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MiniBBSv9:のデータを抜き出しています。

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","yhma0200.bekkoame.ne.jp","1月3日(日)11時58分",

"あけましておめでとうございます。",

"短信ですが、試しに掲示板方式にしてみます。これで少しはさぼりぐせも改善されるかもしれません。されないかもしれない。

今年もまた年末は机に向かうだけでした。とは言え相変わらずスランプ続きで余り仕事ははかどっていません。夏に「恐怖の大王」が来てくれるのなら楽しみですが、多分そうはならないのでもう少し生き続けていかなくてはならないでしょう。

うー、やっぱりこの画面は書きにくい。やっぱりやめることになるかも。

 

,"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","yhma2155.bekkoame.ne.jp","1月3日(日)12時53分","近況",

" さて、昨年末には短いエッセーを書いた晶文社『オンライン書店の誘惑』(津野海太郎編)が出ました。いきなり好調なようですが、ようするにハウツー本です。インターネットでの本の買い方事典ですね。こういうのはまだ市場価値があるかもしれない。インターネットでどうやって服を買うかとかね。津野さんは『本とコンピュータ』でも頑張っています。いまどき珍しく筋の通った雑誌です。

 唐さんの戯曲本『秘密の花園』(沖積社)にも短文を寄せました。きれいな装丁の本です。戯曲だと上演時の感動がどうしても薄れてしまうのが惜しい。同じ戯曲でも三島由紀夫なんかだと結構読めるのだけど、唐さんのは少し苦しいところがありますね。誰かいい編集者が上手に手を入れてくれればだいぶ違うんだろうけれども。11月に出た本ですが、唐さんの本に初めて参加できて感無量です。この月は佐野史郎さんの一人芝居『マラカス』も二度ほど楽しんできました。

 日立デジタル平凡社の「世界大百科第二版」が出ました。その直前開発者の龍沢武さんと会食。いろいろと秘密の開発計画をお聞きしました。小学館のライバル版に当てたヴァージョン・アップだったはずが敵がこけてしまったために、拍子抜けだったようです。このプロフェッショナル版(マイペディアもリンクさせたDVD版)は凄い。ただDVD用の仮想ディスク化ソフトがないのが残念ですが...。本当のデジタル革命はこういうところから始まっていくのかもしれません。

 建畠さんがキュレートした国際交流基金の現代インド美術展「神話を紡ぐ作家たち」( Private Mythology: contemporary art from India )のレヴューを「Asia Pacific」に書きました。元水戸芸の清水さんが東武美術館でやった「アフリカ!アフリカ!」などを見ても、この国ではまだ異文化はエグゾチズムを通してでなければ受け入れられないのかという感じです。

 忘年会シーズンには、まずマルチメディア文化課程の大パーティ。大里俊晴君のやけくその司会で少しくどいほど盛り上がりました。その後は唐組忘年会。ここは歌いまくり。多摩美忘年会は上野毛のレストランから二子玉のカラオケボックス。最後には編集工学研究所の大掃除手伝いと10時間にわたるカラオケパーティ。もうカラオケには食傷しました。

 そういえば東大の佐々木健一さんから突然のご指名で2001年に幕張で開かれることになっている国際美学会の組織委員になってしまい、幕張に下見に行ってきました。ここでのイベント一切の責任者にされてしまいましたが、どうしたらいいものか悩んでいます。確かにきわめてユニークな町なんだけれど、暗くなったとたんに廃墟と化してしまうようで、こんなところでどんなイベントをすればいいのでしょうか。

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","yhma0121.bekkoame.ne.jp","1月3日(日)14時35分","ファイル追加",

「最近の仕事から」と「コラム集」にいくつか追加しました。まだ忘れている分があるかもしれない。単行本になったものは遠慮しました。 

本当は原稿進めなければいけないのに、ついこういうことに力を注いでしまう。今日はもうやめます。

 

"室井 尚","","yhma0227.bekkoame.ne.jp","2月6日(土)12時27分","やっぱり間があいた","2月6日付。早くも一月が終わる。1月は9日に科研で京都に。四条河原町で新年会。元オーム書店辺りの一角がOPAという派手な新ビルになっており、人出もあり、景気が良さそうだ。次の日映画を一本見て帰る。16-17日のセンター入試監督は毎年憂鬱な行事だ。あれをやらされる度に本気で仕事を辞めたくなる。全く不条理としか言いようのないシステムであり、馬鹿げた不合理な管理体制を押しつけられるし、我慢がならない。こっちが爆弾を仕掛けたいくらいだ。今回は経営学部の手伝いということだったが、ここで会場を仕切っている人たちにも苛立つ。主力が金融系で銀行出身みたいな人が多いのでそれも仕方ないか。いずれにしてもかなり気持ち悪い制度で、こんなものをこんな形でやっている国に生まれ、またそれを形通りに遂行したがる役人根性の人たちばかりの職場にいる不幸を嘆くしかない。この時期にはいつも国立大学をやめたくなるが、最近は私学に行ってもこれにつきあわされるしなあ。逃げ場がないよね。

 

"室井 尚","","yhma0227.bekkoame.ne.jp","2月6日(土)12時28分","70年代の青春群像",

"70年代文化関係の文庫本2冊、なぎらけんいち『日本フォーク大全』(ちくま)、永倉萬治『黄金バット』(講談社)が面白かった。前者は中半から筆が落ちてきているが、前半はなかなか秀逸。後者は東京キッドブラザーズのニューヨーク公演の記録だが、以前東由多加が書いた『地球よ止まれ、ぼくは話したいんだ』(講談社文庫)よりもずっと面白い。この劇団は70年代の中頃以降はメジャー路線を目指し、ミーハー受けのつまらないミュージカル劇団になってしまったが、この頃は異様なパワーに満ちていた。72年に四谷公会堂で見た「西遊記」には、まだ斉藤正一がいて迫力があったっけ。……というわけで70年前後のURCレコード系のフォークやアングラ演劇の想い出にふける。まあ、若い連中は昔も今もあまり変わらないけれどね。但し、あのころはまだアートや文学に対する強い幻想があり、西と東、体制と反体制、前衛と保守の枠組みが信じられていたということが違っているかもしれない。

 

"室井 尚","","yhma0227.bekkoame.ne.jp","2月6日(土)12時28分","宣伝","ようやくフルッサーの『写真の哲学のために』が今月中に刊行される予定。(V.フルッサー著『写真の哲学のために--テクノロジーとヴィジュアルカルチャー』深川雅文訳、室井尚解説、勁草書房)。かなり乱暴な解説を書いてしまったが、それでもこういうのもあってもいいじゃないかと思う。今月号の『現代思想』の特集「ジェンダースタディーズ」なんか見るとますますそう思うね。こいつら、本当にどうしようもないと思うもの。

 

"anonny","","nghm0138.ppp.infoweb.ne.jp","3月9日(火)01時10分","さても受験者の親は",

"さてさて、ここにかきこんでいいかどうかわかんないといへば、わかっていながらやってるともいへるのだが、たとへば、受験する子供を持ってる親は、糞でもわらでもつかみたいからあくせすしてみて、さてもものすごい情報量をまへに、茫然自失、脱糞自在となってしまふのです。

といふことで、もしも、子供がおせわになることになったら、素行調査業もおねがいしていいんかしら??? 

でもって、ここでの、匿名性ってのは、どんな、可能性があるんかとおもったりもしておりまふ

ぼう受験者のおや、、あえてなおふす(^^ 

削除きーはyokohamaです、からけしといてね

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14n39.ppp.infoweb.ne.jp","3月10日(水)00時03分","下の書き込みは",

"とても面白いので、残しておきますね。ご自身で消されるまでは残しましょう。

 そう。そういうことでここは書き込み制限を面倒だからしていなくて単なる掲示板になっているのですね。まあ、13日が入試なのでお子さんのご検討をお祈りいたします。

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14n39.ppp.infoweb.ne.jp","3月10日(水)00時05分","3月9日、久しぶりの短信です",

"3月9日付。二月は試験や口述試問、入試などであっという間に過ぎてしまった。まだ後期の面接が週末に残っている。ようやく、フルッサーの『写真の哲学�フために』が完成。その献本リストを作っていると(最近は膨大になって大変)、古い友人である細川周平の『シネマ屋、ブルジルを行く-日系移民の郷愁とアイデンティティ』(新潮選書)と四方田犬彦『星とともに走る』(七月堂)が送られてきた。ちょうどお返しができて良かった。後者は79年の著者の韓国滞在から始まる日記、日録。中心は87年から約10年の生活である。いろんな都市やいろんな固有名詞が散りばめられた、希有のアクティヴィティの持ち主である著者のこの10年の生活まるごとが詰め込まれている。これほどよく動き回り、活動する精神を目の前にすると自分がほとんど停滞していたような気がしてくる。まあ、自分と比較したって仕方ないけれどね。細川も常に移動を続けている思索者だが、一応子供ができて日本に腰を落ち着けたようだ。とは言ってもせいぜいベースキャンプができたというくらいのことだろう。新刊は90年代前半をブラジルで暮らした著者が足で書いた「移民と映画」の文化史。ロードムービー(旅の映画)ではなく、映画の旅を、摩滅してぼろぼろになったフィルムの来歴や、そ�黷゙さぼるように観ていた人々の情念の物語として語っている。

 今回から編集長になってしまった日本記号学会の機関誌『記号学研究、ナショナリズム/グローバリゼーション』(東海大学出版会)がようやく来週あたり刊行予定。最後まで某山口昌男会長と、大澤真幸の原稿が落ちるのではないかと冷や冷やしたが、本当にぎりぎり間に合いました。全体の構成は立川健二ディレクションで、国家、言語、性を結びつける大胆でラディカルな内容になっています。またアイルランドの哲学者リチャード・カーニーのオリジナル原稿も入っています。書店にも出ますのでご覧下さい。

 その山口昌男さんはついに札幌大学の学長になってしまった。ちゃんと5月の学会をやってくれるのだろうか。ちょっと心配。ともあれ、5/15,16に札幌大学で大会「仮設の記号学-建築から漫画まで」の開催が決定しています。今福龍太さんも手伝ってくれるはずなので、面白いものになると思います。2月27日にはその山口昌男さんの初のドローイングの個展「越境の人」のパーティ。同時に晶文社から『踊る大地球』が出版されました。さまざまな業種の人の集まった大盛況のパーティでした。久々に中村雄二郎さんと話し込んだり、漫画家の畑中純氏にお目にかかれて楽しかった。

 「図書新聞」に書評を頼まれて宇波彰さんの『デザインのエートス』(大村書店)を読んで共感。ポストモダニズムやカルチュラル・スタディーズに関してだいたいぼくが感じていたのと近い批判を加えている。また美術史でさかんな凝視/まなざし(gaze)論に対しても鋭い批判を行っている。平板なアイデンティティ政治学や自由選択論にうんざりしている向きにはお勧め。宇波さんはもう60代後半のはずだが、年を取ってからこれほど若々しい仕事を続けているのに脱帽してしまう。相変わらず新刊書の消化量も並大抵ではない。

 3月7,8日。学生二人を連れて大垣で開かれているインタラクティヴ・アートのビエンナーレ、「Interaction99」とそのシンポジウムへ行く。IAMASの坂根巌学長とほぼ二年ぶり。ソフトピア・ジャパンは周囲の建物も完成し、日曜日ということもあって市民も沢山きていた。だいぶ地元になじんできた様子で安心する。IAMASでも新校舎建設中で相変わらず活気があった。メインの展覧会は前回と違って若手が多く、それなりに楽しめた。ただシンポジウムはどうもいただけない。ドイツのメディアアート・キュレータ、フィンランド人でアメリカで活動するメディア批評家、ロシア出身の評論家、新しいインターフェースを提唱する技術者と全部外国人だったのだが、全員つまらない。タイトルが「The Art of Interface」だったのだが、この「Art」がメンバー全員に欠けていた。アートについて語ることとコンピュータについて語ることとが混同され、全く内容のないシンポジウムだった。まあ、こんなものかという感触を確かめられたということだけが収穫か。いろんな知り合いと再会する。筑波の集中の学生で今回出展している近森基君、元コンプレッソ・プラスチコでIAMASの先生でもある平野治朗君、大阪のインターメディウム・カレッジで教えている有馬純寿さんや野々村文宏さん、京都時代からの知り合いで三月で京都造形大学副学長を辞める映像作家の松本俊夫さんなど色んな人たちと会えて良かった。自分がマルチメディア文化課程という新しいことを始めたので

IAMASの試みはどうしても気になる。ただ卒業展を見て、どうも悪い方に向かっているような気がしした。確かに「インタラクティヴ・アート」とか「メディア・アート」とかいうアートの文脈だけに偏るのは危険ではあるが、単なる装置やシステムを組んだり、プログラムを書いたりするだけでは、専門学校や工学部の電子情報科と変わらないことになってしまう。問題はコンピュータやインターフェースではないはずだ。アート馬鹿やコンピュータおたくではない路は、知識のネットワークの中からしか生まれないはずだし、そのためには企画力や編集力を育てていくしかないのではないかと改めて考えた。

 

"受験者の親","","nghm0103.ppp.infoweb.ne.jp","3月10日(水)00時59分","あんがとです","面白いとほめてもらったから、調子に乗ってまたかくのです。(^^

 さて、今回はちょいとわかんないことがあって、参考文献なんかおせーてもらえたらうれしいのです。

 昭和35年を境にしていいんでないかとおもっているのですが、プロパンガスってもんが、一般化するようになり、日本の生活形態が、うんと変わった気がしています。具体的には、山に住むことができなくなったのは、プロパンガスが山に住む人の経済基盤を奪ったせいであるようにおもうのですが、さて、疑問というのは、ここで、プロパンガスは、めでいあ、、であったといえるんかということなのですね。

 生活を変えるという意味で非常に大きい意味をもち、かつ、日本に関する限りは、住民の意識を変えるはたらきも、たしかにありいの、ですが、プロパンガスが、生活にもたらした影響といったあたりを論じたものがありますかしら??

受験者の親(^^

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14n42.ppp.infoweb.ne.jp","3月10日(水)09時47分","つまんないこと書くようですが",

"入試が終わってからお答えします。

「受験生の親」という属性のみで現れた方には、「入試委員」という属性でお答えしなければならないでしょう。その後もお続けになるのなら、やはりお名乗り下さい。

 

"受験者の親","","nghm0129.ppp.infoweb.ne.jp","3月14日(日)00時14分","匿名性の件",

"お返事ありがとうございます、子供は、試験からかえって、家にも寄らず、どこかにあそびにいったようで、今日は親だけがアクセスしていまふ

さて、本当にじゃまなら、消していただくのが一番なんですが、そうでなくて、お話を続けさせていただけるのなら、あたしとしては、この非対称性、つまり、そちらは、実害ありいの、当方は無責任という関係、、さて、これが関係はどうかは別にしてですね、、、をしゅみれーとしてみたいという気分もつよいのです。

まあ、といったあたりで、次回のアクセスであたいの記事がのこっているなら、できれば、この非対称性にもとづいてのお話としていただけまふかしら(^^

受験者の親>入試委員

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14n05.ppp.infoweb.ne.jp","3月14日(日)12時35分","入試終了",

" というわけで昨日で今年の入試関係行事がすべて終了しました。朝6:00起きで8:00集合(遅刻した)。面接が終わったのが�P2:00頃で1:00過ぎから延々と課程会議。その後は5年前に卒業した総合芸術課程一期生の同窓会で11:00過ぎまで東口で飲む。さすがにへろへろになりました。

 書いても大丈夫な範囲で面接について書きます。今年は定員数から見て名目上の倍率は10倍弱、前期合格者や当日欠席分を差し引いても5倍強の高倍率になりました。面接点とセンター入試の単純合計点の高い順に自動的に合格になります。面接は4グループに分け、一組5人ずつ30分のグループ面接。面接官4人が相談せずに採点したものを単純に加算します。今年の目安は面接でセンター入試100点分くらいの逆転を可能にすること。去年はセンターが悪い子はほとんど全滅してしまいましたので、面接点にもう少しめりはりをつけるようにしました。

 とは言え、面接官やグループの組み合わせなどいろいろな因子が働くので面接はやはり難しい。他のチームではそうでもなかったようですが、ぼくのチームでは何人か面白い子もいた。去年も顔を見た子も多いし、今年の学生の後輩たちもいたし、60年代文化に異常に詳しかったり、出てくる固有名詞やコンピュータ用語が異常にマニアックな子もいた。まあ、大半は出願直前に成績が足りそうで、「何か面白そうだから」という理由だけで受けてくる子だけどね。センターのデータをこれに加�Zして総合順位が分かるのは週末です。我々が見るのは受験番号だけなので、面接したうち誰が入ってくるのかは我々も4月にならないと分からない。楽しみです。

 卒業生の同窓会は、現在27-29歳ということでなかなか面白かった。この辺りの年頃では5年というのは結構大きいですものね。学生時代とほとんど変わらない奴、いつのまにかバツイチになっている奴、何度も転職している奴、ついつい二次会までつきあって話し込んでしまいました。

 

受験生の親さんへ

 

 ご随意にどうぞ。しばらく静観します。もうギャラリーもついていることですしね。様子を見て必要なようなら削除させていただくこともあるかもしれません。ちなみにプロパンガスについての本というのは知りません。一次資料(ガス会社の記録やPR誌など)を当たるしかないでしょう。それも確かに一つのメディアの問題ですが、60年前後というと、テレビや冷蔵庫などの家電や都市ガス、電話の普及、団地やアパート化などとにかくラッシュのように目まぐるしく生活空間が変容していたわけですから、特にプロパンというわけでもないとは思います。

 

"受験者の親","","nghm0134.ppp.infoweb.ne.jp","3月15日(月)01時44分","おつかれさまでした",

"うちでは、予備校の入学準備にとりかかったようで、ひょっとしたら、来年の、去年も見た子、になるかもしれません。

 さて、プロパンの件、ありがとうございました。やはりそのような文献はあまりないということなのですね。まあ、私のほうは、素人の思い付きの部分でありますから、暇をみて、ぼつぼつとしらべてみることにいたします。

 おっしゃるように、私の子供時代、つまり60年代というのは、めまぐるしく生活空間が変化していたという実感を持っています。農村部に生活していた私としては日常の買い物が、付けで、できなくなったのも、このころであり、労働の金銭化が、主婦や子供の手伝いにまで、徹底してき時代だろうかと思ったりもしています。そこでは、労働がいったん金銭に置き換えられることにより、身体性を失っていった。そのことにより、いわば、労働がそれ自体の価値から、何かの為の価値へと、変質していったといっていいのかもしれませんね。

 その結果として、私たちは今、それ自体の価値を持つことをおそれ、あらゆるものを、何かの為の価値として、先送りするようになったのでしょうか。

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14f38.ppp.infoweb.ne.jp","3月16日(火)01時30分","短信特別版",

" 受験者の親さん、こんばんわ。文体変えてきましたね(^_^)

もともとここはさぼりがちで月一日くらいしか更新されていなかったのだけどなかなか上手な呼び水なのでとりあえず乗せられてみることにしましょう。infoweb経由だしNifty辺りで結構長いキャリアがおありの方ではないかとお見受けしました。

 私の方はここの自己紹介に書いてある通り、55年に山形市に生まれ、その後は企業城下町の日立市に居ました。両方ともまあ地方都市ですし、どちらの場合も私の家族は新来の植民者だった。ただ日立は特殊でほとんど全員が植民者の地区でしたけれどね。

馬見ケ淵川上流の市営アパートでは、裏の川で洗濯し、漬け物石を拾い、春にはふきのとうやよもぎ摘みをし、秋はご近所で芋煮会。味噌や醤油を隣と貸し借りし合う生活がありました。まだラジオや映画が生きていて(ちょうとウディ・アレンの「ラジオ・デイズ」のように)、「赤胴鈴の介」や「まぼろし探偵」が楽しみだった。ラジオからはよく松下電器の「明るいナショナル~」のCMソングが流れていた。確かにはらっぱと空は広くて明るかった。   33,4年頃から一般家庭にテレビが入ってきて、アパートではテレビのある人の家に近所中、年寄りから子供までが集まって相撲観戦という感じだった(人に言うとよく驚かれますが、私の場合かなり幼児期の記憶から、特に3歳以降のいくつかの出来事はかなり鮮明に思い起こせます)。

 消費と言っても店は限られていたし、選択の範囲はとても狭かった。第一、日立の場合は企業がスーパーから病院からみんな持っていて、食料品店は「供給所」と呼ばれていたくらいです。衣料品は手作りやお下がりが多かったですね。

 「情報宇宙論」という本にも書きましたが、あの頃は町で見る映画のポスターや新聞折り込みのチラシがとても魅力的に思えた。その後すぐに禁止されましたが、飛行機が飛んできて空き地に子供たちが集まる上から宣伝チラシを撒き散らしていく。それを追いかけて何枚集めたか競い合っていた。最近行ってみましたが新横浜のラーメン博物館はあの頃のその感じがとてもうまく再現されていますね。但し「空き地」や「はらっぱ」がないのが決定的にだめなところだけれども。はらっぱと青空が30年代の私の風景です。

 社会学者の大澤真幸が、昭和20年代とか昭和30年代というのは明確にイメージできるけれども昭和40年代くらいからイメージが不明瞭になってきて、(19)60年代、70年代、80年代と言った方がよく分かるような気がすると書いています。確かに昭和30年代から40年代初頭くらいまでとそれ以後とでは日本人の世界感覚が大きく違ってきているような気もします。それと、80年代と90年代の間にも大きな溝があると思います。これはたとえば外国人や外国文化のイメージの変遷にもよく現れている。

 拝金主義は明らかに20世紀アメリカが作り出したものですが、日本はそのいい生徒でした。まだまだアメリカの方が極端に功利主義的なビジネス社会なのですが、それでもそれとは違う文化の厚みも残っているのに、日本の主流は本当にお金のことしか考えていない。一番薄っぺらなところが、一番重要だ�ニ思われるようになってしまいました。不況、不況って騒いでいるけど、たとえば20年前よりは全然ましな状況だし、それに不況を脱して好況になったところで、せいぜいバブルの時のような荒んだ状況にしかならないじゃないか。別に貧乏がいいとは言わないけれど、豊かさが経済的豊かさとしてしかイメージできないのはやはり決定的に貧しい状況と言わなくてはならないことだと思います。それにどうせ自治体の財政破綻でもう一回大きな波が来ることですしね。

 プロパン絡みですが、そう言えば私の家も山形では練炭コンロや七輪でしたね。日立の社宅には途中から水洗トイレと都市ガスがつきましたが、それでもしばらくお風呂は石炭だったし、練炭コンロも活躍していた。10歳前後には風呂炊きや、夕食の下ごしらえ(鰹節削りや豆類のさや剥き)を手伝わされていたものです。それに夜の灯りが暗いし、電球はすぐ切れるものだから、無理矢理早寝させられていた。蛍光灯やスーパーマーケットも家庭生活を随分変えましたね。この辺りの研究は社会情報研究所の吉見君や水越君たちがこれからどんどん進めてくれるだろうと思いますけれど(先生やっているのと、それとどうせ学生たちがここを見ているだろうということで、好例として吉見、水越、若林著『電話というメディア』-確か弘文堂-をお薦めしておきます。はらっぱと少年漫画から昭和三十年代を浮き彫りにしている本としては四方田犬彦『漫画原論』-筑摩かな?-もいいですね)。

 ここからは本当の短信。先週から松岡正剛さんのところの「編集の国」プロジェクトに顔を出しています。さっきも松岡さんと長時間電話で話し合った。そろそろぼくのところでも具体的に何かを始めてみたいと思っています。

 

それでは。

 

"受験生の味方","b9853007@ynu.ac.jp","ppp11-yokosuka1.mtci.ne.jp","3月19日(金)23時51分","恐怖の受験生。",

"受験生の親さん、、、、まさか、僕の勤める予備校に申しこんだのではないでしょうね、、、、<Yゼミ横浜校(そんなことになったらこれで3人目)宣伝じゃないけど。

後期試験の当日に申しこんだ人もいたそうですし。ちなみに4/3、3/20にいます。よろしければ。

あぁ、明日の不合格発表がコワイ。

室井先生へ。

短信は駄文とは違いますよね。申し訳ないです。

 

"受験者の親","","nghm0125.ppp.infoweb.ne.jp","3月20日(土)00時41分","明日をまえに",

"受験生のみかたさん、ありがとう(^^

あたしは関西の住人で、某y落日予備校は、こちらでは人気ひくいのです。

さて、明日がくる前に書き込んでおこうと思って、原稿用意したんで中途半端ですが送ってだけおきますね。原っぱ、もしくは、ひろば、というものを、原風景とされているのは、都会、あるいは、町の生活者であったからでないかとおもったりしているのです

私は49年、富山県にうまれ、現在は滋賀県北部にすんでいます。富山は、純粋農村に住んでました。ただ、祖父が分家したときにもらった田んぼを、ばくちと酒でなくしてしまい、父親は地方公務員をしていました。母も、電話の交換手で、共稼ぎでしたから、私は元祖鍵っ子といった趣があり、級友たちの生活リズムとあわないところがおおかったのです。私は祖父母が、農作業から疎外されていたせいで、充分すぎるほど暇でしたが、彼らには、自分のしごと、たとえば、田の草取り、風呂焚き、落ち穂ひろいなど、があり、それが遊びより優先されていたようにおもいます。

はらっぱですか。私のところは、農家の前庭がひろいのです。そこで脱穀などがなされていたせいなのでしょう。礪波ほど極端ではありませんが、家と家との間隔が広く、近所の子供たちが4-5人といった程度なら、そこで十分遊べました。それより大人数になると道路での鬼ごっこになりますかしら。この時も、秋おそくなら、田んぼにはいります。野球などは、お宮さんの前でしました。ですが、それは、人数がそろわないとできなくて、普段は家の前庭から道路にかけての<かいど>での遊びであったように思います。ですから、はらっぱというのは、町の子供の風景ではないかしらとおもいます。

ラジオには、あまりはっきりした印象がありません。家の茶の間の上のほうに40×60ぐらいのラジオがあったのは間違いありませんが,何を聞いていたのかな。赤胴鈴の介は、少年画報かな。連載もののほうが印象に強く残っています。落語を聞いて喜んでいたのはまちがいなくおぼえているのですけれどもね(^^

我が家にテレビが入ったのは、私が小学校5年ぐらい、昭和34-5年といったあたり。私の家の向かいが自転車屋さんで、そこが、むらで一番始めにテレビをいれました。かなり広い土間が、夕方からはテレビ観覧の場所となっていました。おっしゃるように、相撲や、プロレス、それに、私にとっては、NHKの日曜日の推理番組、徳川無声が司会していて、ゲストが犯人当てするというもの、などを、大人たちと一緒にみていたようみおもいます。これが2年ぐらいあったのかな。その後本家にはいったtvを見せてもらいにいったりしましたが、これは、ちょいと遠かったことや、私より5歳ぐらい年上の、其の家の子供が見たい番組と、私の見たい番組とがあわず、また、親たちもなにかと遠慮があったようで結局テレビを購入したことでした。それでも、村では早いほうであったと思います。

この、テレビを家にいれるということで、私はすっかり嬉しくなってしまいそのころとってもらっていた、月刊誌をやめてもいいと口走り、親はうまうまとそれにつけこんだことでした。

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14n38.ppp.infoweb.ne.jp","3月21日(日)00時31分","うーむ、おもしろい",

" 寒い雨の日でしたが、(不)合格発表いかがでしたでしょうか。私も誰が合格したのかよく分からないのですが、何せ高倍率ですから残念でした、ということになっている可能性もあるかもしれない。「親」さんではない「受験生の味方」の方はよく知っている人物のような気がするけど、君のリンクからの受験生のページもなかなか面白かった。

 結論はやはり国立大学である限りセンター軽視とか無視というのはなかなかできないし、今回もとても多かった*00-*00点台はさすがに救えなかったけど(面接最高点も落ちていた)、それでも目標通りの逆転例もあったのでまあまあの結果と言うしかないでしょう。試験だから仕方ないよね。人生いろいろあるし。ただいつも思うのはパワーがある子はどうも極端な不得意科目があることが多いようですね。

 ということで、おじさん話を続けましょう。

 とても興味深く読ませていただきました。そうですね。町と言っても開拓地のようなところばっかりでしたけどね。日立という町は昔竹中労が日本で唯一「階級が目に見える町」と書いたところで、われわれ日立製作所の社員やその家族が旗本、御家人で、次がその下請けや商店の人たち、海沿いが昔からの漁民と、それが山側から海側にきれいに住み分けている町で、私の小学校はその漁村地区にありました。全部の「階級」が入り交じっていたけれども主流は漁村の子だった。そのために小学校時代はかなりハードな毎日でした。周囲の連中はそうでもなかったようだけど、ついでに大企業嫌いになって就職しなかった(できなかった)のもそういう環境のせいかもしれません。父の実家は南会津でしたが、確かに農村に住んだことはないですね。

 「親」さんの場合、どんなものを着ていたんでしょうか?まさか着物に雪駄ということもないでしょうが、私もそうでしたが少なくとも消費とかファッションとかには無縁の生活だったことは確かでしょう。消費社会の波はまだ遠かった。その代わり、雑誌やラジオや映画が伝えてくれるいろいろな情報に対する憧れは強かった。余りに身の回りの生活とかけ離れていたからかもしれません。漁村には信じがたい程貧乏な同級生もいましたね。トタンのバラックで畳もない家に住んでいたり、風邪で休んでいる子には必ず給食のパンを届けてあげていたものです。どっかから流れてきて、またいつのまにかどっかに流れていく同級生もいた。

 「赤胴鈴の助」の漫画は確か武内つなよしだったかな。『少年』とか『少年画報』は子供にとって大きな楽しみだったし、貸本屋のネットワークもあった。たまに父親が持って帰る週刊誌も貴重なメディアでした。それでも私の場合、書店に飾られている児童文学書の挿し絵や、映画のポスターが一番強烈だった。図書館や書店を覗くのは本当に楽しかったですね。まあ、これも小さくても「町」に住んでいた特権かもしれませんね。

 最近やはり北陸の農村部出身の学生から、田舎のメディア武装の話を聞きました。つまり、随分以前からSkyPerfecTVのような多チャンネル衛星放送の契約率が並外れて高く、家族全員が携帯電話を持っているのが普通だというような話です。コンビニや宅配などによるロジスティクス革命とインターネットが結びつくことで、田舎の経済生活が随分変わっていくのかなという気もします。メディアの凄いところはそういうところですね。情報革命というのは物流革命と必ず結びついている。

 

 

"yuuko","yuuko@fsinet.or.jp","ppp-yk205.fsinet.or.jp","3月22日(月)03時49分","受験生の味方の背後霊(^^;;;",

"こんにちは、はじめまして。yuukoと言います。

私は、今年、マルチを受験して落ちた受験生のうちの一人です。(ちなみに、「受験生の親」さんとは関係ありませんが、「受験生の味方」さんにはこの半年弱、迷惑をかけまくりました。)このページは、何回か拝見させていただいています。

(受験生がここに書き込みしても大丈夫、、、なのでしょうか?もしマズければ、削除していただいて構いません。)

前期試験では、私の試験の部屋の試験監督が室井先生でした(^^;;;後期試験では、お会いしてませんが(笑)。私にとっては、今年は前期も後期もともに、「不」合格発表となってしまいましたが、センター試験が終わってからの2ヶ月間は、本当の自分を見つめ直すための、いいチャンスだったと思っています。

大学に入って、早く自分のやりたいことが実現出来るように、目標に向かって頑張ります。

また、このページには遊びに来たいと思います。

では。

 

"受験生の味方","b9853007@ynu.ac.jp","ppp11-yokosuka1.mtci.ne.jp","3月22日(月)04時40分","早く成仏しろ↓",

"とっとと受かれこのやろー。

でも、入ってから周りを見渡して、あんたよりダメなやつを見たらそいつとは付き合わないことにするよ。そいつに向かって言ってやる。入りたくても入れない子もいるんだと。

 だいたい、センター試験の点数で入ってるヤツ(俺もそうか(爆))が多いんだろうね。

先生、、、申し訳ない。

 

"Doske","b9853038@ynu.ac.jp","kanagawashinmachi3-69.teleway.ne.jp","3月23日(火)01時37分","お初です。",

"「今年の学生の後輩」の一人は落ちた模様です。

実技はそれなりなんですが、なんとも言えない所です。

入学して来た二期生が彼やyuukoさんより面白ければ良いんですが・・・。

 

"室井 尚","","ger15.ed.ynu.ac.jp","3月23日(火)13時04分","なんだか",

"「受験生の広場」になっちゃったなあ。残念でしたけど、人生けっこう(嫌になるほど)長いんだから

これで何かが決まったわけではないということで頑張ってください。入試は選抜ですから面接がどんなに良くても総合点で決まってしまう。センターを頑張ってください(としか言いようがない)。

 

"受験者の親","","nghm0143.ppp.infoweb.ne.jp","3月23日(火)23時09分","照る日曇る日",

" ここも、なんだか書き込みがふえてきましたね。(不)合格発表をうけられたかた、長い目で見ればたいしたことではありませんからね。どっかで、痛みをうけておくってのも大事なことだとおもいます。

うちでも子供は予定どうり(^^;;;;アウトでありました。今回は前期と違って原因に心当たりがあるようで平静をたもっております。

今後の選択がどうなるか、こどもしだいですが、現在のところ、私学進学、留�w、浪人、といったところで、気持ちがゆれているようです。

着ていたものはさすがに、着物に雪駄ではありません。洋服に短靴というのが定番でありました。夏はズボンに下着のシャツで、遊んでいたはずです。短靴はゴム製でした。ちょっと汗をかくと足に黒い輪のような、汚れがついたものです。夕方家に入る前には、川で足を洗ってからでなければいけませんでした。当然靴下は、履いていません。靴下は冬場だけのものでした。これは、先に紹介した自転車屋の隣が靴屋でして、そこで買ったものです。単に足のサイズをいえばそれでよかったんでないかな。メーカー指定なんて想像もしたことがありませんね。学校では運動靴を上履きにしていたのですが、私はこれをよくなくしてしまって、親に言い出すチャンスを見つけられずに、小学校では裸足でいる時間が結構長かった。その他の季節、特に冬場なにをきていたんでしょう。小学校時代は制服ではなかったとおもうのですが、どれを着ようというような選択の余地はなくて殆ど毎日着たきりであったのでしょう。着替えるのは朝、親が用意してくれたときだけだったようにも思います。買っていたのは、村にあった呉服店で、日用品はここで買っていたのでしょう。わたしには、なにをかったという印象はありません。ファッションなんてものに関心をもつようになったのは、高校時代、それも、私の友人が当時としては並外れてその方面に関心を持っていた影響であるようにおもいます。それでも、自分で買って着てみようという気にはならなかったようで、後に大学に入ってから新京極にあったvanの専門店を覗いて値段がびっくりするほど高かった記憶はのこってます。ボタンダウンなんて言葉を知ったのは、彼が読んでいたメンズクラブから仕入れた知識ですが、グラビアページに出ている服を、富山の洋服店を軒並み回っても値段さえわからず、手に入れることができず、結局あきらめたこともありました。

上に述べた呉服店が小学校5年ぐらいから貸し本屋もやっていました。といっても、どこか町の貸し本屋の委託であったものか、本棚1つぐらいしか本がありませんでしたから、私のように1冊借りるまでに、2-3冊立ち読みしてしまうという者にとってはあっさり在庫を読み切ってしまい、利用することも少なかったのではないでしょうか。中学3年のときに、交通事故にあい、2-3週間入院していた、病院の前には、貸し本屋があり、そこで「影」や、「忍者武芸帳」は借りたようにおぼえていますから、貸し本屋というのも、確かに、町のものでしたね。ですから、私にとっての漫画は、月刊誌のものでした。小学校は、同級生が70人ぐらい、2学級でした。この中に、「少年」「少年画報」「漫画王」「冒険王」といったあたりを月決めで買ってもらっているのが、1誌に1人ぐらいいたとおもいます。まず、彼らがこれを交換でよみあい、その後私のように、交換材料をもっていない人間が1日づつ借りるというのがルールとなっていました。このペースで回ると、最後に回ってくるまでに、半月ぐらいかかるのです。それで、早くに借りた人のところにいって、付録を先に読むとかして、新しい情報を手に入れたものです。少年マガジン、サンデーの発売が59年かな、私の小学校2-3年のころですが、週刊誌はこの回覧ルートに乗らなかったのでしょう。村の床屋にときどき補充されるバックナンバーをみるぐらいで、週刊誌にふれるのはずっと遅れ、中学、高校です。

同級生にさすがに<畳も無い>というレベルの貧乏なものはいませんでした。これは、むしろ当然で、農村では、共同体の成員である資格、つまり近所つきあいができる間は、手厚くうけいれてくれるのですが、そこを失うと共同体から排除され生活できなくなり、村にいられなくなるのだと思います。農村共同体では、成員がそこを維持していく余分なコスト、共同作業、つきあいなど、がかかりますが、例えば、戦争中などは人手の欠落部分を共同体が補充してくれるなど、自分たちの生活それ自体を維持する最低限のコストは低いのですが、それを維持できなくなると回復する手段が、きわめて限られるからだと思います。村はこのような形での脱落者が生じると欠員を親戚が新たに家をつくるとか、養子縁組みという形で補充し、村としての機能を維持してきたのではないかと感じています。これは、当地の村ですが、総戸数はあまり変化していないのに、その成員は、ずいぶんいれかわってしまったという話をきいたことがあり、そこから考えている、私の仮説です。共同体から排除する村八分というものが、実際に行われたかどうかは別として、そのようなルールを想定して自然であるほどに<つきあい>こそが村の生活なので、そこを維持できない人の受入先が<町>であったのではないでしょうか。

なんか、「忘れられた日本人」(宮本常一)の現代版やってるみたいな気にもなりますが、いろんな角度から折りに触れ自分の時代というものを、肉付きの確かなものにしておきたいという希望が、私にはあり、これはこれで楽しんでいます。ご迷惑でなければ、もうちょい続けてみたいですね。

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14f43.ppp.infoweb.ne.jp","3月24日(水)23時20分","神は細部に宿る",

"せっかく志願していただいたのに、とりあえずお子さんの件は残念でした。

ここのボードのことがあったので、入ってきていたらいきなり人気者になっていたでしょうに。

今回いただいた文章もなかなかでした。単に私より少し年上だからなだけではなく記憶がとても細部にわたっていて、読んでるとこちらの忘れていたこともいろいろ鮮明に浮かび上がってきました。

たとえば、靴の件、

>短靴はゴム製でした。ちょっと汗をかくと足に黒い輪のような、汚れがついたものです。夕方家に入る前には、川で足を洗ってからでなければいけませんでした。

これは全くその通りでしたね。家に入る前に足というか足首辺りを洗う。なんであんなに汚れたんでしょうね。ゴム底といっても人造ゴム、ズックの布引の靴。何と言うか靴ひものかわりにゴムで締めている部分がすぐふにゃふにゃになったり、細いゴム糸がはみ出してきたりした。

>学校では運動靴を上履きにしていたのですが、私はこれをよくなくしてしまって、親に言い出すチャンスを見つけられずに、小学校では裸足でいる時間が結構長かった。

低学年の間は「草履袋」という変なものを持たされていたけど、学校に置いておくと確かによくなくなりました。しかし裸足だとかなり汚れましたね。ボロボロになって放置されている誰かのものを拝借することもありました。

また月刊誌の貸し借りのネットワークもありましたね。たいてい変な付録とか大量の「別冊」がついていて、何だかあのころの月刊少年誌って全部福袋みたいでしたね。あまりの分厚さに必ず縦横の紐でしっかりくくられていたものです。絶対嘘だと思いながら、来月号の付録は「豪華トラシンーバーセット」とか書いてあるとわくわくしたり(実際はボール紙でトランシーバーに似せた糸電話)、あるいは広告の「頭が良くなるノーベル・バンド」とかに惹かれたりしたものです。このノーベル・バンドの印象は結構強烈で私はいまだにスポーツ用のバンダナというか、鉢巻き状のヘアバンドの愛用者です。

ファッションに関しては、高校時代に制服自由化運動というのをやったせいで、何となく責任上私服を着なくてはならないということで苦労しました。ジーンズなどはまだ作業服屋さんにしか置いていなかった。広島や岡山辺りのメーカーですね。それも一二年でラングラーやリーバイスも入ってくるようになった。70年代前後のことです。あのころの変化は本当に速かったですね。私が京都に行ったのは73年ですが、在学中に市電が廃止になり、電柱の街灯が水銀灯に変わっていった。

世代話は確かに面白い。特にその細部が面白いですね。ほっておくと身の回りからどんどん消えて行くし、記憶からも消去されてしまいそうです。

ということで、好きなだけ居て下さい。また、その逆に好きなときに離れられても結構です。いずれにしても今回はとても面白い出会いでした。

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14q08.ppp.infoweb.ne.jp","4月3日(土)23時56分","とりあえず、短信。",

"前回が24日ですから、そこでまた一つ齢を取り、25日は卒業式+謝恩会。それなりに毎年感慨深くなってしまいます。特に総合芸術課程に関しては今年卒業する子たち辺りからこちらが学部改革騒ぎで余り面倒を見られなかったこともあり、ちょっと申し訳ないような気もする。

 仮称「編集の国」の企画会議が進行中で、メタネットワーク構想というようなことを考えています。IAMASやSFCに行っている永原康史さんと取りあえず打ち合わせ。札幌、仙台、大垣、北九州、福岡などで進行中のマルチメディア関連のプロジェクトや、筑波、ICC、SFC、IAMAS、インターメディウム、横国などの学生ネットワークを横断的に結びつけられないかという、かなり難しい構想ですが、できるところから始めていくことができるかもしれない。 

ぼくが編集長を務めた日本記号学会編『記号学研究19:ナショナリズム/グローバリゼーション』(東海大学出版会、3000円)がようやく刷り上がりました。学会誌の体裁ですが、表紙イメージや組み版を少し変えて親しみやすくしてみました。内容は結構充実しています(山口昌男、大澤真幸、立川健二、リチャード・カーニー等)ので、よろしくお願いいたします。

 

カイテツ","gontiti@mx1.ttcn.ne.jp","kgw-aa5.ppp.ttcn.ne.jp","5月10日(月)02時56分","初の書き込みです。",

"前からこの短信のところ楽しみに見てたのですが、最近は書き込みが少ないですね。寂しい限りです。

室井先生の短信も見ません。寂しいッス。僕のような読者のためにもマメに書き込みをして下さいね、室井先生。

今度は何か面白いことでも僕みずから書き込みます。それでは。

 

"室井尚","","cs14q23.ppp.infoweb.ne.jp","5月11日(火)22時33分","何かいろんな人がくるなあ",

"まあ、いいや。それにしてもカイテツさんって誰?

ではでは、簡単に近況などを……。と言っても4月は新学期でとにかくばたばた忙しかったですね。図書新聞と読書人に書評を一本ずつと、InterCommunucationに大垣のレヴューを書いたぐらいで終わった。フルッサー本にはいろいろな人から力づけられるお便りをいただきました。

それから編集工学研究所の「編集の国」の企画会議にもだいぶ顔を出しましたね。あとは、24日には京都祇園での唐組「眠り草」。打ち上げの宴会はなつかしの北白川別当町のジュネスでやりました。1日の新宿花園初日にも行きましたが、祇園はなかなか良かった。帰りに最近オープンした名古屋ボストン美術館ものぞいてきました。

5月3日には横浜美術館でイメージフォーラムのフェスティバルに、元学生で今は大学教員となった京都の寺島真里のフィルムを見に行き、松本俊夫さん、木下長宏さんとなつかしい話で盛り上がりました。

実はまだバタバタしている最中で、木曜日はNTTの広報誌のために養老孟司さん、亀山佳明さんと座談会、金曜日からは記号学会のために札幌に出かけます。

そういえば新曜社からようやく『カルチュラル・スタディーズとの対話』が出ました。ほんの少しですが執筆者としても関わっているので余り言えないが、やっぱりつまらないなあという感じです。それにしてもたった三年前なのに凄く昔のような気がする。

 

"カイテツ","gontiti@mx1.ttcn.ne.jp","kgw-ab75.ppp.ttcn.ne.jp","5月15日(土)09時45分","誰とは失礼な!",

" ただの一室井尚ファンです。よろしくね。","1","2"

 

"梓","b9953025@ynu.ac.jp","","5月18日(火)12時46分","八重洲ブックセンターの謎"," 先日、”情報と文化A”の授業で先生は、「八重洲ブックセンターは、駄目だ!」といっておりましたが、その八重洲ブックセンターで僕はみつけました。先生の著書(正確には共著)である、「情報と生命」(新曜社)を。今、がんばって電車の中で読み進めております。

この本が、単に手に入りやすかっただけでしょうか、それともただの偶然でしょうか、あるいは「よくやった」と、八重洲を誉めるべきなのでしょうか。感想、質問は、もう少しよみすすめてからおくります。

 

"ベイ","hir@mx1.ttcn.ne.jp","kgw-aa185.ppp.ttcn.ne.jp","5月20日(木)18時53分","謎じゃないよ",

"「情報と生命」は横浜でも手に入りますよ。僕は新宿の紀伊国屋で買いました。

ところで、僕は最近パソコンを購入したばかりなのですが、先生は、御自宅ではMacとWindows、どちらをお使いですか?

 

"室井尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14p42.ppp.infoweb.ne.jp","5月26日(水)00時48分","まあ、とりあえず……",

"はい。一応「情報と生命」は絶版ではないのであるところにはあるはずです。八重洲は本の配置がめちゃくちゃだものね。

ということで短信。

 5月13日には赤坂ニューオータニでNTTの広報誌のために養老孟司さん亀山佳明さんと座談会。養老さんはちょっと思っていたイメージと違って面白かった。座談会自体は少し雑然とした話になってしまいまた。

5月14-17まで日本記号学会で札幌に行って来ました。札幌は初めてだったのですが、さすが北海道は寒い。桜の花が咲いていましたが、北海道では「リラ冷え」というとか。ホテルはススキノだったのですが、毎日会場の札幌大学と飲み会でほとんど遊べなかった。山口昌男学長の「バー学長室」で毎日遅くまで飲んでいた。最後の日だけ札幌ビアガーデンでジンギスカンの食べ放題というのをやってきました。流石に食べ物はみんなおいしかったです。旧道庁の文書館で北海道の開拓計画がアメリカ主導だったこと(アイヌ=土人というのはインディアンのことだったんだ)、初期には地方の藩が各地域の開拓の担当をさせられたこと(九州あたりの人たちが千島などに配置されていた)、いろいろ知らないことがあって面白かった。旧植民地や満州辺りへの植民のモデルだったんだろうなあ。それにしても北海道は広いし北大も広い。

学会では畑中純、木戸敏郎、川俣正さんの講演があったのですが、何と言っても「まんだら屋の良太」の畑中純さんが圧倒的に面白かった。すっかりファンになってしまいました。帰って色んな古本屋で探したんですが20冊くらいしか買えなかった。月子の浴衣をめくっている良太の絵も描いてもらったし、満足。札幌大学に移って雪かきで腰を痛めて入院してしまった今福龍太さんにも久しぶりに会いました。記号学会も内情はなかなか大変ですが、10月にはドレスデンで開かれる国際記号学会にも顔を出す予定。ここと11月に日文研で開かれる国際シンポジウムでU.エーコと一緒になれるのが楽しみ。 

唐組雑司ヶ谷鬼子母神にも顔を出しました。三回目ですが演出もまた変わり舞台の出来はとても良かった。この日は大久保鷹、小林恭二、山崎哲さんが来ていたのですが飲み会も面白かった。

東京新聞の読書欄に新曜社「カルチュラル・スタディーズとの対話」、作品社「カルチュラル・スタディーズ入門」に絡めてリン・チュン「イギリスのニューレフト」(彩流社)の書評を書きました。いろいろやらなくてはならないことがたまってきています。","1","2"

 

"カイテツ","gontiti@mx1.ttcn.ne.jp","kgw-ab167.ppp.ttcn.ne.jp","6月2日(水)22時28分","北海道の定番",

"僕も北海道旅行に行った時、その大きさに驚きました。勿論「北海道はデッカイドー」と叫びました。先生も叫びました?これをやると北海道気分を満喫できますよ。","1","2"

 

"室井尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14s41.ppp.infoweb.ne.jp","6月5日(土)00時45分","世界は広い",

"北海道が予想を越えて広かったのは確か。あの風景を見ると北海道開発庁というのはまだ必要かなとは思った。だが、日本が狭いのは狭いところばかり動いているせいかもしれず、東北や北陸地方などに行くと空や森が広がる場所はまだかなり残されているはずだ。

 広いと言えば、去年行ったスロヴェニアも国土は狭い割にどこもかしこも広々した美しい国だった。先日六本木の青山ブックセンターでずっと探していた坂口尚の『石の花』(講談社漫画文庫全5巻)を買った。ドイツ軍に対するユーゴスラビアのパルチザンの話だが、タイトルの「石の花」とは前にここでも話題にしたボストイナの鍾乳洞の大石柱のことである。主人公の少年クリロに 対して第一巻だけに登場する印象的な人物である代用教員フンベルバルティング先生は次のように言う。 

「クリロ、きみにもこれが石の花に見えた! それだよ、すばらしいじゃないか!! これは石の花じゃない! 花に見ているのはぼくたちのまなざしなんだよ!」

 この夭折した手塚治の愛弟子でもあった漫画家がなぜ80年代前半の日本でユーゴのパルチザンをテーマにした長編を書こうとしたのか定かではない。だが、この十年来続いているこの地域の血で血を洗う抗争は50年前から、そしてさらに数百年前から続いていたのは�mかだ。去年ボストイナを訪ねた時にも、戦争中この巨大な洞窟がドイツ人とスロヴェニア人、セルビア人、さらには親独的なクロアチア人たちによるさまざまなドラマの舞台となった話を聞いた。同じ日に行った港町ピランで見たアドリア海が余りに美しく、どこまでも透き通るような光に満ちていながら、クロアチア、オーストリア、イタリアといったた隣国が肉眼ですぐ近くに見えている。オスマン・トルコに長いこと占領されていたこの地がずっと「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、いまもそうであること、そしてそれはインドネシアや朝鮮半島や、おそらくは将来の中国とも無関係ではないということを改めて考えさせられた。

中国と言えばもう八年も前に武漢の学会で出会った李珊さんからメールを頂いた。まだ大学に入学したばかりの少女だった彼女は外国語学校の出身でいきなり流暢な日本語で話しかけてくれて驚かされた。着物(のようなもの)を着て日本舞踊(のようなもの)を歓迎会で踊ってくれた日本好きの彼女に、ぼくたちは何とも複雑な思いをしたものだったが、その一年後武漢で再会し、カラオケや夕食を共にした。この頃中国は急成長中で武漢の町は一年ですっかり様変わりしており、輸入車のタクシーも増え、電話が普及し始めていた時期だった。おそらくは、まだ特別な人たちに限られているにしても、その彼女から突然メールが届いたのだから驚かされた。結婚してアメリカかカナダで働くことになると書いてある。日本に一度も来てもらうチャンスがなかったのがとても残念だが、とてもうれしかった。もう、いまや彼女はこのページさえ見ることができるわけだ。やっぱり、なんだかんだ言ってもインターネットって凄いよね。 

二回ほど山下公園付近で遊んだ他、六本木からタクシー帰りと飲み会続き。唐組鬼子母神公演、新宿梁山泊の秋葉原でのテント公演「東京アパッチ族」を観る。畑中純さんから新刊コミック『大多摩月夜』を頂いた。猥雑、幽玄、洒脱の世界である。

 

"室井尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14n42.ppp.infoweb.ne.jp","7月28日(水)10時00分","少しだけ近況",

"ベッコアメのカウンターが壊れて、回復したという話だったけど、どうやら単にリセットされただけらしい。17500台には行っていたと思うんだけれど、これでは直ってもあまり意味ないなあ。

余りに長いことサボっていたのでもはや何があったかあまりよく覚えてはいないのだけれども、6月7月と慌ただしく過ぎていった。唐組の公演も終わり、新宿梁山泊の「東京アパッチ族」と「千年の孤独」でも新しい出会いがあった。秋は再び「秘密の花園」。12月には梁山泊による「少女都市からの呼び声」もある。

梅雨が終わり、あっという間に猛暑続きの毎日になり、窓の外ではミンミンゼミやアブラゼミがやかましく鳴いている。ぼくの家の周りは風致地区になっていて、いろんな昆虫や鳥たちが沢山いる(狸、ウズラなどもいる)。ナナフシなどという、図鑑でしか見たことのない虫が普通に居て驚かされる。

つい先週だけれども、父親の生まれた田舎町、会津田島の祇園祭に20年近くぶりに行った。田舎のお祭りだが、鎌倉時代から八百年も続いているだけに、何となく落ち着ける。濃緑の山と青い空、真っ赤な鳥居と風にはためく旗……と、本当にまるで絵に描いたような祭りの風景だった。","1","2"

 

"ぽめりうむ","Taeko.Matutaka@mb2.seikyou.ne.jp","okinawa-092.seikyou.ne.jp","9月6日(月)12時49分","昔話したいです、そんなサイトがあったら教えてください。",

"こっちも面白かったよ~。あっちとどっちにしたらいいのかな?受験生の親さんと同い年です,イェ~イ!

・・・という文体は、ここではご法度ですか。「親」さんはもう来ないのでしょうか。

同じ49年生まれでも,昔話は70年代赤坂,六本木が舞台です。みゆき族のなれの果て」でございます。

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","yokohama1-43.teleway.ne.jp","9月13日(月)10時45分","夏休みも終わって",

"もうさぼっていた言い訳もしません。8月は基本的には大学と家の往復でたまっていた原稿を書いていた。

まだ、単行本の分が滞っているし、来週から名古屋大学大学院の集中講議、金沢での美学会、ドイツ・ドレスデンの国際記号学会、京都日文研主催の国際シンポジウムとスケジュールがつまっています。もう半分やけくそになるしかない。

8月は科研で京都に行ったのと、あとは恒例の唐組山中湖稽古場公演くらいでしょうか。

そういえば、7月末にPowerbookG3-400Mzが届きメインの環境を移しました。これはなかなか快適です。ただどうせ二三年で古くなることであろう。DVDがついてくるのですが、これが結構ヒット。これまでにない新しい映像体験です。メディアもほぼCDと同じだし、これは普及するだろうなあ。

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14q28.ppp.infoweb.ne.jp","10月4日(月)23時55分","旅立つ前に ",

"明日10月5日から15日までドレスデンで開かれる国際記号学会に出かけますので、その前に近況を少しだけお伝えします。

忙しい上にレポートの山で死にそうだった。一年生必修のメディア基礎論、三人で分担しているのになぜぼくのところばかりに出すのだろう。それもほとんどは大して力作でもないので、人気があると言うよりは舐められているのではないだろうか。その他、初めて試みたメール・レポートも大変。読めなかったり何故か何通も来たり手間取った。全部で250本ほども読まされてしまった。どっと疲れる。

9/20-22まで、名古屋大学大学院人間情報研究科で集中講議。喋り通しでハードだったが、学生にとってはもっとハード。しかもここは理学系・工学系・人文系・社会科学系・アート系と専門がめちゃくちゃ多岐にわたっていて、しかも余り統合されていない、何と言うかタコ足配線型の大学院なのでターゲットが絞りにくい。反応がおとなしくて苦労したが、レポートはなかなか力作揃いで面白かった。横国の情報芸術コース一期生でここの修士を卒業して今は事務職員になっている中川幹夫君や同じくD3の山田和則君も顔を出してくれた。

一日目の晩はここの数学の先生の松本裕行さんと13年ぶりに飲む。この人とは20年近く前、お互いに大学院生だったころに学習塾のアルバイトで一緒だったのだ。結構長いこと働いていたので思い出話に盛り上がり、その頃お世話になった塾長宅に酔っぱらって電話をしてしまう。まあ、喜んでいただいたので良かったが夜分御迷惑をおかけしました。次の日は呼んでもらった茂登山さんに名古屋港の倉庫を使ってやっている展覧会場アートポート99を案内してもらう。ついに長いこと名古屋で開かれていたメディアアートの国際展覧会ARTECが終了してしまったので、名古屋の美術界も少し寂しくなったが、この場所はなかなか頑張っている。アーティストで名古屋芸大の先生でもある津田佳紀さんや学生たちと雰囲気のいい居酒屋で過ごす。それにしても名古屋港の観覧車(やはりあるのだ、これが)のイリュミネーションはちょっと凄い。日本一派手なのではないだろうか。そういえば戻ってから名古屋出身の学生に聞いたが、名古屋港には金鯱鉾の形をした(?)遊覧船があるそうだ。恐るべし。新幹線の窓から派手な広告が見える「マコンデ美術館」について知っている名古屋人には会えなかった。24日の試験を変わってもらったので22に帰宅する。24に行っていたら例の竜巻きに巻き込まれていたので幸運だった。色々お世話になりました。

東海村の放射能流出事故に関しては、中学高校の六年間すぐ隣の駅から通っていたので身近な事件に感じた。今も同じところにいたら10km圏には完全に入っていたでしょうね。まあもう何十年も原子力開発をやっている地域なのでいろんなことが麻痺しているのかもしれない。ちょうど1日から3日まで金沢の美学会全国大会があったのだが、小松空港から市内までのバスの中のテレビニュースで石川や福井の原子力施設が一斉に点検を始めたのがおかしかった。通常は点検していないみたいではないか。

その金沢の美学会ですが、ここを覗いている人も関係者で多いみたいなので敢えて書きますが、全く面白くなく不快なことが多かった。美学会50周年企画というのだが、学会―特に美学会のようなポスト配分型の学会なんて抑圧制度に決まっているのに、未だに自律的な学問が存在しているかのような白々しい話ばかりのシンポジウムや質疑応答があり、まあそれは年寄りの問題なので無視するにせよ、大学院生から30代前半くらいの若手の発表がこれまたひどい。古めかしい文献学的方法をドゥルーズやデリダに適用し、せっかく面白いものをくそまじめで重苦しいものに変えてしまうものや、何の広がりもなく現代の批評理論や思想家を教科書的に中途半端にここまでは勉強しました的なもの、単に書店に沢山並んでいるものを権威としてそのまま受け入れてしまうもの。とにかくすべてがひどく、何もコメントする気にさえなれなかった。発表者の思考の跡というか志しのようなもののかけらもないのだ。これなら18世紀や19世紀の埃にまみれた原書をじめじめした薄暗い閲覧室で読んでいる奴の方がずっといい。要するに余りにもみんな既成の知的システムを自明のものとし過ぎなのだ。だから、そこから離れた場所では気楽な顔をしていられるのである。平気で「美学会の発表ですから、こんなもの――つまらないけど、きちんと形式だけは整ったもの、くらいの意味か?――ですよ」とか言えるのだ。よくもまあ平気な顔していられるよ。じゃあ、どこなら面白いんだと言いたくなる。というわけで、こんな学会さっさと脱退してしまいたいという話題でおじさんたちだけで夜中まで盛り上がる。日仏哲学会もそうだけど、本当に下の世代はつまらない。もちろん上も同世代もダメはダメなんだけど、下に期待しているだけに落胆が大きい。

金沢では、9月から「古本とコーヒーとビールの店」ダックビルを開店している安藤紫さんとひさしぶりに会う。市役所前のビルの四階で場所もなかなかいいし、頑張って下さい。年内にあと二回ほど石川県の仕事で金沢を訪れる予定。

というわけで、明日からはまた山口昌男さんたちと一緒で色んなことがあるでしょうが、帰国してからもいろいろあるので体力を温存して帰ってこようと思います。唐組公演「秘密の花園」は8日初日で四週間。これは本当にお勧めです。それでは。","1","2"

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","cs14q17.ppp.infoweb.ne.jp","10月19日(火)01時41分","ドレスデン日記",

"10/5

深夜空港に降り立つ。ホテルの位置を地図で確かめると、駅に面した通りの20番だったので(ヨーロッパの町は通りに面した建物にナンバーがふってあることが多く、偶数・奇数で道の両脇に振られていることが多いので)建物10個分だなと見当をつけ、タクシーではなく駅までのバスに乗る。ところが駅で降りたのはいいが、通りには建物がほとんどない。空き地か建設現場か緑地帯なのだ。とりあえずスーツケースを転がしながら歩くが、1kmほど歩いてもホテルらしきものも建物らしきものも見つからない。石畳が歩きにくく街灯も少なくさすがに不安になり、誰かに道を聞くしかないと思いはじめる。前から白いコートをきた老人とその数十メートル後ろに大学生風のカップルが見える。老人は多分英語が通じないから後ろのカップルに聞こうと心に決めて歩みを速める。するとその白いコートを来た人が振り向くと何と山口昌男さんだった。早めに来たので退屈してぼくを待ってたが来ないので、駅の近くの自分のホテルに帰るところだったらしい。もう11:30くらいだったし、予期しない出会いに心細かっただけにこちらもうれしかったし、向こうもうれしかったらしくて、何度も辞退したにもかかわらず荷物を引いてくれたのであった(さすがに途中で変わったけど、それでも100mくらいは引いてもらった)。ホテルはさらにそこから500mほど先。料金が六千円くらいなのできっと小さなホテルだろうと思っていたら12階建ての立派なホテルだった。社会主義時代からあったものを西の業者が経営を引き受けたものらしく質素だが、部屋は広くなかなか快適だった。

10/6

午前中に吉岡洋君と山口さんのホテルに行き、三人で少し観光。ケラーで食事をして会場のドレスデン工科大学に向かう。ドレスデンは大戦末期のソ連軍の爆撃で町中が廃虚になってしまった。そのいくつかは復元されているが、特に現在復元中のフラウエン教会の建設現場は圧巻。焼跡から掘り出した残骸をできるだけ再利用して復元する計画で「世界最大のジグゾーパズル」と呼ばれている。登録を済ませ、町の反対側にあるオープニング展覧会の会場へ。パーティは既に終わっていたが、残っていた国際記号学会会長のローランド・ポズナーに突然「次回の大会は京都でやりたいのだが」と言われて驚く。一度ホテルに戻り休んで夕方からまた会場へ。エーコの講演会。エーコは独特の節回しの英語で「次の千年期の記号論」という一般向けの講演をした。丸々とした腹が突き出ているのが印象的だった。山口・吉岡とバーで飲んで帰る。

10/7

さすがにドイツと言うべきか、朝8:00から夜8:00まで学会がある。総会の日は11:00近くになった。それに合わせてかホテルの朝食も6:00から始まるし、目の前の建設現場の工事も6:00には始まるので早起きが続いた。6:00だとまだ日の出前なのに……。朝からいくつかの発表を聞き、ロビーに出ると早速山口さんがプック・エギビジションで何冊も本を買い占めようとしていた。ケータリングの店が出ていてその後ずっと会場で過ごす。日本からは池上嘉彦さんを初め10人くらい参加している。坂本百大さんや藤本隆志さんたちも来ているが家族同伴なので観光に忙しくあまり会場には来ない。山口さんがいたおかげで色んな人に紹介され結構忙しい。池上さんから、なぜポズナーが京都と言い出したかの理由を聞く。ドイツに長く居る日本人の研究者が京都なら「任天堂」などの会社があるから資金援助も受けられるというような話をポズナーにしたらしい。「日本での大会の話はどこから出てきたのか」と聞くと役員の人たちは「ああ、あの任天堂の話か」というようなことを言う。どうやら内部では有名な話らしい。色んな情報が交錯するが一時は「任天堂の筋は確かな話だ」というような話も出て、山口さんが一瞬その気になってしまったりもして焦る。夕方は藤本隆志さんの講演、ポズナーの講演の後、シンフォニー・コンサート。

10/8

山口さんと一緒にトマス・シピオクと昼食。Mr.記号論とも言えるこの人物は80歳を過ぎてますます元気。こんな80代は見たことがない。外見も50代後半か60代前半にしか見えない。常に会場に居て、人の情報を集めていたり政治的陰謀に暗躍していたりする。しかしながら、この山口・シビオクの歴史的とも言える会談に同席できたのは幸せだった。この30年の二人の思い出話はまた別の機会に書いてみたいと思う。それはともかくここでシビオクから次回大会はオランダが有力であり心配することはないという話を聞く。しかし、この老人は五年後の大会にもまだ参加するつもりなのだろうか。

10/9

日本からの参加者がほとんどこの日に発表した。今破竹の勢いのバイオセミオティクスの分科会に出た吉岡君を例外としてほとんど撃沈。ぼく自身の発表も聴衆が少なく極めて寂しい状況だった。夕方というか夜は総会。余りにも民主的な手続きに固執するために発言が続き、11:00過ぎになる。次回の大会の候補地のうちオランダとフランスは内部から反対があり、日本についても会場から「遠すぎる」と反対の声あり。ブラジルから来ているサンテーラというおばさんを中心にラテン・アメリカパワーが炸裂し、とりあえず三年後にスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラで開かれることだけが決まる。日本の理事は結局坂本百大さんと、山口さんの押しでぼくが引き受けることに決まる。それにしても、学問の国際政治の現場に投げ出されたようで結構インパクトがある総会だった。

10/10

午前中タルトゥ学派のラウンドテープルに参加。ロトマンの弟子で現在のタルトゥ学派のリーダー、ピート・レヴィンクと知り合う。お昼と夕方は理事会。総会と同じくもめにもめる。さすがに黙っているのが我慢できなくなり結構発言してしまう。要するに制度的に整備された北ヨーロッパが中心勢力で、ラテン・アメリカ系が対抗勢力という構図ができている。それ以外の地域からは論理学・哲学系、社会学・カルチュラル・スタディーズ系、メディア研究、認知科学系などの独立系の参加者が多く、明らかに政治的な構図ができている。要するに誰も日本での開催などは望んでいないんだなと思って、ほっとする反面、何だか悔しいような気もする。複雑な思いだ。そもそも記号学というディシプリンに未来があるのかどうかもよくわからない。そのこと自体はコミュニケーション学としての記号論について実に見事な講演をしたポズナーも気付いているらしい。理事会が終わってから、山口さんのホテルの部屋で三人で絨毯に座り込みワインを飲む。何か修学旅行の高校生のようでなかなか親密で楽しい時間だった。

10/11

遠足。エルベ川を蒸気船で遡る。ピートの他、オーストラリア出身で現在はウェールズのカーディフ大学でカルチュラル・スタディーズを担当するテリー・スレッドゴールド(女性です)や、ボローニャのエーコ門下で香港大学でアジアの資本主義文化(特に「ハロー・キティ」現象)を研究しているクラウディァ・ミランダらと知り合う。みんなで大聖堂近くの18世紀からあるイタリアン・レストランで食事。道で学会で出会ったいろんな人と会う。

10/12,13,14

ほとんどの人が帰った後、ひとり残り、昼はマイセン観光。夜はゼンパーオパーの「ドレスデン歌劇場」でプッチーニの「Il Tritico」を鑑賞。久しぶりのオペラを楽しむ。13日はライプチヒ観光。ここの市立博物館の特別展は面白かった。80年代の東ドイツの生活を再現しているのだが、10年でこんなに変わってしまったというスタンスが面白い。14日は夕方の飛行機までドレスデンで過ごす。革製品が安いので革ジャンを買う。デパートやショップを何軒も探し歩いた末、結局一番ましだったのはやはりイタリア製だった。物は安いのだがやはりお洒落とはまだまだ無縁な町である。町もほとん�ヌ工事中で東ドイツの雰囲気も色濃く残っている。一番驚いたのはバスや市電の中が無気味に静かなことだ。みんなお喋りで騒音を立てることを注意深く避けている。

10/15

夕方帰国。翌16日はお昼から明学での畑中純さんの講演会に顔を出し、夕方は元フジテレビ跡地での唐組「秘密の花園」に。相変わらず物凄く良かったので翌日も顔を出す。日曜日はいろんな人が飲み会に残ったが特にニューヨークでの「少女都市からの呼び声」を大成功させた新宿梁山泊の金守珍さんたちも来ていて盛り上がる。「少女都市……」は12月に本多劇場で凱旋公演の予定。この二つの芝居は本当に凄いです。「秘密の花園」はあと二週間だけど、時間がある限り通いたい。

 

とりあえずこんなところです。国際記号学会もそうですが、記号論の現状や、この三十年の知の世界で起こったことを改めて考える機会となり、なかなか意義深い旅行でした。

 

"室井 尚","hmuroi@ari.bekkoame.ne.jp","ykh226ds43.kng.mesh.ad.jp","11月15日(月)00時38分","文化の越境",

"というわけで、11/10から12まで京都の国際日本文化研究センターで開かれた国際シンポジウム「Crossing Cultural Border」に参加して来ました。企画者は最近大著『絵画の東方○オリエンタリズムからジャポニズムまで』(名古屋大学出版会)を公刊したばかりの稲賀繁美さん。会うのは去年のリュブリアーナ以来で一年ぶりです。今回のもう一つの楽しみは12年ぶりに会う菅啓次郎さんとの再会。

前の日の晩にゲストの食事会がある京都ロイヤルホテルのロビーを歩いていたら、アーティストの小杉+安藤の安藤泰彦さんとばったり出会い、二階で開かれていた「芸術祭典・京」の打ち上げパーティに誘われて参加してしまい、そこでは稲賀さんや菅さんと挨拶ぐらいしかできませんでした。とりあえず吉岡洋、小杉+安藤と二次会に行って酩酊する。この後も連日お酒が続きました。

今回のゲストの目玉はウンベルト・エーコだったのですが、残念ながら来日は実現せず、フランスからAlain Le Pichon, Alain Rey, スペインからC. Lison-Tolosana, Fernandez de Rota、イギリスからMichael Richardson, Cosimo Zene、広州からWang Binなどの人類学者や記号学者。日文研の招待教授や民博、地域研究の研究者たち。大嶋仁、中村和恵などの比較文学者、落合一泰、井上章一、京都大学のカール・ベッカーなど総勢40名近くの大人数になりました。もっとも、フルタイムで出ていた人は少ないけど。それから山口昌男さんも初日から最後まで参加しました。

今回は稲賀さんの心遣いもあっていいタイミングで発表させてもらい、反響もとても大きく気分よく過ごせました。英語版は近い内にここにも載せます。飲み会やさぼって煙草を吸っていたロビーで話した何人かの人々、とりわけ大嶋仁、中村和恵、井上章一、ワン・ビン、ジャイルズ・リヒター、アリソン・トキタ、コジモ・ゼーネらとの会話が面白かった。

全体的には、「文化の不均衡」を「解決する」ための「相互的人類学」(reciprocal anthropology)とか、人間としての「普遍性」に訴えるとか、声を出すことができない人々に声を与えることとか、まあ何とも良心的で民青的で根暗な話が多かったのだけど、切れることなく過ごすことができたのは、基本的に少人数の同一メンバーで議論をすることができたのと、稲賀さんのとてもうまいナヴィゲーションのお蔭でしょう。いろいろとまた考えることがありました。

その前は唐組公演が10/31まで続き、大久保鷹さんの魅力に引きずられて最初の週はドレスデンと重なって行けなかったにもかかわらず全12回中6回も通いました。その間に金沢の石川県情報化委員会、横浜市の市民講座などもありました。それにしても、もうあっと言う間に年末。ますます慌ただしくなっていきます。仕事は間に合うのだろうか?

 

"室井尚","","cs14v35.ppp.infoweb.ne.jp","11月28日(日)23時48分","帝塚山学院の卒業生見ていますか?",

"帝塚山学院の特別講議を12/13(月)の3:00-16:30にやることになりました。89-91まで勤めていた大学で楽しい思い出が沢山あります。昨年の5月には元のゼミ生たちが沢山集まってくれてコンパをして楽しかった。もし、卒業生でここを見ている人がいたら是非連絡して下さい。どうせナンバで飲み会になるし。実は前回の幹事役の人にもメールをしたのだが返事がない。なかなか変化が激しい年代の女性たちですので状況が変わっている人も多いようで、みんなにこちらからメールするのもはばかられます。どうぞ、連絡して下さい。

池袋での入試説明会、金沢での石川県の情報化委員会、Nifty戦略会議、「ISIS(編集の国)開始イベント」、劇団梁山泊の『少女都市からの呼び声』(そういえば11/20の田月仙さんと梁山泊の音楽劇も見ました)、日本発のSRL(Survival Research Laboratories)と色々続きながらこのまま年末に突入していきます。

 

"吉岡洋","hyshk@nk.rim.or.jp","ppp160.nk.rim.or.jp","12月4日(土)16時10分","13日の件",

"下の呼びかけを見てなつかしくなって、つい書きこんでしまいました。

卒業生じゃないんですけどね、残念ながら(笑)。

ぼくも長いこと帝塚山学院の美学の非常勤でお世話になってました。

なんばで帝塚山学院の先生や学生たちと飲んだのは楽しい思い出です。

同窓会的なものは普通はキライなんですけど、これは別。

ぜひ参加させてください。7時すぎになると思いますが。

というわけで、ぼくも行きますよというお知らせでした。

 

"noriko","norikok@public3.bta.net.cn ","","12月12日(日)23時10分","北京より",

"先生覚えていますか

日本女子大学時代に先生の授業を聞いて

今、北京に中国美学を学びに来ています

日本が恋しくなったときになんとなくパソコンをいじっててここにきました

日本はドウですか","1","2"

 

"室井尚","","1cust155.tnt1.dial.yok1.da.uu.net","12月13日(月)08時02分","RE:北京より",

"さすがに本女のnorikoさんだけでは思い出せない。本女に行っていたのは94-5年だっけ? 一コマだけだったし、学生たちもみんな真面目で熱心なのだけど、行ってすぐ帰るだけでなじめなかったよね。コンパも一度もしたことがないし。そう言えば芸大にもぐりに来てくれた人もいたけど、norikoさんもそうですか。

 北京も92年と94年以来行っていない。ずいぶん変わったことでしょう。というよりも、きっと今頃はめちゃくちゃ寒いでしょうね。余りに広々としているので風が冷たそう。

 さて、それでは大阪に出かけます。

 

"室井尚","","1cust216.tnt1.dial.yok1.da.uu.net","12月18日(土)12時09分","その後の展開",

"11/26に金沢で石川県の情報化推進委員会出席。来年度以降の方針を立てる。行政がやることは放送やマスコミのような情報発信ではなくて、むしろ「電子の公園」のような公共的な「空間」を作り出すことだというぼくの発言が共感を得て、「電子の公園」をキーワードにプロジェクトを組み立てていくことになる。但し、予算額は少ないので、どうなることやら。飛行機の時間まで香林坊で時間を潰すが、109ビルの中にインディ系の映画館「シネ・モンド」があることを発見。そこで、手塚真の「白痴」を見る。この「白痴」は坂口安吾の「白痴」なのだが、余りにも原作が「読めていない」ので呆れる。その上、勝手に改ざんしているのだ。この人は人工的なCG映像などには面白い感覚を示しているが、全く読解力のない人で、物語映画には向いていない。よかったのは、アイドル役の少女と歌謡ショーだけで、あとは酷い映画だった。予告編で見た望月監督の「皆月」の方が面白そうだったので、花村萬月の原作を買い読みはじめる。久々に癖になるテンポのよい娯楽小説で、その後「ぢん・ぢん・ぢん」「二進法の犬」など連続読破。なかなかイノセントな無頼小説で面白いのだが、要するに暴力とセックスのスーパーヒーローものであることは共通していて、これだけまとめて読むと少し食傷気味である。

その後学長選、Niftyの戦略会議、朝日新聞の文化部記者の取材などがあり、12/8はマルチメディア文化課程の演習ガイダンスとパーティ。一年生を中心にカラオケなどにつきあう。翌9日は、下北沢本多劇場で新宿梁山泊「少女都市からの呼び声」の初日。前日の舞台稽古にも顔を出して不安な唐さんの隣の席で観劇。

今回の「呼び声」は、2年前に金盾進さんがオーストラリアに滞在中に演劇学校NIDAの学生スタッフと共に作り上げた舞台が原型で、舞台装置や衣装も全部その時のもの。現代美術風でミニマリスティックな―ちょっと梁山泊というよりもパパ・タマフマラ風の舞台である。さらに、日本人出演者の中に一人だけオーストラリアからジャスティン・コッタという若い俳優が入って英語で台詞を言う。主役の独りなのでここが一番不安なところだったらしい。

だが、その不安は杞憂にすぎず、初日は素晴らしい舞台で大成功。拍手の嵐の中でみんな幸せな顔をしていた。台本の素晴らしさはもちろん、ジャスティンも「雪子」役の近藤結宥花さんも、他の役者も実に素晴らしく、また十万個のガラス玉が滝のように流れるラストシーンも夢のように美しかった。結局この芝居には土曜と日曜の晩の2回も足を運ぶことになった。でも、一番素晴らしかったのは唐さんの緊張が伝わる席で見た初日でしたね。今年最高の舞台体験のひとつでした。

13日には予告した通り帝塚山学院での講演会。なつかしい人たちと沢山お会いできて、うわずったような気分でした。ナンバの飲み会では、事務局の千阪さん、文学部長の島本浣さん、吉岡洋君、安田政彦さんの他、旧室井ゼミから三人と、さらに上の学年の十代亜矢子さん、現役学生も沢山参加してくれて盛り上がる。帝塚山や難波は本当にフルサトのような気がします。

翌14日は朝の「のぞみ」で多摩美に出講。ここでも打ち上げということで橋本駅近くで忘年会。予告が当日だったので参加者が5人ほどと少なくて残念でしたが、なかなかディープなメンバーで面白かった。IAMASを卒業して情報デザインに入り直して、展覧会などでも活躍している村上陽子さん(http://www.yoko.murakami.com/)や、ナディフでの展覧会に出したり「美術手帖」のマンガ連載もしていて、来春からは任天堂でキャラクターデザインをやると言っている高野綾さん(http://member.nifty.ne.jp/tehanu/)はサイトも面白い。

さらに翌15日には、銀座ソニービル8Fのホールで「編集の国ISIS」の創立記念イベント。松岡流のイベント構成で驚くほど沢山の人と情報がつめこまれたイベントで、立ち見がでる盛況でした。ISISは来年1月9日に「開国」(http://www.isis.ne.jp)。とりあえずコンテンツ・サービス系の場所になる。インターフェースがIntelligent Padで、その出来が勝負をきめるだろう。正直のところ、このままでは多分ダメでしょうね。それについては大分口にしてきたことなので、これ以上は松岡さんがきめることだから仕方ない。

それにしてもこのところ慌ただしい。来週は授業をしつつ、SRLのイベント、ジャクリーヌ・ベルントさんの集中講議、週末は京都での科研の研究会と忘年会と続き、もう29日になるなあ。いろいろと電話で原稿催促のプレッシャーもかかってくるし。

といったところが、近況です。

 

"室井尚","","1cust216.tnt1.dial.yok1.da.uu.net","12月18日(土)12時09分","栗本慎一郎さんが倒れた",

上のような見出しの週刊宝石を飛びつくようにして買った。

何しろ「左半身麻痺」とか「議員引退檄文」とかの見出しなのだから驚愕した。

栗本さんは、もう15年も前に京都の画廊から浅田彰、細川周平、吉岡洋と一緒に「NOED」というパンフレットを出した時にとても親切なお手紙をいただいてからのおつきあいで、その後87年の明治大学での記号学会、90年にぼくが帝塚山学院大学に講演�ナお招きした時に、いずれも親切に話を聞いてくれたし、当時準備中だった「情報宇宙論」の構想に対してもいろいろヒントを与えていただいた。94年から1、2年の間は、世田ヶ谷で「開学」していた「栗本自由大学」にも呼んでいただいて、楽しい時間を過ごした。その後、議員になって自民党に移って、離党するわけであるが、そんなに頻繁にお会いしているわけではないし、思想的にも少し異なるところもあるのだが、要するにぼくにとっては恩人のひとりなのである。『パンツをはいたサル』や『意味と生命』はいまでも学生に薦めているし、八〇年代の彼の知識人としての活躍はちょっと日本の文化史でも例がないものだと思っている。それ自体が文化現象だった。

記事を読むと、確かに脳硬塞で一時は危なかったのだが、今はだいぶ回復して自宅で療養中だという。その間にインターネットを始めて、「突破者」宮崎学氏が薦めている「インターネット新党」に関わるという。ホームページhttp://www.homopants.com を見ると、栗本さんらしくどんどんと発言が書き込まれ、熱気に満ちている。メールには直接答えると宣言しており、実際何十通かのメールに返事しているらしい。ぼくのお見舞いメールにもすぐに返事が戻って来ました。

栗本さんのようなタフな人を倒してしまう永田町や自民党もなかなか凄いが、ホームページで復活した栗本さんも相変わらずエネルギッシュで、今後の展開が楽しみである。それにしても、栗本さん、余りのめりこまないで、ちゃんと休んで身体を直して下さいね。

 

"室井尚","","1cust156.tnt1.dial.yok1.da.uu.net","12月31日(金)19時49分","今年最後の書き込み",

"大晦日です。確かに2000年という数字並びはこれまでとはちょっと違う。

ずっと七十年代とか九十年代とか呼んできたのは、これからどうなるのだろうか。0年代というのも変だしなあ。

というわけで、23日は代々木公園でのSRLのパフォーマンス。予想を遥かに越えて五千人以上が集まり、会場は立錐の余地もない混雑で、おかげではなはだ視界が悪い状態でした。まあ、あんなもんだろう。十年前ならともかく、ちょっとだけ今さらという感じもするなあ。次の24日は立命館からジャクリーヌ・ベルントさんが集中で訪れるので新横浜まで迎えに。25日と26日は京大会館で科研の研究会と忘年会。27日はベルント歓迎コンパで、28日は編集工学研究所の大忘年会。赤坂でカラオケをする。というわけで宴会続きでいささか疲れた。

年賀状とか大掃除等も適当にこなしながら、正月にかけてたまった仕事を何とか片付けつつあります。

皆様、よいお年を。Y2Kはどうなんだろうね。

 

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