Since February 19th, 1996
室井尚著『情報宇宙論』より
第六章 サイバースペースは「人間」の夢を見るか?――あるいは、「現在」 の迷路
1 logon
毎朝目覚めるとぼくはまずパソコンとモデム(電話回線とコンピュータを接続する装置)の電源を入れる。するとそれは自動的に通信ソフトを立ち上げ、電話をかけ、ネットワークにアクセスし、到着したメールを読み取り、ボードに書き込まれたメッセージをどんどんファイルに落としていく。これらのメールに答えたり、自分宛に書かれたメッセージに返事を書くことで一日が始まる。
こうした毎日をこの三年間ずっと続けてきた。メッセージやメールはどんどんたまってしまうのでほぼ毎日確認していかなくてはならない。三日も留守にしてアクセスを怠るとすぐに数百のメッセージがたまってしまう。休みの日などは一日に十回以上もネットワークに入って行く。一度入ると一時間や二時間はすぐに過ぎてしまう。考えてみるとここ数年、ぼくはかなりの時間をこのもう一つの空間の中で過ごしてきた。もはや、それは一つの現実の空間にほかならない。
この空間についてぼくはずっと考えてきた。ここにはコミュニケーションがある。北海道から沖縄まで、あるいは南アメリカからアラスカまで、日常の生活の中では出会うことのないだろう様々な職種、年齢、国籍の人々と言葉を交わすことができる。もちろん数万人もの人たちと同時にコミュニケーションを維持することなどできないし、二言三言交わすだけで二度と会わない人たちも多い。また、別にコミュニケーションには関係なくただ情報を掻き集めるだけのこともあれば、喧嘩をしたり問題が起きているボードを野次馬的に覗きにいったりすることもある。それから、オンラインで提供される有償、無償のプログラムや画像、音楽のデータを手にいれたり(今ではなんでもこれで揃うし、無料の日本語入力システムまである)、ファックス送信機能を利用して原稿を送信したりすることもあるし、アメリカのネットを使って、書籍やソフトウェアをオンラインで購入したり、あるいはホテルの予約をすることもある。
数万人の規模をもつネットワークは、基本的には枝別れする階層構造によって構成されていて、かなり奥まで階層が作られ、さまざまなメニューが用意されている。ただ、こうした階層構造は見かけだけのものであり、実際には全く自由に別のメニューに一瞬のうちにジャンプすることができるのだ。また、もし電話回線を複数もっているのなら別のネットワークに同時アクセスすることもできるのである。
原理的に言えば、この空間ではバイナリー・コードに変換可能な情報ならどんな種類のものでもやりとり可能である。その意味でここには情報のやり取りに関する「すべて」が潜在的に含まれているのだ。メディアとして考えた場合、現在の形態が非常に不完全で過渡的なものにすぎないことは言うまでもないとしても、それはこれまでのすべての遠隔通信メディアを含みこむ可能性をもっているのである。そう、この空間は単なる個別的な通信手段であるばかりではない。未だ可能的なものに留まっているひとつの巨大なメディア環境のシミュレーションでもあるのだ。
したがって、このネットワークの空間はあらゆるものを飲みこむことができる。そして、それらの情報には階層構造は存在しないし、また過去も未来もない。本体の記憶メディアの限界さえなければ(そして、引き出す側の人間が無限の時間をもっていれば)、無限にすべての情報を集蔵し、すべての情報を引き出し続けることができるのだ。
しかし、ただ単にデータベースとして外部からさまざまな形で利用できるということが問題なのではない。そうではなく、前にも述べたようにここがひとつの特殊なコミュニケーションの宇宙を作りだしていることが重要なのである。このように考えた場合、コミュニケーションとしてのそれはきわめて特殊な時空の上に成り立っているように思える。なぜなら、そこには「現在」しかないからだ。ここでの過去とは、タイム・スタンプが異なるデータ群のことにすぎない。それは、たとえば細川周平が書いている空港での「トランジット」の空間と似ているかもしれない。それもまた「現在」しかもたない浮遊する空間だからだ。
「現在しか持たないということは、人が今・ここを支配する主人というのではないし、たとえば『永遠の現在』というように濃縮された時間形態を取るのではない。逆に希釈に希釈を重ねたために、もはや過去や未来と区別がつかなくなってしまったような時間であり、存在もそれにふさわしい揮発的で束の間のものとなったのだ。過去も未来もないというのはトランジットの重要な特徴だが、それは現在を絶対化しているというよりも、複数の現在が網の目状に散逸・拡散した結果、ロマンチックな肥大と反対に、薄まった時間の膜が現在という顔をしてそこらじゅうに被いかぶさっている、と考えるべきだろう。例えばデータファイルとして蓄積された情報は潜在的に即座に今・ここでディスプレイすることができる。あるファイルを呼び出すことは過去のものを現在に引っ張りだすことではなく、常に潜在的に現在であったものを視覚化することにすぎない。全てはすでにそこにある。モニターは摩耗なしにいくらでも資料を反復し分析しシミュレートする。図書館や古文書館に蓄積された情報とは比較にならないそのスピードと処理可能性のために、データファイルには過去や未来がない。データファイルは情報のトランジット的な形態だといえる。データがモニターを通過していくのをぼくたちは眺めるだけ、さらにいうならぼくたちはそのモニターになってしまったからだ。それにはインクや紙のような実体はない。痕跡ですらない。コンピュータの端末と化した人間というイメージほどトランジットにふさわしいものはない。しかし遍在する現在が戴冠した唯一の瞬間として君臨しているというのではない。スウィッチのオン/オフにかかわらず、〈現在〉は徴章をはがした脱走兵のようにほうほうのていで逃げ回っているというべきだ。その霧散の中で未来や過去の破片に出会うのである。」(細川周平『ノスタルジー大通り』P54―55)。
この素晴らしい断片の中には、サイバースペースの重要な本質が含まれている。この感覚はたとえばマッキントッシュのハイパーカードやエルゴ・ソフトのサイバースペース・デッキを知っている人には馴染みの感覚であろうし、また数十メガバイトとか数百メガバイトといった大容量のハードディスクの中を探検したことがある人にも容易に理解できるだろう。そこには、明らかに通常の時間とは違った次元が存在しているのだ。そこでは過去はすべて拡大された現在にすぎない。つまり過去も未来も、すべてが引き延ばされたトランジットとしての現在の中にあるのである。
トランジットとしての「時間」――それはもともと宇宙全体の基本的な形式であったのかもしれない。ぼくたちの不完全な「精神」が、必要上それを線状で継起的な「時間」に分節し、かりそめの「主体」の物語として仮構してきただけなのかもしれないではないか。
このような「現在性の迷路」とでも言うべき空間は、コンピュータが初めて顕在化させた前代未聞の空間であると言ってもいいだろう。コンピュータを使うとは、基本的にはこのような空間に自己と身体を結び付けることにほかならない。たとえスタンドアローンでコンピュータを使っている場合ですら、潜在的には、このような空間にぼくたちはいつも既に捉えられているのである。
2 トランジット空間としてのサイバースペース
だが、パソコン通信のコミュニケーションを考える場合、そこにはさらに「他者」が居るということをつけ加えなくてはならないだろう。その他者を介してネットワークは現実とリンクしている。しかも、その他者の数だけ異なる複数の現実とリンクしていることになるのである。だが、ここでの他者とは誰なのだろうか。
ここには、「現実」とは異なる時間と空間の感覚があり、全体と部分の区別はなく、すべてが自在に直接的に結びつくことができる。ネットワークは本質的に多頭的であり、ナルシス的な鏡像は他者の視線によって破壊されることになる。この鏡像の亀裂と破壊はこれまた永遠に続くことになるだろう。いずれにしても、ここでは人はその大部分が「自分ではないもの」になるのだ。いわば、無限の他者と仮想の現実に対応する自分が存在していることになる。永遠に引き延ばされた現在=トランジット――それがサイバースペースである。ここは一体どんな時空なのだろうか、そしてそこで人はどのような生を体験するのだろうか?
ところで、サイバースペースの中での「主体」のあり方について少し考えてみよう。主体はそこでは無数の断片に分断され、複数の現在の中に切り裂かれてしまう。簡単に言えば、そこでは「主体」のリニアな連続性と一貫性は、ちょうど空港のトランジット・ルームにいる得体の知れない外国人のように、サイバースペースにおける無数の「現在」の断片の中で解体されてしまう危機にいつもさらされていることになるわけだ。かれのアイデンティティを保証するものは内ポケットに入っているパスポートだけである。だが、パスポートが保証するアイデンティティとはそもそも単なる記号にすぎないのではないだろうか。それは誰が持っていてもいいような抽象的な表徴にすぎない。
とは言っても、このことは「私」が無くなることを意味しているわけではない。そうではなく、ここでの私は可能的な「私」(私―性とでもいうもの)の無数の束として、その複数の可能な「私」のチャンネルの間を目にも止まらぬ早さで通り抜けているのである。無数の「私」が発光ダイオードのように次々に点滅する。私とはそうしたチャンネルの一つにすぎなくなるのである。
そこでは人は、たとえばロールプレイング・ゲームをプレイすることと、現実に他人とコミュニケートすることとが質的にはほとんど同じ行為となってしまうという苛酷な試練に耐えなくてはならない。とは言っても、このことが何かしら真の関係の喪失といったネガティヴな出来事だと考えてはならないだろう。もしかすると事態は全くその逆であり、ぼくたちの考えていた「真のコミュニケーション」こそが、根源的にはシミュレーションであったかもしれないからである。
たとえば、パソコン通信を使ったHABITATというゲームがある。これはルーカス・フィルムが開発したネットワーク・ゲームであるが、アクセスしたプレイヤーは、プログラムではなく現実の人間とプレイすることになる。すなわち、電話でアクセスしたプレイヤーが自分のキャラクターと名前を選び、部屋の中に入ると、そこには同じようにアクセスしてきた別のプレイヤーが何人か居て、そこで会話を交わしたり情報を、交換したり、ゲームの進行を打ち合わせたりすることができるのである。これらのプレイヤーはすべてグラフィクスで表わされ、プレイヤーは自分自身のキャラクターを用いて、他のプレイヤーたちとコミュニケーションをしながらゲームを進行させていくのである。
これはチャットと呼ばれるパソコン通信におけるコミュニケーション・サービスと基本的によく似ている。こちらの方は、同時にアクセスしている数人のユーザーが リアルタイムで、キーボードを通しておしゃべりをする「現実の」コミュニケーションである。HABITATとチャットを区別するのは、その場としてのトポスがプログラムされたものか、そうでないかの違いにすぎない。一定の共有されたコードの上でコミュニケーションが行われるという点ではここにゲームと現実の違いは存在しない。基本的にそれは同質の行為なのである。このことは株のシミュレーション・ゲームとオンラインで行われる現実の株の売買とが行為それ自体としては全く区別できないことと似ている。だが、違っているのは、この場合にはそれが遊びなのか、現実なのかを決める客観的な基準が全く存在しないということなのだ。だが、そもそもそんなものがあると思うこと自体が見え透いた約束ごとにすぎないのではないだろうか?ここでの「私」とは与えられた関係における一つの結節点にほかならない。だが、それは「単に一つの結節点」であるわけではない。そうではなく、そのような無数の結節点の束であるような複数の「私」があるのだ。その結節点の間を「私」は素早くチャネリングする。そう、ちょうど、テレビのチャンネルを切り替える時のように。たとえば、ふだん無口なのに電話ではきわめて饒舌で雄弁な人は、そのメディア空間にリンクすることによって「私」のチャンネルを変えているのだ。こうしたチャネリングは、パソコン通信では更に、そして無限に加速されるのである。
したがって、もし分裂症にならないようにコミュニケーションを続けるためには、ここでは「チャンネルを余り増やさない」ことが重要になる。初期の頃のパソコン通信では、匿名または仮名による仮面を被ったコミュニケーションが盛んだった。文字だけという特性を逆に利用して、若い女性を装ったり、自分ではない役割を演じたりして――要するにロールプレイング・ゲーム的に――楽しむという行為がしばしば行なわれた。
もちろん、そのこと自体には一定の意味があったように思われる。少なくともハッカー的に、固定したコミュニケーションや情報伝達の回路を撹乱したり、雑音を入れたりするという、秩序破壊的で、それでいて何かしら未知の回路の可能性を示唆するといった意味合いをそれはもっていた。だが、現実的にはそれはゲリラ的に行われるにしても、とても長続きさせることができない行為だと言えるだろう。人間は結局いくつかのパターンを繰り返すことしかできないのである。複数の人格を現実に生きることは一人の人生には余りにも重すぎる。
一般にパソコン通信の中では一種の共同体が作られている。SIGとかフォーラムと呼ばれるコーナーがそれであり、ここには常連のユーザーが集まり、持続的なコミュニケーションを続けている。ここでは、人々は逆に固定した人格的統一性を保持しようと懸命になる。つまり、自分で設定したハンドル・ネームやあるいは本名で、できるだけ自分の通常の生活ペースとサイバースペースをシンクロナイズさせることが試みられるのである。こうした試みは、二つの異なる時空を同質化させようという不可能に近い努力を強いるため、いくつかの困難にぶつかることになるが、しかし今のところこうした擬似共同体を作ることによってのみ持続的なコミュニケーションが可能になっているのは事実なのだ。ぼくが現在のパソコン通信が単なる不完全な過渡的メディアであると感じている理由のひとつはここにある。つまり、それを維持するには途方もない努力が不可欠になるからである。
だが、共同体である以上、外部との差別化が必ず伴うことになる。今更ここで文化人類学の知識を持ち出すまでもないが、共通の価値観は共通の外敵を設定することによってのみ保たれる。こうした閉鎖性を伴う「ムラ」社会的なあり方を取らない限りコミュニケーションが持続されないということ自体が、したがって、実は大きな問題なのだ。マーシャル・マクルーハンのグローバル・ヴィレッジという概念はここできわめてアイロニカルな形で実現されている。グローバルではあるが、きわめて限定された排他的な小集団の林立が、ネットワークの帰結であるとしたら、事態はきわめて悲劇的であるように思える。
しかしながら、だからといって、焦りすぎてはいけない。とりあえず、強固なヒエラルキーの支配の網の目からコミュニケーションが解放されたというだけでも、歴史的にみて大きな変化であることは間違いないのである。そこから逃れた脱走兵たちはそれぞれバラバラにコロニーを作り上げている。こうしたコロニーが今までの因襲的な形態を引きずっていたり、また相互に似たようなものにすぎないとしても、いずれにしても変化が始まるのはそこからしかないのだ。主体の解体が単に、主体という王座をどこか別のところへ移行させるだけのことになるのか、それとも全く新たな形態が作り上げられるのか、その答は現在の過渡的な状況を乗り越えた地点でしか出てこないだろう。
というわけで、ここでは二つの問題が提起されている。すなわち、ひとつは従来の時間・空間の分節を越えた――したがって「主体」がそのままでは成り立ちえない――「サイバースペース」の構造に関わるものであり、もう一つは現にぼくたちがその空間に住みつくことの可能性とその乗り越え不能にさえ思える困難さである。この二つは密接に結びついており、別々に切り離すことはできないだろう。たとえば、人間を含まないサイバースペース論や、また逆に人間によるそのビジネスに便利な利用しか考えないメディア論では、問題の全体をとらえることができないのである。言い換えれば、それは人がそこに関わることによってしか見えてこないものがあると同様に、そこに関わることによって人間の方も必然的に根源的な変化を蒙らざるをえないような――そうした矛盾に満ちた空間なのだ。
3 精神と身体の外在化
十年前には、まさかぼくがパソコンを使っているなどとは予想もしていなかった。コンピュータという言葉は聞いたことはあり、あるイメージをもっていたにしろ、それは巨大な「電子計算機」、あるいは「電子頭脳」といった神話的な存在で、SF映画に出てくるグロテスクな機械の怪物くらいのイメージでしかなかった。実際のところ子供の頃写真でみた真空菅式の巨大なエニアックのイメージが強く、そんなものがまさか家庭に何台も入りこんでくるような身近な存在になるなどとは思ってもみなかったのである。
自慢ではないが、ぼくは全く機械音痴である。といっても興味が全くなかったわけではなく、小さい頃から時計や真空管式ラジオを分解したりするのは好きだった。ただ、一度も分解したものの組立てに成功したことがないだけの話である。プラモデルなどを作っても、部品は壊すわ接着剤でベトベトにするわで、まともに完成させたことがなかった。要するに手先の不器用さもさることながら、そういう思考回路と根気とが欠如しているのではないかと思う。
だが、生活の中に入り込んでくるさまざまな機械やガジェットにはいつも興味をもっていた。それらが切り拓く新しい感覚がたまらなく魅力的だったからである。たとえば、初めて家にテープレコーダが入ってきたとき――それはソニー製の家庭用「ポータブル」録音機であったが、腕が抜けそうに重いものだった――毎日それにいろんなものを録音して遊んでいた。もしかして、うまく行けばこれで人生のコピーを作れるのではないかと思ったのだ。ぼくはここに居て全然違う時間を生きているのに、テープの中には過去の時間を生きている別のぼくがいる――こういう感覚が極めて魅力的に思えたのである。
だが、よく考えてみれば一生分の時間を記録したとして、誰がそれを全部聞くことができるだろう。そのことに気がつくまでには、さすがにそんなに時間はかからなかった。しかし、その�アとに気づいたからといって、ぼくのガジェット好きは消えたわけではなかった。比較的お金に不自由していたにもかかわらず、多くの同時代の人々がそうだったように、八ミリカメラやヴィデオデッキ、ポケットカメラやウォークマンなどを次々に買いあさり、ブラザーが初めて十万円以下で買える日本語ワープロ「ピコワード」を出した時にも、すぐに買いにいったものである。
つまらない思い出話をしているようだが、しかし実はこのことは今でも大事な問題に違いないのである。テープレコーダや八ミリとは、要するに知覚や記憶というぼくたちの内的な過程(「精神」的過程と呼んでもいい)を外在化し、外から編集したり制御したりすることを可能にする装置である。さらにそれは外在化によってそうした内的な過程を複数化し、散逸させることによって、鏡、あるいは劇場というメタファーで象徴される世界と人間との関係や、「自我」のあり方をぐらつかせることになる。これは、写真以降のアナログ情報処理技術の本質であって、この記憶や知覚の外在化とその編集可能性こそが、ぼくたちの直面しているメディア革命の新しさなのである。一九世紀が「鏡」や「劇場」というパラダイムが完成した時代であったとしたら、その同じ一九世紀に誕生した写真や映画などの情報処理技術はその「鏡」に亀裂を与え、さらに今世紀のアヴァンギャルド芸術やテクノロジー、そして自然科学における全く新しい宇宙観などがその亀裂を決定的なものにしたと言えるのである。今や、その亀裂の向こう側から全く新しい世界と人間との関係やコスモロジーが生まれ出ようとしているのだ。
そして、コンピュータはこうしたメディアやガジェットをすべて合わせたよりも更に大きな展望を開いてくれたと言えるだろう。それはひとつのメディアというよりも全体としての巨大なメディア環境であり、まさしく「メディアの波」と呼べるような革命だったのである。
要するにそれは人間が知覚できるすべての情報を自由に処理できる空間を作りだしたのであった。すなわち、それは数値や文字の処理ばかりではなく、画像や音響、さらには人間が五感で知覚できる――あるいはできない――世界情報のすべてを処理したり、制御したりすることを可能にする技術である。言うならばそれは全体としての「脳内過程」の外在化なのだ。
脳内過程の外在化とは何か? それは少なくとも西欧近代を貫いてきた心身二元論的思考の危機を意味している。つまり、それは心と身体、あるいは精神と物質という完全に切り離された二つの領域が存在し、それらが何らかのやり方で結びついているというような世界観を根底から覆していることになるのだ。デカルトはすべての知識や存在を疑った後、どうしても疑いえないものとしての「今考えている私」を知識の根幹に据え、そうしたものとしての「精神」が松果腺という脳内の小さな器官によって、延長をその本質とする物質的世界と結びついており、相互作用を行っていると考えたし、ライプニッツはこの二つの領域にそうした結びつきは全くなく、予定調和によってそれぞれが独立して同調しているだけだと論じた。いずれにしても、「精神」こそがぼくたち人間の本質をなすものであり、またそれはけっして物質には還元できない「内部」であると考えられてきたのである。この「精神」があるからこそ、人間は他の動物を支配し、自然を制御し、俳句をひねり、苺ケーキを作り、スポーツカーを運転し、失恋して涙を流し、哲学書を書き、映画を撮り、宇宙の大きさを測定し、未来を予測する等々の人間独自の活動をなしとげることができたのであり、それなしには現在のぼくたちは存在していなかったろう。更にカントは、この「精神」のア・プリオリな形式としての「時間」、「空間」を定義した。「時間」、「空間」とは精神の活動を可能にする超越論的な枠組みであり、それについて考えることは不可能な何物かであるとされたのである。
したがって、アインシュタイン以降の物理学がその根拠を突き崩し、今まさにコンピュータが根本から覆しつつあるのは、右のような思考の枠組みの「すべて」であると言っても過言ではないのだ。それはまた、神経科学の進歩や分子生物学の発展とも密接な関係を持っているとも言える。たとえば、脳科学の進歩は今まで知られることのなかった脳の各部位の役割を明らかにすると共に、神経細胞間の情報のやり取りのメカニズムも明らかにした。その結果として、気質とか、性格、気分のような人格と密接に関係しているものがどのようにして形成されるのかという問題についても多少なりとも解明されようとしているのである。いわば、ここでは脳や「精神」を、一種の複雑なコンピュータとして考えるという全く新しい視点が生まれつつあるのだ。また、分子生物学は遺伝や進化といった生命の根幹に位置するプロセスが、DNAに書き込まれた情報の受け渡しや転写というメカニズムに支えられているということを明らかにした。したがって、コンピュータとはこうした情報処理システムとしての生命体や、脳における情報処理の「外在化」であり、外に飛び出した「知覚」や「精神」なのである。
だが、外在化した「精神」――身体の外にあって、編集可能な「思考」とは一体何なのだろうか? 思考それ自体を思考することはいかにして可能なのだろうか? こうしたパラドクスこそがコンピュータによってぼくたちに突きつけられているところの最も重大な問いなのだ。つまり、コンピュータを単なる外界における切り離された機械として考えるのではなく、拡張された身体として、さらには拡張の拡張の拡張といった無限のリンクの中で考えることが不可欠となるのである。身体の拡張、または身体にコンピュータを接続することによって、第二次的な知覚―行動システムを創出しようとするさまざまな企てが試みられているのは、そのせいなのである。ここでひとつだけ例を挙げれば、第一章でも触れたNASAとVPLリサーチ社によって開発された仮想現実(Virtual Reality )の再現システムがある。これはフィリップ・K・ディックの『暗闇のスキャナー』やサイバーパンクSFのアイディアから生まれたシステムであり、「アイフォンと呼ぶ液晶ディスプレイを組み込んだゴーグルと、手の動きをリアルタイムで画像表示するデータグローブ、さらに体全体の動きを虚像空間の中に転写するデータスーツやデータベストといったインターフェイスを用いて、建築設計中の三次元CGなどの内部に入り込み、体感によってその空間そのものを精査するなど、現実には存在しえない空間や虚像の現実にも人間というメディアを連結させること」(武邑光裕「脳化としての視界2」『FROG』#12)を可能にするものである。このシステムを用いれば、ぼくたちは仮想のテニスを実際にテニスをするのとほとんど同じ身体実感によってプレイすることができるし、自転車を漕ぐことによって空に舞い上がる経験をすることもできる。
だが、ぼくの考えではこうしたシステムは技術的にはいくら画期的なものであるにしろ、基本的にはとりわけ革命的なわけではない。いわば、これからいくらでも現れてくるであろうありふれた技術の一つにすぎないのである。なぜなら、パーソナルな環境におけるコンピュータとは多かれ少なかれ、いつも既にこうした仮想現実と人間とを結び付けるものだからだ。たとえ、パソコン通信のように文字だけで情報の入出力がなされる場合においても、基本的には同じように身体と脳(精神)との関係は決定的に変容を蒙ることになるからである。つまりは、ぼくたちの「正常な」状態における、脳―身体―世界という回路は可能的なインターフェースの中のひとつにすぎず、ちょうどデバイス・ドライバーを変えるようにして、この回路のチャンネルを変えたり、別のインターフェースを選択することができるということの方が、単なる「メディア・スーツ」の開発などという過渡的な事実よりもずっと重要なことなのである(その意味では同じく第一章で紹介した通産省の「テレイグジスタンス・システム」というネーミングの方がずっと凄い)。いわば、現象学的な「世界―内―存在」としての人間は、「複数の(仮想)世界―内/外/全―存在/情報」とでもいうような、従来の人間科学的知では到底理解できそうもない、わけのわからないものへと変わりつつあるのである。わけのわからないもの――しかし、それは別の視点を取れば、かつて古代のコスモロジーや宗教、そして中世の錬金術などが暗示していた宇宙像へとループ・バックしていくものなのかもしれないが……。
したがって、このシステムをテクノロジーがもたらした新しい挑戦として語るだけでは、片手落ちであるばかりではなく、すでにテクノロジーによる経験の拡張が、「経験」それ自体の散逸と解体を含んでいるという、それこそ身体実感としては分かりきっているような事実を隠蔽してしまっているのだ。だが、そのことこそが唯一の重要な問題なのである。すなわち、従来の「世界―内―存在」的な人間の捉え方を越えて、存在/情報、身体/精神などの図式そのものの崩壊を生き抜く新しい(超歴史的)身体論、文明論、宇宙論の構築こそが現在求められているのである。
4 情報と文明
ところで上の様な視点から、コンピュータが現在もたらしつつある情報革命を文明論的に考えてみたらどうだろう。
人類が残してきた文明の変遷や進化とは要するに情報処理の形態の変化にほかならない。たとえばピラミッドなどの巨大なモニュメントを残し、広大な領土を支配していた古代文明はいずれも、大量な情報の集蔵と管理ということにその特徴がある。この場合勿論、富や物資、労働力の移動や、その前提となる馬や車輪などの交通機関も重要ではあるが、それらの利用をそもそも可能にしているのは、強力な情報処理能力であったこ�ニは言うまでもないだろう。そして、その手段としてかれらはいずれも文字を持っていた。文字がなければ広範囲に渡る情報収集や、命令体系は生まれえない。これらの文明をそれ以外の文明から隔てているのは、かれらが社会を構成する上での情報処理のスタイルの違いであると言えよう。プレ古代文明、あるいは現在でも残っている多くの未開社会は、これらとは全く異なる情報処理体系をもっており、限られた情報を循環させていくことで十分に共同体を維持していくことができている。したがって、この差異は必ずしも「進歩」とは呼べないものかもしれない。だが、それでも大量の情報の集中管理システムを実現した古代文明は、明らかに人類史における一つの大きな転換をもたらしたと言えよう。
とはいえ、アレクサンドリアの図書館に代表されるように、膨大な知識を所有していた古代文明は、それらの情報の流通に関しては極めて単純で静的な構造しかもっていなかった。情報は基本的には下から上へ、地方から中心へと固定された回路を流れるだけであって、それらの知識はごく一部の特権階級に独占されていたのである。栗本慎一郎が言っているように、ここでの情報処理は「足し算的」なものだったのだ(『ニッポンの終焉』)。それに反して市場社会、あるいは近代社会において、こうした過程は「かけ算的」となり、比較にならない程ダイナミックなものとなる。それはマクルーハンの言う「写本」と聴覚性に基づく知のシステムと「活版印刷術」と視覚性にもとづくシステムとの違いと言ってもいいだろう。
市場社会においては、あらゆるものは商品としての交換価値に還元される。このことは、労働から思考まであらゆるものが情報に還元されると読み替えることができるだろう。資本主義はこの情報の流通を加速する。すなわち、情報はただ単に下から上へ流れるのではなく、上から下へも逆流し、その運動の量とスピードはそれ自体の運動によっていやがうえにも加速される。知識は特権階級だけではなく、大衆にまで行き渡るようになり、資産もただ単に集蔵するだけではなく、それをどれだけ広く、早く流通させることができるかという能力に応じて分配されることになる。
但し、ここでは情報は常に「もの」と共に移動しなくてはならなかったので、流通の速度や範囲は広大なものとなったとしても、その経路は未だに狭く限定されたものでしかなかった。言い換えれば、大量生産の技術によってひとつの商品が大量に生産されるようになったとしても、「もの」が持っている「希少性」という特質は消えなかったのである。本やレコードにしても、また知識や資産にしても、「もの」の希少性によるその分配の不均衡に支配されており、またこの不均衡が資本主義のエネルギーに転化するそもそもの原因でさえあった。そのため、情報の「移動」は樹木状の分配システムに支配されなくてはならず、すべての情報はまず中央に集蔵されたのちに、各部分に再配分されるという回路を通らなくては流通することができなかった。鉄道や道路網、マスコミや行政体、流通産業や教育機関など、あらゆる情報伝達のメディアは、こうしたツリー状の階層構造に従属しており、情報流通やコミュニケーションの通路は限定されたものでしかなかったのである。
ところが、脱工業化時代、後期資本主義、消費社会などと言われる現在の段階になると、事情が少しずつ変わってくる。たとえば、マイカー社会や海外旅行の自由化は交通におけるツリー状のシステムを破壊した。遠距離の移動がパーソナルなものになり、その動きも複数化し多様なものとなったのである。また、ミニコミや自主制作版のレコード、コミケットなど、流通メディアの多様化は情報をパーソナル化し、ネットワーク状の情報網を形成した。ここでは金銭のやりとりすらもオンライン化され、現実と直接に接触することのない巨大な資金がオンライン上でやりとりされている。そして、とりわけコンピュータが可能にした情報のディジタル化は物化された情報の希少性を奪い、いくらコピーしても全く品質が劣化しない純粋な情報の消費が始まった。著作権や知的所有権に関わるヒステリックな論議は、それらを支えてきた――そして、資本主義の根幹を支えてきた――情報の不均衡と寡占という原理が蒙っている本質的な危機に対する反動にほかならないのである。
ここでは、情報は物質にその形や流通を限定されることなく、自由にそして無限に自己の複製をまき散らし、転送し、復元し、変容し、しかもそれでいて摩耗することなく飛び交うようになる。それは必然的に新しい文明の転換を引き起こさずにはおかないであろう。ぼくたちは、このような過剰で、重層的で、しかもヒエラルキーをもたない無数の情報空間に浮かんでいるのだ。そして、そうした世界のあり方はこれまた必然的にぼくたちの自己理解や時間/空間の理解をも変えていくことになるだろう。
こうして、コンピュータが象徴している新しい情報の宇宙がぼくたちの目の前に広がっていることになるわけだ。それはどんなコスモロジー、どんな文化を生み出して行くのであろうか。それを見据えていくためには、何度も言うように、コンピュータを切り離された独立した道具として語ったり、個別に単なる技術やソフトウェアを評価したり、新しく現れ出ようとしている現象を個別のパースペクティヴの中で捉えようとしたり……といった視点をきっぱりと捨て去ることが重要である。そうではなく身体自体をこうしたパラドキシカルな空間に潜入させ、そうしたリンケージのただ中から新しい視点を創出することが大切なのだ。
いま必要なのは「人間」というシステムとトランジット空間としてのサイバースペースとをつなぐ、いわば複数のデバイス・ドライバーを作成することなのである。その意味でAI(人工知能)とは、一般にそう思われているように、未だ完成されない夢の機械のことではない。そうではなく、それはきっと、既にありふれた現象となっている、このようなコンピュータと人間との結合――すなわち複合システムとしてのもうひとつの「精神」のことではないだろうか。