Since February 19th, 1996
室井尚著『情報宇宙論』より
第三章 テクネーの彼岸
1 ハイデガーの技術論
技術という言葉は通常物質的な生産活動の手段や操作、すなわちいわゆる「生産技術」の意味で用いられている。あるいはもっと一般的には、ある明確な目的を達成するために役に立つ手段や操作、またそれらの組織やシステムを指していることもある。この場合それは単に物質的な活動ばかりではなく、人間の精神に働きかけるいわゆる「精神的な技術」を指している場合も多い。たとえば「思考の技術」、「説得の技術」などという言い方もある。
ところで技術は西欧的思考においては、「自然」と「人間」の「対立」に関わるものだと考えられてきた。とりわけ近代以降、技術は自然の法則を認識する活動性である「科学」に基づく自然の制御、ないしは支配の「手段」として考えられてきたのである。したがって、技術はまた自然の制御、支配というその目的と共に語られることになる。このことは、自然の制御が人間の利益となるという前提をもっており、したがって技術とは自然を支配することによって人間に一定の利益をもたらすための「手段」であると考えられるだろう。逆に言えばここでの自然はそのような制御の意志における有用性によってのみ人間と関わっていることになる。
このような一連の「技術」観に根源的な疑いを表明したのは、言うまでもなくマルチン・ハイデガーであった。ハイデガーは「技術への問い」の中で右のような技術観を「技術のインスツルメント[機具]的、人間学的な規定」と呼んでいる。とは言え、彼はこのような技術の規定を間違っていると言っているわけではない。だが、それは不十分であり、技術の中にある決定的なものに触れていないと言っているのだ。(1)
ハイデガーによれば、目的や手段に関わるもの、すなわち機具的なものが支配するところでは、つねに因果関係が支配している。ところが、この因果関係とは本質的に何かを「出で―来―たらすこと」にほかならない。それは現存していないものを現存するものへと誘い出すことであり、このようにしてそれはギリシァ人が「アレテイア」(真理、事割られたる真事)と呼んだものに関わっているのである。したがって、技術とは単なる手段であるのではなく、まず第一に真理が露わになる一つの「在り方」にほかならないのである。そしてそれこそギリシァ語の「テクネー」(技術)が持っていた本来の意味なのだ。技術についての問いとはこの本来の技術のもつ「真理の発露」という在り方について問うことでなければならないのである。
ところが、近代技術は自然を役に立つもののシステムとしてのみ捉える。このこと自体はひとつの真理の発露でありうるかもしれない。だが、同時にそれは重大な隠蔽でもあるのだ。なぜなら、このような技術は現実を役に立つものとして仕立てる在り方において露わに発くように人間を挑発するひとつの「立て―組み」(Ge-stell)を形成し、そのことによって人間はその「立て組み」に隷属することになり、それを可能にしているもの(真理)との関係を忘却してしまうからである。
ハイデガーがここで言っているのは、近代技術が作りだした、自然や現実を役に立つものの構造連関として捉えるような世界観が、ある意味では真理の発露であるにせよ、同時にそれは技術の底にある真理との関係を隠蔽し、それを忘却させるものであるということである。このことは、ハイデガーのこの講演がサイバネティクスに代表される情報工学的世界観が表面に現われてきた一九五〇年代になされたということを考えてみると大変興味深い。なぜなら、おそらくサイバネティクスやそれに続くコンピュータ工学こそ、ある意味ではそのような技術的世界観の完成であり、まさしくハイデガーが危機と考えているところのものだからだ。
これらの立場は自然や現実を情報として処理し、制御しうる全体として捉えようとする。そしてその後のテクノロジーの発達はこれらの立場の勝利を強力にバックアップしているように思われる。だがハイデガーによれば、この勝利とは技術の成り立つ基盤自体の隠蔽によって勝ち取られたものにほかならないのだ。そして、それは人間性にとっての重大な危機を生み出しているのである。
彼は次のように警告している。
「しかも[発露の]命運が立て―組みの在り方をとって支配するとなれば、その時こそ命運は最大の危険にさらされる。その危険は私たちに二つの点に関して自らを証している。すなわち、事割られたる真事がもはや対象としてですらなく、むしろ専ら役立つものとしてのみ、人間は係わりをもつにすぎず、かくて人間は対象ならぬもののなかにあって一途に役に立つものの仕立屋であるにすぎなくなるや、たちどころに――人間は断崖の縁を、すなわち人間自体がもはや単に役立つものとしてしか受け取られるしかない、最果の縁を歩むのである」(四八ページ)。
つまり、技術のこのような発展は人間にその立て組みへの隷属を強い、その結果まさしく人間そのものをこうした役に立つもののシステムの中に組み込んでしまい、存在や真理から剥離してしまうのである。
「ところが人間は今日、もはや真なる意味においては徹頭徹尾、自分自身に即ち人間の本性に出逢うことはない。人間はかくまでも決定的に立て―組みの挑発の連鎖の中に立っているので、人間はなんらその立て―組みを呼び求めとして聞き取りもせず、また自分自身がかく呼び求められたものであることを見逃してしまうのである。」(四九ページ)。
そしてこうした技術への自由な関係を持ち得ない現代に対しての深い危機意識を表明しながら、この森の哲学者は技術の本性を問い続けること、すなわち真理を問うこと(哲学)の続行を訴えかけるのである。ここで、その一つの救いの光として浮かび上がって来るのがまさしく「芸術」という希望なのだ。かつては同じように「テクネー」と呼ばれたこの、真理を「輝けるものの光の中へ出で―来たらす露わな発き」としての芸術こそが技術の本性を照らしだし、失われた真理との関係を回復してくれるのである。こうして、真の芸術の中では再びエピステーメー(認識)とテクネーとの緊密な結びつきが取り戻されることになるのだ。いわばポイエーシスとしての芸術の中にこそ技術の本性が存在しているのであり、そこでこそぼくたちが忘却していたものに出会うのである。
2 技術の変容
さて、このようなハイデガーの議論に対して、ぼくは微妙な立場にある。というのは、まず第一にぼくは、技術を単なる「手段」として捉える立場が忘却しているその本性を考察しなくてはならないという彼の提言に対しては全面的に同意したいと思う。また、おそらく「芸術」と言われるものが、たとえば「近代」の一時期のようなある特定の時代や場所においては、確かにそうした「役立つものの全体」といった「立て組み」への従属から人間を自由にしてくれる可能性をもったものだったという認識に関しても全く異論はない。だが、一方においてハイデガーのテキストが属している一つの伝統的な哲学の言説空間というものに関して、とりわけその「真理」をめぐる言説のポリティクスに関しては一定の距離をおきたいと思っているのだ。
まず、世界をその有用性、すなわち道具性の全体として取り扱う技術と、そうした道具的理性の支配から世界を解放する芸術を二分するという思考の枠組みが、きわめて伝統的な言説のシステムに属していることに注意をしておかなくてはならない。たとえば、カントにおける美の位相もまたそのようなものであった。芸術は「目的なき合目的性」に従うという形で通常の因果的連鎖から距離をおくことができ、そのことによって日常の経済活動から自由な活動性であることができるのである。そして、芸術を他の活動性から区別し、そのことによって芸術に特権的な地位を与えるこのような言説のメカニズムが、いわば近代科学や近代技術が生み出した「自然」観とほとんど同時的に発生したものであることにも注意しておきたい。すなわち、ここでは有用性に縛られた目的のための手段である労働の連鎖が必要ではあるが他律的で隷属的な活動として貶められるのに対して、それに対する自己目的的で自由な技術としての芸術が掲げられているわけであるが、このような対立自体が実は相補的であり、歴史的に捏造されたものなのである。そして、一度こうした自由な技術としての「芸術」という領域が打ち立てられるや、次の問題は目的に従う他律的な技術とこの自由な技術との対立をどう解消するかということとなり、技術に対立し、その支配から人間を解放する芸術の可能性が問われるというおなじみの構図の中でしか、両者が語られなくなってしまうのだ。だが、ここで重要なのは技術にしても芸術にしても、それらがけっして固定的な領域ではなくて、流動的な関係の中にある歴史的構築物であるということであるように思われる。そして、だとすれば歴史の変化と共にこの両者の右のような関係や問題の構図も大きく変わるはずのものなのだ。ハイデガーの議論はこのような視点から見ればやや固定的で抽象的ものに思えるのである。
というのは、現在、技術はハイデガーが、あるいは彼以前の多くの人々が捉えたような有用性全体に関わる「目的のための手段」といった一般的な把握では捉えきれないような地点にさしかかっているように思われるからだ。あるいは、そのような捉え方がその大筋においては未だに間違ってはいないにせよ、そこでは技術の進展自体が別の捉え方を促すような一つの変容をもたらしつつあるように思えるからである。いいかえれば技術の進展自体が近代技術の「立て組み」を突き崩すような契機を有しているのである。
このことは、ぼくが「身体の技術」、「ものの技術」に対して「情報の技術」と呼びたいと思う新しい技術の位相の出現と深く関係している。これは一九世紀の中頃に相継いで現われた複製技術(写真、映画、レコード)において潜在的に含まれていたものであり、今世紀の後半情報科学やコンピュータの出現とその普及によって初めて顕在化したものである。
近代技術は明らかに「ものの技術」に深く関わるものだった。それは対象としての自然や事物の制御に関わるものだったと言っていい。言い換えればそれは一旦主体から切り離された「もの」の世界を再び主体に結びつける回路を作り出すものであったが、それは原理的に主体と客体との分離と疎外から始まるものであった。また、この両者はこうした迂回路を経た後に有用性という一点において再結合されるのであって、それ以外の関係は隠蔽され、排除される形式になっていた。そのことは、こうした技術が働きかける対象が「もの」であったことと切り離せない。
ところが、かつてベンヤミンが語ったように複製技術はこうした「もの」と「主体」との関係に裂け目を与えた。端的に言って、それは「情報」とその支持体である「もの」とを別々に考えることを初めて可能にしたのである。そのことによって「もの=対象」の主体による支配という構図は大きな打撃を受けた。そして、さらにコンピュータによる情報のディジタル処理の実現は「情報」を「もの」からほとんど独立させることになる。つまり、ここではテキストは勿論のこと、画像であれ、音楽であれ、あらゆる情報がバイナリー・コードに変換され、それは原理的にどのような形で保存することも、また転送したり複製したりすることもできるのである。ここでは情報はほとんど「もの」から独立した形で処理することができる。コンピュータとはこうした意味での汎用の情報処理システムなのだ。一九世紀的な情報のアナログ処理技術(複製技術)において未だ潜在的だった亀裂はここでは決定的なものになる。
この変容は、別の見方をすれば「身体の拡張としてのテクノロジーから精神の拡大としてのテクノロジーへ」という形で図式化することができるかもしれない。すなわち、産業革命以降のテクノロジーが主に「機械文明」という形を取り、それはまさしく端的に身体の能力の外在化と拡大としての「機械」に支えられていたのに対して、コンピュータ以降のテクノロジーは、むしろ脳や神経回路の機能を外在化し、拡張するものだからだ。もちろん、それを「精神」と呼んでしまうのは早計かもしれない。だが、少なくとも対象としての自然や物質の支配者としての主体の成り立ちそのものを、そのテクノロジーは既に含んでいることに間違いあるまい。近代のテクノロジーが「より強力に、より速く」ということを追求する「力とスピードのテクノロジー」であるとしたら、現在進行中のテクノロジーは「非物質/非質量」的な全く異質なテクノロジーである。ニュートンの宇宙観からアインシュタイン以降のそれへの移行がここにもやはり認められるのである。
そして、このことは人々に重大な立場変更を迫りつつある。なぜなら、ここで実現された情報の技術は、かつての人間の外部の「もの」を介した世界と人間との道具的結びつきといった回路とは全く異なった技術の在り方を含意しているからだ。たとえば、コンピュータはよく人間の脳と比較される。その物理的構成が全く違うにもかかわらず、そこでなされる情報処理のプロセスがパラレルなものだからだ。またコンピュータを、情報を伝える電流の流れを制御する流体工学的機械と考えるなら、神経系と体液の循環によって維持される生物の身体との類似は明らかである。そして、ここでは対象と主体とが情報の一元論的空間の中に溶解することになるのである。その結果コンピュータ科学の発達や、あるいは分子生物学や量子物理学などの成果などは、「情報」システムとしての宇宙という近代的自然観とは全く異質な自然観を生み出しつつあるのだ。
3 技術の向こう側
従来、人々はどのようにして物質から精神が、ものから情報が生まれたのかという問いが根源的だと信じていた。しかしながら、現在ではもしかしたら情報こそが根源的なのではないかといった想像がひとつのリアリティを獲得しつつあるのである。DNAに書き込まれた遺伝情報が個体を作り上げるように、ものの世界の背後にあるのはそのような情報であるかもしれない。また、そうした情報は0/1のコードに書き写すこともできるし、転移可能のものであるかもしれない。
いずれにしても、このような想像が真偽はともかく一つのリアリティをもつようになった背後には、従来は制御不能なものと思われてきた映像や音声やその他の感覚的所与(あるいは脳に直接刺激を与える超感覚的所与)の制御技術が出現したという事態と、さらにはそのような情報空間の出現が従来の有機的身体観や自己の捉え方に重大な変更を与えようとしているということがあるように思われる。情報の技術は「もの」と「主体」との作り出す二元論的構図とは無縁のコスモロジーと新しい身体観を生み出そうとしているのだ。「もの」の技術から「情報」の技術への変容は、同時に「もの」を不動の支点としたコスモロジーや身体観から別のそれへの変容をもたらすのである。たとえば、ここでは「人間にとって」の「(道具的な)有用性」といった概念は途端に曖昧になってしまう。それらは情報の転移と結合に関わるごく限定された観念でしかなくなってしまうのだ。
そもそもその根幹においては、技術はけっして生産性を高める手段などではなかった。むしろ、それは常に過剰をはらんでおり、多様性の生成なのである。そのことは、ひとたび近代の技術観を離れて、身体と意識の技術としての古代の呪術的、宗教的な修行や、狩人や遊牧民のもっている柔軟で多様な身体技術のことなどを思い浮かべてみれば、すぐにわかることだろう。現代ドイツの批評家ペーター・スローターダイクのように、「芸術」を西欧におけるタントリズムの代用とまで言っている思想家さえいるのだ。
また、そうした意味では技術とは実は生命の根幹にある力と常に結びついているのである。生命が持っている、情報を別の形に編集し、別のレベルへと変成していく力と技術の本質は同じものなのだ。「荘子」の中に出てくる料理の名人の話を思い起こしてみよう。そこでは技術とはタオ、あるいは自然における多様性の生成をもたらす力との一致にほかならなかったはずである。
こうした生成の力としての技術は、たとえばAIなどにおける技術の自動開発といった可能性などを考えてみれば、「人間による自然支配」とか、「有用性」とかいった狭い概念をはるかに越え出ていくものであることが理解されるだろう。そして、「もの」から「情報」への移行は、こうしたことを技術そのものの内部において露わに示しつつあるのである。
もちろん、こうした変容は今のところまだ潜在的なものにとどまっている。だが、数百年といった長いレンジで見ればこの変化は誰しもが認めざるをえないものとなることは明らかであるように思われる。
たとえば一九世紀の写真技術ですら、複製ができないダゲレオタイプからネガ・ポジ反転方式のカロタイプやその後継方式に移行するまでには長い年月が必要だった。誰もが写真を代用絵画と考え、複製技術としてのその本性に気づかなかったからである。また、現実の記録ではなく、写真独自の表現(たとえばフォト・コラージュ)が出現するまではもっと長い年月がかかっている。レコードにしても、単なる録音以外の使い方がなされるようになったのはその発明のほとんど百年後であった。その間人々は、「再現」という過去のパラダイムにがんじがらめに縛り付けられていたのである。テープ音楽が出現するまで音楽データの制御技術であるレコード技術はただの記録手段としか考えられなかったのだ。
そればかりではない。このようなズレは現在においてもまだ続いている。たとえば、せいぜい音質のよいLPレコードとしてしか使用されていないCDを初めとする音楽のディジタル制御技術や、単にテレビに映すこともできるというだけのディジタル・カメラなど、開発されるのは本来情報制御能力をもった技術の複製=再現技術への矮小化ばかりである。また、ソフトウェアの著作権を初めとするいわゆる知的著作権問題も、本来著作権という概念では管理しきれない情報技術を無理やりオリジナルと同じ品質の複製が困難であった「ものの技術」の時代のパラダイムに置き換えようとする反動的な力ばかりが突出している。書物とソフトウェアは明らかに全く違う位相の技術に属しているのにである。
だが、長い目で見るならばこれらの反動的な力の存在こそが逆に身体や宇宙観の変容を証明しているとも言えるだろう。未知のものを既知の構造の中に押し込めるという防衛機制の中に現われているのは、ぼくたちの従来のコスモロジーと現代社会や技術に対する身体実感との間の深いギャップなのだ。少なくともファミコンに夢中になったことがある人や、リモコンを握りしめてヴィデオやテレビのチャンネルをカチャカチャ動かしているザッパーたちならば、この空間の変容を実感しているはずである。
そのように考えるならば、今重要なのは「近代技術」の「立て組み」を内部から解体しようとしているこの新しい「技術」の成立ちをもう一度徹底的に問うことであろう。その意味でハイデガーの問いは継続されなくてはならない。だが、そこで一体「芸術」はどのような位置を占めるのか? それについて考えるのはその後である。なぜなら、この問いが答えられた後に(あるいはそれと同時に)もう一度「芸術」の存立が問われなければならないからだ。そして、それはおそらく「立て組み」に縛られた近代技術と真のテクネーとしての「芸術」といった対立図式とは全く違ったものになるはずである。そのことについては本書の後半でもう一度触れてみたいと思う。また、現象面だけを見ても現代芸術の多くは――かつてのようにテクノロジーから身を隠したり、それに抵抗をしたりするだけではないにしろ――せいぜいテクノロジーの切り開いた可能性を応用したり、素材にしたりする二次的な処理に甘んじているのが現状であるように思われる。いずれにしても、「技術の向こう側」はおそらく技術自体の内部を問う思考の中に見いだしていくことしかできないのである。「ものの技術」であった「近代技術」をモデルにして技術と「芸術」の関係を記述していくのはもうそろそろ止めなければならない。また、言うまでもなく「芸術」や「美的な否定性」を特権化、神格化することによって「立て組み」の乗り越えを語る言説システムを解体しなくてはならない。なぜなら、こうした言説の配分システムの政治や経済を作りだした近代のテクノロジーとは別の地平にいまぼくたちは歩みだそうとしているからであり、またそこではこの「立て組み」の編集可能性そのものが技術の新しい与件となっているからである。
4 テクネーとテクノロジー
だが勿論、同時に「テクノロジー」の可能性を単純に賛美すればそれですむわけではないことを最後につけ加えておかなくてはならないだろう。とりわけ八〇年代以降、一部のアーティストや思想家は、逆にテクノロジーそのものの中にアヴァンギャルドの精神の継承を読みとろうとしたり、あるいはアートとテクネーの語源的同一性を根拠にその幸福な結合を語ろうとしたりしているが、こうした単純な態度こそ問題にされるべきである。
テクノロジーといった場合、それは単なる技術ではなく、テクネー+ロゴスという技術と言説の複合体であって、実際のところ無害なものではないどころかきわめて危険なイデオロギーだからである。そうした態度から生まれてきたCGやテクノ・アートとかハイテク・アートという名前で呼ばれている「ディスプレー」は、ハイデガーの救出しようとした本来のテクネーとしての「芸術」とは全く無関係であり、そもそも身体や知覚を一定の因襲的な枠組みの中に固定しようとする支配や権力の補助装置としてしか機能してこなかったのだ。また、情報処理能力の拡大によって、人間の知覚を遥かに越えた情報量を提示するテクノロジーに対して、一種の電子的崇高の美学を語る議論にしても、「崇高」が元々人間の認識能力を越えた存在に対する一種の判断停止であった以上、きわめて反動的なテクノロジーへの隷属を生み出すものでしかあるまい。
テクノロジーは本来反省を知らない純粋にポジティヴな活動性であり、その本質は絶対的現前性とその表象という形而上学的な世界の配置にある。現在のところその担い手はIBMなどの多国籍企業体に代表される資本主義の欲望装置であり、またそれらの装置の配置それ自体である。それゆえ、「テクノロジー」という言葉を単純に賛美したり、その「可能性」のみを語り、隠蔽や支配の力を見ようとしない思考に対しては断固として戦いを挑まなくてはならないだろう。そこで必要になるのは、デリダ的に言えば、こうしたテクノ=ロゴス中心主義の流れの脱構築であり、それが身体や社会に強いる「立て組み」を別の形に変容させるような実践にほかならないのである。つまり、それは技術それ自体の中に潜む別の可能性(生成としてのピュシス=自然の発露?)を救出することであり、また、実際にその別の形での組織化を模索することである。それはもはや「道具的」技術と「真の」技術という対立が無効になるような地点にほかならないだろう。
このようにして、情報の編集/組織化の技術という、新しい技術の段階においては、可能性と共に一層陰険で巧妙な「立て組み」への囲い込みと支配が隠されていることを忘れてはならないであろう。そうした力を暴き出すためにも、こうした技術の本質を探ると共に、そうした技術を生み出した文化がそもそもいかなる情報の組織化として作り出されているかということを考察して行かなくてはならないのではないだろうか?
次の章ではこうした観点からこれらの技術が都市と身体にもたらした変容について考えてみることにしよう。
〈註〉
(1) 以下の訳語、引用は理想社版ハイデガー選集一八『技術論』(小島、アルムブルスター訳)による。但し、一部の訳文に手を加えたものもある。()内は同書ページ数