、こんな美学者ばかりのところで日本美術史研究はできないと思ったのか、東大の大学院に移って行った。西洋美術史や近・現代美術や工芸は教養部の乾由明先生が一手に引き受けており、同じく教養部の新田博衛先生がラテン系やアメリカ系の美学・芸術論や、文学論、音楽論、現代思想等を一手に引き受け、しかもこのお二人は飽くまでも「お客様」という感じで扱われていた。吉岡先生は自分がやっているようなドイツ系の美学では学生が集められないということを自覚しており(当時、美学と宗教学は文学部の中で一番人気のない専門グループに属していた)、営業のためにむしろ美学ではなく日本美術史に力を入れようとしていた。

 

 

 吉岡先生ご自身の守備範囲はそれほど広いものではなかったが、もともと講座自体が持っていた「雑種性」は何となく維持されていて、何をやっても一応許されるというような雰囲気があった。学生運動の全盛期の直後であったが、政治的な活動をしている者は学部生の中に少数しかおらず、全体にはノンポリか引きこもり型の学生がほとんどだったように思われる。実際に私の前後の学年の学生が取り組んでいたテーマとしては、カント、シラー、シェリング、シュライエルマッハー、ヘーゲルらのいわゆる「ドイツ観念論」美学、十九世紀後半のフェヒナーらの「下からの美学」、リーグルやヴェルフリンの「美術史学」、フィードラーの「純粋視覚性の美学」、ニーチェ美学、新カント派、ハイデガーの存在論的美学、ガダマーの解釈学、オーデブレヒトやインガルデンの現象学的美学、ベンヤミンやアドルノらのフランクフルト学派などが挙げられる。ゲルマン系の伝統が強いので、ラテン系のことをやる人は少なく、かろうじてベルクソンやサルトルやエチエンヌ・スーリオ、ミケル・デュフレンヌなどのフランス系美学をやる人が二・三名いた。分析哲学的な傾向の強いアングロ・サクソン系の美学は、「British Journal of Aesthetics」が研究室には置いてあったもののほとんど誰からも顧みられることはなかった。私自身は学部時代にはモーリス・ブランショについての卒論を書いたが、大学院に入るとスラブ系の構造論やアメリカ系の文学理論やフランス系のポスト構造主義など、ほとんど無節操にいろいろなことに手を出していた。語学の学力不足を関心領域の広さで補おうとしたわけである。研究室の反応はきわめて冷たかったし、実際に吉岡先生に「君は見込みが無いから、地方美術館の学芸員にならないか」と言われ、見捨てられたような気持ちになったりもした。

 

 

 そんなこともあって、私自身は「美学」という専門をたいして愛する気持ちにもなれず、美学研究室に所属しているという意識は薄かった。それでも残ることができたのは、先述したような「何をやってもいい」というようなその雑種性というか、「異文化混交」的な雰囲気に助けられていたからかもしれない。美学や美術史学そのものというよりも、それの背後にある哲学、歴史学、音楽学、文学理論などのさまざまな知的水脈に触れることができたし、解釈学、記号論、現象学、存在論、人類学、生物学、心理学といった多様なアプローチがあることを知ることができた。そのことに関しては良かったと思っている。

 

 

 美学と芸術との関係はそれほど明確なものではなかったが、少数の例外を除けば、すべての人が何となく「芸術」にも関わらなくてはならないと考えていたことは、今も昔も変らないと思う。とりわけ、外の社会では、美学者と言えば美や芸術の専門家だと思われている。親戚で絵を描く奴がいると、それがどんなに平凡な風景画でも必ず展覧会に招かれて感想を求められるし、陶磁器や骨董品などについても意見を求められて困ったりするのは皆さんも同じだろう。

 

 

 そして、少なくとも私の場合には、自分が少年期から青年期に取り憑かれていた「近代芸術」や「前衛芸術」について、それを自分が罹っていた「文明の病」として自己解体するためのツールとして「美学」はおおいに役に立ったと思う。それまで小説家か映画監督になるくらいしか自分の進路を思い浮かべることができなかったのだが、この頃そうした欲望の根拠そのものについての疑いが抑えきれないほどふくれあがってきたからである。才能の限界に気づいたというよりも、そのような才能になぜ憧れるのか、そして、もし本当に才能がないのなら死んだ方がましだとまで思い詰めてしまうような自分の内部で膨れ上がる情動の異常さの起源について、それを何とか意識化することができるまで突き止めておかなくてはならないという思いが高まって来ていたからだ。

 

 

 なぜ、「芸術」や「文学」が、人間にとってそのような特殊な、そして極端な欲望や衝動の対象となりえたのかは、近代の社会編成から考えて行かなくては説明がつかない。

 

 

 たとえば、「芸術の自律性」という概念の誕生と美学の発生とは不可分の関係にある。芸術が自律的な領域であるというのは大きな虚構の発明である。もしそうでなければ、異教徒の神像や仏像を賞賛したり鑑賞したり研究したりすることなどできるわけがない。世界遺産とか文化遺産とかいう考え方が広まり、たとえばアフガニスタンのタリバン政権がバーミアンの磨崖仏を爆破した時に世界中から抗議があったというが、イスラム原理主義者が仏像を破壊するのは至極当たり前のことなのである。また、身近に日本美術史の研究者が沢山おり、彼らが古い寺の薄暗い本堂に置かれている古い仏像を強力なライトで照らし、手袋をしてそれをひっくり返して裏側を見たりしているのを見ていると、全然宗教心を持ち合わせない私でさえも、何か神聖なものを汚している罰当たりな行為を見ているような嫌な気持ちになるが、むしろこの感情の方が普通のものなのだ。

 

 

 しかしいったん芸術が自律的な領域であるということを措定してしまえば、このような問題はあっけなく消滅する。すべてが芸術という視点から、それらを単線的な時間軸/歴史軸の上に配置して観察することが可能になるからだ。カントの「判断力批判」やヘーゲルの「美学講義」以降の美学はこのような美的カテゴリー化を、その言説装置の根幹に据えている。要するにこれは視点の取り方の問題なのだ。この視点さえ受け入れれば、罰当たりでも不信心でもなく、なんでも文化的な対象として受け入れることができる。そしてこの視点の内部では、造園術や建築が芸術の中に入ったり外れたり、ロックやアニメやポルノ映画が芸術の中に入ってきたりというようなことが頻繁に起こるようになるわけである。それが芸術であるかどうかということは、それぞれの時代に「芸術」に割り当てられた機能によって決まる。通俗的で退屈な「社会主義リアリズム」小説が文学の最高峰と言われた時代だってあるのだ。こうして「洞窟画からピカソまで」とか、「ポリネシアの芸術」とかいった、何気なくわれわれが受け入れてしまうような「美学的平面」や「美学的時間」が生まれてくる。そしてその抽象的な平面の中で、たとえば「絵を描くとは何か?」とか「真の芸術活動とは何か?」とか「芸術家の意識の中で何が起こっているか?」とかいったさまざまな本質主義的な問題提起がなされ、洗練されてきたのが近代美学の流れなのである。

 

 

 たとえば、その当時私が魅惑されていたフィードラーの「芸術活動の根源」やメルロ=ポンティ「眼と精神」におけるセザンヌ論、あるいはモーリス・ブランショの「エクリチュール論」やジョルジュ・バタイユの「境界侵犯」論、あるいは日本では宮川淳の美術評論のような、洗練されたモダニズム美学の系譜もまた、いったん視点をその文脈から外してみれば、「自律的芸術」という虚構の概念装置をめぐって形成されたキリスト教神学の秘儀のように見えてくる。その意味では、近代芸術とはヨーロッパ版のタントリズムやヨガのようなものである、と言ったペーター・スローターダイクは正しいのである。

 

 

 このような「美学」を相対化する視点は、西欧のモダニティに内属している美学的言説それ自体の内側からではなく、たとえばマックス・ウェーバーやブルデューの近代社会論、レヴィ=ストロースの構造主義人類学やソシュール、ヤコブソンの言語学、バルトやクリステーヴァらのパリ構造主義やジャック・デリダの脱構築の哲学といったものから与えられた。だが、それらもまたモダニズム美学やアヴァンギャルド美学を作り上げてきた西ヨーロッパ中心主義的な言説に内属するものにほかならない。デリダやドゥルーズを見れば分かるように、彼らも最終的には自己回帰的にモダニズムやアヴァンギャルディズムに戻って行ってしまうのである。というよりも、むしろ彼らの理論それ自体かアヴァンギャルド芸術に相同的なものとなっていってしまうのだ(リロンノアヴァンギャルド化)。そういう意味では、私の場合には、ロシアフォルマリスムやロシア・アヴァンギャルド、あるいはヤン・ムカジョフスキーらのプラハ言語学サークル、そして何と言ってもミハイル・バフチンといった、ヨーロッパの周縁部に位置するスラブ系の<外部の>思考方法が、西ヨーロッパ中心の「美学的磁場」を解体させ、相対化して考えていくための最も強力なヒントになった。理論的言説の内容だけではなく、その形式それ自体に対してもポストコロニアリズムの視点から批判的に見て行くことが必要なのである。

 

 

 

 

 

芸術の喪失

 

 

 

 このような美学、もしくは美学的問題圏の脱構築の過程は、単に学問論的な解体のプロセスであるばかりではなく、私自身の内部に仕組まれている「近代」や「芸術」という「制度」の自己解体のプロセスにほかならない。その中で当然私の中での「芸術」や「近代芸術」に対する考え方にも大きな変化が生じてきた。もはや「文学とは何か」「芸術とは何か」というような問いが自分の中で無意味なものとなり、そうではなく「文学」や「芸術」というフィクションが近代社会編成や自我編成の中でどのような機能やどのような効果を作り出してきたのかという作用史的な、もしくは芸術社会学的な関心がうまれてきたのである。そのまま突き進めば、あるいは私もブリティッシュ・カルチュラル・スタディーズ的な方向か、ニューアートヒストリー的な方向、さらには「ヴィジュアル・アートの歴史」のような、価値相対的な歴史研究の方向に行ったのかもしれない。

 

 

 だが、そうはならなかった。なぜなら、それよりも先に「美学」を含めた学問、もしくは科学の言説装置とは何なのか? 自分がどういう言説の「磁場」の中で、誰に向けて、どのような形で「語っている」のかということが、全く不明瞭なことであるように思われて来たからだ。メディア論や情報論に関心をもつようになったのはそのためである。

 

 

 どういうことを言っているのかというと、たとえば、いま私がここで原稿を読みながらしゃべっているということがかなり奇妙なことなのではないだろうか。大学があり、学会や専門領域などの制度があり、その中で専門家が集まって、おそらくは世の中のほとんど数人にしか通じない対象についての難解な話をしたり、議論をしたりする「学会」という言説装置は、もしこれを全く異なる文明をもつ異星人が遠くから眺めたとしたら、きわめて奇妙な土着の習俗のように見えることだろう。つまり、私が言っているのは、芸術について、あるいは文化一般について、学問的な言説を積み重ねて行くことが、何かしらの意味ある行為であるということは、歴史的、空間的に限定された、ある閉ざされたシステムを前提としなくては成り立たないということである。それを外してしまえば、真面目な顔をして学会に集まってくるのは野良猫の集会と大して変らないことになる。ビジネスの世界や工学系の学会などプラクティカルな領域では、パワーポイントやヴィジュアル化されたデータを用いた「ブレゼン」が常識である時代に、仲間内でしか通用しないジャーゴンやクリシェを用いたレトリカルなモノローグを下を見ながら暗い表情で読み上げることが「優れた研究発表」であるとするような人文科学系の学会の言説に、自分を同化させることが難しくなって行ったのである。

 

 

 とはいえ、それじゃ、こんなことはやめてしまえばいいじゃないかと言うとそう簡単にもいかない。システムや制度をすべて否定して、沈黙に引き蘢るのがいいかというと、それでは、全くシステムを乗り越えることにならないからである。また、ジャーナリズムやマスコミを通して、不特定多数の人々の気分に方向を与えるというような意味での知識人の言説装置やその環境にも違和感が増していった。要するに、近代における知的言説そのものの土台がきわめて不安定で、脆弱なものに思え、その境界線上の揺らぎのようなものにより自覚的でなくてはならないと思うようになったのである。不安定な場所で、不安定な方向に向けて、不安定に語るという、その語る行為自体の不安定さを自ら引き受けて行かなくてはならないのだ。私にとっての美学とは、あるいは「たとえば」、美学とはそのような不安定な場所のことにほかならない。それを立て直したり、再構築したりすることに、私が全く関心を持てないのはそのためである。むしろ、徹底的にその不安定さを引き受けなくてはならないのだ。

 

 

 他方において、美学が暗黙の前提としてきた「芸術」や「文学」それ自体も大きな変質を余儀なくされていた。簡単に言えば、それらはいつのまにか知らないうちに「死んでいた」のである。あるいはより正確には、ヨーロッパの近代文明が生み出したきわめて特殊でローカルな文化装置としての「芸術」や「文学」の社会構造におけるステイタスが根本的に変質したのだ。進歩主義的な歴史観やモダニズムや前衛の神話が崩壊し、芸術は「文化商品」となり、グローバル・スーパー・マーケットとしての世界の中で流通する「コンテンツ」となっていった。

 

 

 60年代にモダニズムの水脈が枯れ果てた後、美術や芸術の世界ではもはや方向性を伴う進歩主義的な歴史観は失われてしまった。「芸術の自律性」というモダニズムの神話は失われ、ということは、芸術を成立させるためにはそれ以外の支持体を見つけなくてはならないということになってしまったのである。80年代に入って眼につくようになってきた、過去の様式や美術史それ自体を参照する「アートについてのアート」であるところのシミュレーショニズム、政治的/社会的メッセージを強調する動き、地域性や伝統をアピールする動き、さらには工芸や民俗芸能、ポップカルチャーやファッションなどをアートの領域に持ち込む動きなどのポストモダニズム以降のさまざまな動きは、それぞれこの「自律的芸術の終焉」という事態に対応する動き(反動機制)として語ることができる。それまでの美術史が広い大河の流れにたとえられるとするならば、それはデルタ地帯で細い蜘蛛の巣状の水路に分かれて流れるさまに似ている。だが、川や運河ならばそれはいずれ海へと流れていくのだろうが、この場合にはそれぞれ動きが方向を見失ってばらばらな方向に流れていき、どこに向かっているかすら分からないのだ。美学、もしくは芸術文化をめぐる言説は、その無数の水路に無理矢理道筋をつけるという不毛な努力に、その力を費やすことになった。

 

 

 80年代以降さまざまな人々の口から「芸術の終焉」や「美術史の終焉」という言葉が語られるようになった。近代的な意味での「芸術」や「美術」がそもそもは18世紀以降西ヨーロッパの一部の地域で制度化され、それらの国々の帝国主義的世界侵略と共に他の諸地域に広がっていったものである以上、それが消滅したり終焉を迎えたりしたとしても何らおかしくはない。たとえば、すでにペーター・ビュルガー(Peter Bürger)は「アヴァンギャルドの理論」で、ポスト・アヴァンギャルド芸術なるものは存在し得ないと主張している。だが、それと同時に数百年をかけて成長し、他の近代的な文化装置と密接に結びついてきた「芸術」という文化制度にそう簡単に終止符を打つこともできないことも事実なのである。その意味での「芸術」はけっして終わらない。産業社会における他の活動性と同じように、一度店を広げたものを縮小することはできないのである。墓場からむっくり起き上がるゾンビのように、それは世界中で平然としてうごめいている。

 

 

 美術館、美術ジャーナリズム、美大などの教育機関、行政機関、国際美術展、国際的な文化交流などの文化イベントを一気に消滅させることは今となってはできない。それがグローバル化した世界市場の中で占めている重要性を看過することはできないのである。そうした中で試みられてきたのが、「自律的な美」という理念の喪失を、美術史への自己言及、政治的/社会的メッセージへの依存、地域性や伝統への依存、ポップカルチャーや非美術領域の導入などによって補おうとする動きなのである。そのことによって、一見美術の領域は拡大し、より豊かなものになったように見えるかもしれない。しかしながらそれらは、それら自身が失われた「美術」の意味=方向性の補填作業である限りにおいて、けっして美術を「再活性化」したり、立て直したりすることはできない。むしろ、それらの動きが覆い隠そうとしているものこそが重要なのではないだろうか。

 

 

 さらに80年代終わりの冷戦の終焉以降、世界はアメリカ合衆国を中心とする資本主義経済の単一の「世界市場」と化しつつあり、すべてはこの市場における価格や価値に変換されることによってしか価値を主張できないようになってきている。この市場で交換可能なものだけが重要なのだ。巨額のフローティング・マネーが世界の主要な株式取引所でやり取りされており、通常の国家予算を遥かに越える金額が投資ゲームに投入されることによって、世界中の人々の生活や運命に大きな影響を与えている。それは単に経済活動の領域ばかりではなく、各国の教育や行政のあり方にまで大きな影響を与えているのである。すべてを数値的な基準によって評価しようとする一元的な管理システムがあらゆるローカルな社会の中に組み込まれ、それらはデータベースに書き込まれる形に変形されてしまい、そこに入らないものは外部へと排除されることになる。

 

 

 そこで支配的なのはほとんど自動的なプログラムと化した「怪物的な、しかしきわめてシンプルな資本主義の流れ」であり、この支配的で単純な経済のグローバル化の中で、各地域の社会システムや文化システムが大きな変容を強いられているというのが実情ではないだろうか。文化の混淆や流動性の増大それ自体が根本的な問題なのではない。そうではなくて、それ自体はきわめて単純で平板で均一化された市場のルールの中で動いている経済ゲームの一元的支配の下で、そのプログラムが円滑に遂行されるという目的のためだけに、それ以外のさまざまなものが動かされ、混乱し、衝突し合っているというだけのことにすぎない。確かに事実として、さまざまな文明や社会が相互に入り交じり、さまざまな衝突や共鳴や混交をもたらしている。だが、そのような事実はこのような経済の一元的支配によってもたらされた「効果」にすぎないのだ。それがどこに向かうのか、次の段階でどのような衝突や融合が起こるのかというようなことは観測することはできても誰も予測することはできない。

 

 

 狭い意味での「芸術」−−西ヨーロッパの市民社会が築き上げ、アメリカ合衆国が巨大な「市場」に作り替えてきた文化制度としての「芸術」−−が瀕死の状態であること、あるいは既に死亡してしまっているということはさっさと認めてしまっておいた方がいいのかもしれない。もちろん、ヨーロッパやアメリカなどでは、まるで日本人が伝統芸能や能・歌舞伎を守ろうとするように、芸術に対する国家や財団による助成や保護の動きはますます強まってきている。大規模な美術展やイベントなどもますます多く開かれるようになってきている。そうなるとその動きに追従する必要性を−−主として経済的/政治的な理由から−−もっている日本や他の国々もまた、芸術にかかわる文化行政を強化しなくてはならない。ますます多くの美術展や美術学校が作り出されていくことだろう。そして、それは「世界市場」とうまく共存する形でのみ生き延びていくことであろう。

 

 

 美学、あるいはすべての知的言説一般もまた、このような市場形成の中に取り込まれている。ディズニーランドの経済効果と美術館やベストセラー小説の経済効果と、そしてまた大学に競争原理を持ち込むことによる経済効果は、まさしく経済効果という単純な平面の上では同列のものとされる。その当該の芸術文化商品にどれだけ多くの言説が費やされるか、またどういう場所でそれらの言説が流通するかということは、その文化的ソフトの経済価値で測られるのである。東京芸術大学が映画産業と結びついて商業映画を作ろうとすることや、大学に映画学科やアニメ学科やマンガ学科を作り出そうという動きは、「コンテンツ・ビジネス」養成という国の経済政策と結びついているのである。

 

 

 たとえば、映画をめぐる言説は、シネフィル系の評論とアカデミックな実証的研究も含めて、すべてが広い意味での「おすぎとピーコ」のやっているような映画産業のマーケッティングと結びついている。もしそうでなければ、そもそも映画学科とか漫画学会などが作られているはずがないからである。要するに、それは売れる商品に関する商品解説にすぎず、売れない商品についてもまたそれなりに、それが売れるための商品解説にすぎず、要するに商品解説しかないのである。ここでは、「商品ではない」という「自律的芸術」に魅力を感じていたモダニスト美学は生き残れない。芸術とは「コンテンツ」であり「ソフト」であり、何よりも市場で流通する商品なのだ。

 

 

 どうしてそうなのかと言うと、芸術も文化も、そしてまた芸術や文化に関する言説もまた、すべて商品管理され、ラベルを張られ、バーコードを貼り付けられたグローバル・スーパー・マーケットの商品となることによってしか社会の中で流通できなくなってしまっているからだ。巨大スーパー・マーケットには膨大な数の商品が売られている。世界市場の拡大とともにその規模と商品数はますます増え続けるであろう。

 

 

 

 

 

そして美学の行方は?

 

 

 

 しかしながら、それらはけっして「世界のすべて」ではない。そこに入りこむことが許されないもの、商品として並べることが困難なものが、そこからは排除されてしまっているものが必ず存在しているはずである。そのことが、人々からますます忘れ去られ、若い人々がこの巨大スーパー・マーケットだけが世界だと思い込むようになってきているということに私は大きな危機感を抱いている。

 

 

 何もスーパーの商品棚に並べられているものが、ただそれだけですべて駄目だと言いたいわけではない。ただ、それがすべてではないと言いたいのだ。話を美術に戻すならば、一見するときわめて多様で豊穣な「芸術=商品」が、美術という「グローバル・スーパー・マーケット」に並んでいるように見える。そこにはラディカルな政治的メッセージや、ポップカルチャーや、さまざまな民族文化や工芸品などが、それが消費者に与えるインパクトの大きさに従って配置されている。その商品配列には確かに一定のルールがあることは明らかである。インパクトが少なくなってきて売れなくなってきたものは徐々に隅の方のコーナーに追いやられ、新商品が目につく場所に派手なディスプレイで並べられることになるだろう。だが、そのようなことには含まれないものがある。それは、何かと言えば、生身の生き物としての私たち自身であり、そのような人工的システムには還元されない世界のもつリアリティと呼ばれるものだ。新商品の中から面白いものを見つけ出すことも確かに楽しいかもしれないし、あるいは日陰に置かれている売れない商品を拾い上げ、そこに何かの傾向や脈絡を見いだすは確かに楽しいかもしれないし、そのことに意味がないとは言わない。だが、私がむしろ関心をもっているのはそこにはないもの。そこから逃れ出るようなものなのだ。

 

 

 もちろん、それらは結局のところはスーパー・マーケットの商品棚に回収されてしまうことになるのかもしれない。かつて浅田彰が「クラインの壷」の比喩で示したように、外部を内部に再投入してくるような怪物的な運動性を資本主義はもっているからである。あるいはフロア・マネージャーが商品としてはふさわしくないと判断すれば、握りつぶされて消えてしまうものなのかもしれない。スーパーの外にあるものは、この世界ではもはや存在しないも同じものとされてしまう。きわめて小規模な身の回りの共同体の内側を除けば、流通する回路はこのような資本主義的マーケットしか存在できなくなっているのかもしれない。だが、本当にそうなのだろうか。

 

 

 私がここで問題にしたいのはこのような「ゾンビ」として市場の中に組み込まれたマーケットとしての「アート」ではない。問題は、「アート」がまだ生きていた時代に、「アート」の名の下に集まり、そこに含まれていた「可能性」をどのようにして、どのような形で救出することができるのかということなのである。これは何も「アート」に限られた問題ではない。哲学・思想・科学といった文化的領域のすべてにおいて同じことが言われなくてはならないだろう。そして、そこに生きている具体的な「ヒト」が居る限り、その可能性はけっして消えることはないだろう。なぜなら生き物のヒトそれ自身は、それが種族として誕生した古代から、けっして「社会的であるばかりの存在」ではなく、スーパー・マーケットに回収されることがない過剰性に満ちた存在であるからだ。

 

 

 実践者として今求められているものは、アーティストであれ、知識人であれ同じことである。アートや「学問的言説」を、無条件に価値があるものとして信仰し、それらが「好き」であることを自明な根拠とし、その巨大な神殿の一部に自分が住んでいるというだけで事足れりとするような人は、スーパー・マーケットの論理に従属し、データベースの項目を増やしていくことしかできないであろう。それはオタクのように自らの生と欲望をグローバル・マーケットにおける特定の商品や再生産されるイメージに対応する形に縮小し、回収させてしまうことで満ち足りているような人たちだ。社会が求める「前衛」としてのアートや思想は死んだのである。できるのはジャンクヤードに捨てられたそれらを「口実として」もう一度再利用し、リサイクルすることにすぎない。「口実としてのアート」、「口実としての思想」、それしかないのだ。そして、可能な限りグローバルなスーパー・マーケットの外側に、あるいはその境界線上に、別なコミュニケーションの回路を作り出していくことがもっとも重要なことなのである。私はそれを「批判」と「想像力」の回復の問題であると思っている。

 

 

 美学についての話を続けよう。

 

 

 私より若い世代の中には、生まれた時期からして、そもそも先に述べたようなモダンとモダンの消滅に何のこだわりを持っていない人たちも多いかもしれない。自分たちの生まれる前から商品棚やデータベースに登録された「芸術」のリストに純粋に関心をもち、全く先入観なしに、それらが「好きだから」研究しているのだと思っている人もいるだろう。商業映画やマンガは言うに及ばず、コミケの同人誌やギャルゲーも、立派に芸術文化として美学の研究対象となりうるし、もはやサブカルチャーとハイカルチャーの区別や、普遍的な文化とローカルな文化の区別などはなく、すべてが学問的研究の対象として同等の価値をもつと考えているかもしれない。だが、カルチュラル・スタディーズ左派が言うように、文化研究の言説がある特定の政治的文脈におけるアクディヴィスト的活動であるにすぎず、その「効果」は一過性のものだと考えるにせよ、それが普遍的な科学として文化についての人類共有の財産となる正確なデータベース構築に役に立つと考えるにせよ、その正当性を支えている根拠はもはやすべて上っ面のものにすぎないということを明確に自覚すべきではないだろうか。つまり、それは現在のわれわれを取り巻いている偶発的な「システム」にすぎない。つまりそれは、冷戦後のグローバル・システムというOSの上で成り立っているアプリケーションにすぎず、そのOSの外側には実は広大な別の現実が広がっているのである。

 

 もはや、破壊的でスキャンダラスなアヴァンギャルド・アートは存在せず、かつてスキャンダルだったという付加価値をもつ文化商品があるだけだ。テロリズムや戦争やホームレスや難民や第三世界の争乱などといった現在のシステムの本当に外部にあるものは、いずれ政治的、軍事的、経済的に支配的なグローバル・システムの中に回収されるだろうと曖昧に信じ込み、眼に見える美術館や書籍や教科書や公認されたメディアの中にのみ−−つまり、グローバル・スーパー・マーケットの中にだけ「芸術文化」を見いだそうとしても、そこにはけっしてかつてのアヴァンギャルドが持っていたような破壊的で解放的な力は見いだせないだろう。それらは所詮バーコードで管理される「コンテンツ」にすぎない。私がジャック・デリダやジル・ドゥルーズを引用していた時に、彼らは学会におけるスキャンダラスな異物という性格をまだもっていた。フランクフルト学派左派のアドルノもそうである。もし、30年前に少年漫画の研究を美学会でやろうと思ったら、もの凄い反発が起こったことだろう。その意味で、いまそれに匹敵することは何なのだろうか。タワーレコードやツタヤには売っていないし、将来にわたって売られることはない文化、あるいは反文化を見いだすことはできないのだろうか。それを是非私よりも若い世代に考えてほしいし、実践してほしいと思っている。

 

 私はとりわけ「美学」を立て直したり、新しい「美学」を打ち立てたり、「美学」の可能性を探ったりする必要は感じないし、だからと言って、それを打ち倒したいとも思っていない。ことさら、美学者の立場から何かを言いたいとも思わないし、別に美学会がなくなっても平気である。そうしたディシプリンが問題なのではなくて、いかにしてそのような言説装置を批判の回路を開く「口実」として、あるいは想像力に対する管理と抑圧に抵抗する「口実」として有効利用することができるかということだけが重要であり、こうして今私が具体的なみなさん方に向かって話しているという「現場」が重要なのだ。私にとって重要なのはそのような「場所」を、ここばかりではなく、大学の教室や酒場や喫茶店や学会などの至る所に具体的に見いだし、作り出して行くことである。それは言い換えれば、私が普通に日常生活をしていくということにすぎないし、それに尽きてしまうようなことでもある。こうした具体的な日々の実践の領域から美学や哲学を切り離してはならないと私は思っている。

 

 その点で私はまだアーティストや美学者、もしくは知識人としての個人にはけっして絶望していない。これらの人々の共同体の中に現在も尚、残されているシステムへの抵抗や批判の回路を身近なところから、いかにして救い出していくかということが現在の私の一番の関心事なのである。

 

 どうも、ありがとうございました。

 

 

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