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室井尚著『情報宇宙論』より

第二章 六〇年代/意識の複数性


「六〇年代の本当の革命は神経論理学的なものだったのである」
(ティモシー・リアリー)(1)

1 爆発の時代

 ぼくは一九五五年生まれだ。だから六〇年代の文化はすべて少年期の思い出の中にある。ロック・ミュージック、ヒッピー、サイケデリック、アンダーグラウンド・カルチャー、SF、ベトナム戦争、文化大革命、フォークソング、革命理論、さまざまな政治的反抗……等々。有人人工衛星の打ち上げや六〇年安保は幼児期のかすかな記憶として残っているし、東京オリンピックやアポロの月面着陸となるとかなり鮮明に覚えている。また、アンダーグラウンド・シアターや映画にもよく通ったし、コンサートや集会にも出かけていた。要するにそれは、メディアや交通手段の発達と共にかつての距離感や遠近法を喪失し「小さくなった」世界の中で、様々な知的、そして政治的な力が、ブラウン運動をする微粒子のように激しくぶつかり合った時代であり、端的に言って「近代」と「反近代」とが、坩堝の中で高速に撹拌されたような時代だったのだ。すべてがこの坩堝の中で粉々となり、その砕片が残った。
 それにしても、ぼくたちの世代にとって悲劇的だったのは、ぼくたちが常に外にいる見物人にすぎず、そうした激しい時代の傍観者にすぎないということだった。ぼくたちはずっと足がしびれるまでTVの前に座っていた。そして大学に入る頃には、こうした熱狂が徐々に冷めていき、退屈な日常にすべてが飲み込まれていく、あのうんざりするような七〇年代から八〇年代にかけての時間をじっと堪え忍ぶことしか残されていなかったのである。いわゆる「全共闘世代」と「しらけ世代」の狭間に属していたぼくたちは、六〇年代の波に乗り切ることもできず、またさして「喪失感」や「内向」の意識もなく、まるでA・ビオイ・カサレスの『モレルの発明』に出てくる不思議な無人島のような独我論的な世界を孤独に漂っていた。そして気がつけばいつのまにか「消費の時代」が目の前にしらじらと広がっていたのである。ぼくたちは、長髪を切り、ベルボトムのジーンズをデザイナーズ・ブランドのスーツに着替えて、ポストモダンの反復の時代を生きるようになる。六〇年代はそこではノスタルジックに回顧される額縁の中の過去にすぎない。
 さて、それはともかくとして、個人的な思い出としては、子供時代の忘れることの出来ないふたつの記号がある。それは子供の頃デパートの屋上に飾られていた人工衛星スプートニクの模型と、小学生の頃帰宅の途中の路上で見た映画「ミクロの決死圏」のポスターである(この映画ポスターという奴は、飛行機から巻かれるビラや、アドバルーンと同じように子供にとっては重要なメディアだった)。宇宙への飛翔と、(想像力の世界の中の出来事に過ぎないとは言え)ミクロの世界への旅立ち――。いずれにしてもミクロとマクロの両方に向かう経験の拡張こそが六〇年代の隠された重要なモチーフであったことは確かだろう。そしてそれはまた近代的な合理主義と進歩主義とが最後の輝きを見せた時代であった。
 だが、同時に六〇年代は反近代主義の嵐の吹き荒れた時代でもあった。反植民地闘争は普遍主義的近代をヨーロッパのローカルなイデオロギーとして相対化し、奪われていく文化の固有性や民族的伝統を取り戻そうとした。様々なカウンターカルチャーもこうした普遍主義、合理主義的な「大きな物語」に収奪され、排除されようとしていた「小さな物語」群に基づく自らのアイデンティティを回復し、奪還しようという動機に貫かれていた。だが、それらは普遍主義の否定であるかぎりにおいて、結局は自らの物語をも相対化せざるをえないというパラドクスと、もうひとつは勿論、怪物的な資本主義のドライブに巻き込まれていく形でどんどん解体され、縮小されていったのだ。まあ、要するにすべての時代がそうであるように六〇年代は両義的な時代であり、近代化の力とそれに対立する力が両方ともそのピークにあって桔抗していたのである。だが、いずれにしても勝利したのはイデオロギーや思想ではなく、すべてを飲み込む資本主義であった。
 けれども、こんな当り前のことをくどくど書いていてもしかたない。ここでは別に六〇年代の文化状況のチャートを作ることが目的ではないからだ。そうではなく、その時はまだはっきりと掴むことができなかったひとつの巨大な底流のようなものに現在の視点からもう一度接近してみたいのだ。それはまた現在という時代を、そしてまた未来を読み解く上での大きなヒントを与えてくれるはずである。そして、そのように考えてみた時、六〇年代の大きな特質は、前章で触れた二〇年代に輪をかけたようなかってない規模での「知覚の拡張」、「経験の拡大」ということであったように思われる。 
 「知覚の拡張」はまた「身体の変容」と言ってもいい。六〇年代には、メディアの大幅な拡大と変容によって、それまでとは比較にならない程情報量が増大した。それは、ミクロコスモス(人間)とマクロコスモス(宇宙)の対立という、ロマンティックな情報論的パラダイムを解体し、またそうしたパラダイムに基づくあらゆる文化や芸術を崩壊の淵に向かわせたのだ。そして、それは量だけの問題ではなく、それまで使われることのなかった知覚のチャンネルが外に開かれるようになったのである。マクルーハンがいうようにメディアは身体を、そして人間を拡張したのだ。だが、拡張された身体はもはやかつての身体ではない。身体と身体の拡張であるメディアを通して世界の姿は以前とは違ったものに見えてくる。つまりメディアは身体を外に拡張したばかりではなく、内側にもエクスプロージョン(=インプロージョン)をもたらしたのである。内と外の両方におけるこの激しい爆発は、経験の在り方を根底から変えたのだ。
 そして、そうした中でLSDに代表されるドラッグ・カルチャーが果たした大きな役割を忘れるわけにはいかないだろう。

2 リゼルグ酸ジエチルアミド(LSD)

一九六〇年代初期、ハーバード大学のティモシー・リアリーは犯罪者、幻覚性精神病患者などを対象とする一連の実験を行なっている。一九四三年にアルバート・ホフマンによって発見された最強の幻覚剤LSD―25を数百人の被験者に計画的に投与するというこの実験は、リアリーによれば劇的な成果を上げ、再犯率は九〇パーセントも減少、性格改善の明白な徴候が観察された。その著書『神経政治学』の中で彼は次のように書いている。
 「私は、精神病が治療可能だ、と確信していた。人間の知的・情緒的機能に大幅な制約が生じるのは、精神がしなやかさを失い、神経回路の刷り込みと条件付けが固定化してしまうからなのだ。そうした精神や神経回路が創り出して保存する知覚現実は、人為的で故障しやすい状態のものになってしまう。これが私の結論だった。もし意識を変容させるための化学的キーが発見され、それがしかるべき理論上の文脈で使用されるなら、神経組織という生―化学―電気ネットワークは、状況に適応して移り変わる現実認識を次々に受け取りかつ創り出すことができるはずだと私は考えていた」。(2)
 つまり、リアリーはLSDこそそのような現実の知覚を変容させる化学物質だと考えたのである。そしてかれは一連の実験から一種の経験主義的形而上学を構想するようになる。ニューロロジックス(神経論理学)と名付けられたそれは、個人がミクロコスモスであるというグノーシス的、ヘルメス的、ネオ・プラトン的、錬金術的なヴィジョンへとかれを導いていったのだ。
 「人間は、複数の『精神』(これは神経回路として定義される)を持っているのだ。それらは個人の成長に従って発達し、選択的かつ適応的に起動させたり切ったりすることができる。まるで、現代人が身のまわりにある様々な電気回路を『起動したりチューニングを合わせたり』できるように」。(3)
 リアリーは、このような「複数の精神」というヴィジョンの背景にあるものとして、つぎの五つの要素を挙げている。1)アインシュタインの相対性理論、2)バイオ・コンピュータとしての神経組織観、3)初等コンピュータ理論、4)信号を周波数によって選択して、強度、明瞭度をもたらす電子通信技術、5)DNA情報理論に関わる分子生物学。
 さて、これは何を意味しているのだろうか? 質料とエネルギーとの等価性に関わる1)を土台として、すべては情報論的な知識と技術に関わっていることかわかるだろう。すなわち、ここで示唆されているのは「情報の宇宙」という観念と、そこにチューニングを合わせることで全回路を結びつけることができるマルチ・チャンネルのラジオとしての神経組織という一種の超近代的なコスモロジーなのである。言うまでもなく、これはぼくが本書で示そうとしている視点ときわめて近いものなのだ。
 LSDは最も強力で危険な麻薬として麻薬取締り法によって全面禁止となり、リアリーはハーバードを追放された上に刑務所に長年留置されることになる。そして、八〇年代に復活したリアリーが着目したのは全く別の形で意識を拡大する装置としてのコンピュータ・カルチャーの可能性だった。かれは「マインド・ミラー」というソフトを作り出すほか、サイバーパンクの流れにも積極的に関わって行く。こうした中で再び六〇年代から現在へつながる「サイバー・カルチャー」の潮流が注目されるようになったのである。
 近年の脳生理学の成果により、人間の神経細胞に情報を伝える伝達物質の正体が解明されつつある。エンドルフィン(脳内麻薬)と呼ばれるモルヒネやコカインなどの麻薬によく似た物質が脳内に存在し、そしてそれらの物質がドーパミンと呼ばれる情報伝達物質の流出を増大させるということがわかっている。もちろん神経細胞を伝わる信号の中には電流によるものもあるが、高等動物になればなるほどこのような伝達物質によって情報伝達を行なうことが多いそうである。麻薬はこうした神経細胞間の情報伝達物質によく似た構成をもっており、それがもたらすのは情報の過剰な流出である。つまり、ふだんはそうした情報は限られた量だけ、しかも限られた経路しか流れていないのに、麻薬はまるで堰を切ったように大量の情報を神経のネットワークに氾濫させる。いわば、情報伝達の経路がここでは洪水に飲み込まれ、普段は何も流れないところにまで流出していくのである。
 とするとリアリーの実験が示しているのは、現実から条件付けを受け、一定の「刷り込み」をなされた「精神」の回路を、一度LSDの力で「洗い流して」しまい、再組織化することの可能性――言い換えれば、別の「精神」の様態の可能性、あるいは「精神」の可塑性なのである。
 実際、ある一定の方式に従えば、人間の「精神」は簡単に変えることができる。最初の重要な「刷り込み」を破壊し、現実と別な「同調」をさせることで、「洗脳」はきわめて容易なのであり、そのことは同じ六〇年代にパトリシア・ハーストの事件などによって人々に広く知られるようになった。テロ組織に誘拐された数カ月後、自発的にその組織のメンバーとなって両親に絶縁状を突きつけた、この新聞王ハースト家の少女に起こった変化は、当時ぼくたちを相当戸惑わせたものだった。それはなによりも「個人の自由な精神」という神話を根底から傷つけるものであり、そのことによってぼくたちの思考を大きく揺るがす不気味な出来事であった。だが、たとえばいかなる拷問にも屈しない自由で誇り高い「人間」などという感動的な物語も、実はその拷問の方式が原始的であったからにほかならず、条件付けの適切な反復や、一定の薬物を使用することによって、ある人間に別の「精神」を持たせることがきわめて容易にできるということはもはや疑い得ない事実なのである。とすれば、世界観や価値観まで一八〇度転換するような、つまり、もはや「自分」が「他人」になってしまうような精神の「変調」という可能性をどうしても認めなくてはならないことになる。

3 精神のチューニング

 「洗脳」の可能性というこの認識は、そして六〇年代から現在にかけて、むしろ「洗脳」の遍在性やその不可避性という形で暗黙の裡に人々に受け入れられるようになった。世界観や価値観が、十数年あるいはもっと短い間に大きく変わるなどというのは当り前のことと考えられるようになったし、サブリミナルな領域に組織的に働きかけることによってメディアを通して人々の欲望を制御することもできるのである。たとえば、オイル・ショックの前後で、エネルギーに対する考え方は大きく変わり、それは生活の基本的な部分を変えてしまったし、同じように科学に対する考え方もこの二〇年間に全く変わってきた。もっと重要なのは、かつてはいわば実体的な「個人」の根っこにあると考えられてきた、「低級な」味覚や皮膚感覚までが変化してしまったことである。みんながブラック・コーヒーを好み、「甘さをおさえた」ケーキをおいしいように感じるようになったのはつい最近のことなのだ。いわば、メディアによる情報操作は人々の無意識の中に入り込み、その条件付けを書き換えるのであり、いまや人は一生の間にほとんど相容れない価値観や感覚をいくつも生きるようになっているのだ。消費社会とは常にこうしたメディアによる「洗脳」を人々に強いる社会でもあるのである。また、それは消費者が望み、消費の対象にしていることでもあるのだ。多くの生を生きることは「快楽」になりうる。精神のチューニング、あるいは複数の自分のチャネリングを享楽すること――。
 だが、話を元に戻すことにしよう。「洗脳」が支配の目的であれ、「治療」の目的であれ、ある一定の階級の利益=関心に人々を隷属させるものだとしたら、そうした技術を告発し、抵抗が試みられなくてはならないだろう。しかし、ハースト事件はテロリストが権力に属する少女を洗脳した事件であったし、また自ら「洗脳」を求め、消費する人々が中流以上の階層の人々であることからしても、事態はもっと複雑である。つまり、その最も重要で危険と感じられた部分は、「主体」という概念をあいまいにし、その結果、「自由」や「解放」や「陶冶」といった理念を一種の情報制御的な問題にすり替えてしまうということであった。そこではそうした価値や理念に対する主体の関係は外的に変更したり制御したりすることが可能なのではないかという疑いが生まれてくる。もちろん、これは主体性を何か外部のものに譲り渡し、外の権力装置の奴隷に自らを貶めるという危険に満ちているわけだが、しかしながらそれだけでは説明がつかない何かがそこにはあるのだ。
 それは、つまり「別の自分」、「別の自我」の可能性が自分の中にあり、それがなんらかの手段で自分自身の手で実現できるかもしれないという、危険ではあるが非常に大きな魅惑がそこに存在しているということである。逆説的だが、こうした「別の自己」への欲望もまた近代的な人間主義から生じてきた欲望であり、一種の「解放」への意志に貫かれているのだ。すなわち、主体性そのものの限定からの出口がそこでは望まれているのである。
 ところで、LSDや他の麻薬による「トリップ」体験の中で、さまざまな説明のつかない幻想が報告されている。たとえば、よく知られているのは、トリップの最中、本人が絶対に知っているはずのない外国語や古代語を喋ったり書いたりした、というようなもので、第三者による証言や客観的な証拠も残っている。また、別の誰かが直接頭に話しかけてきたというような「啓示」体験は枚挙に暇ないことであろう。こうした体験の真偽それ自体を問うことはここでの問題ではない。だが、こうした体験をどのように解釈可能かを考えてみることは無意味ではないだろう。確かにそれはたとえ第三者の証言があっても幻覚であり、単なる集団催眠として解釈することも可能である。
 しかしながら、もし本人が絶対に知っているはずのない外国語を急に語りだしたり、また理解したりするということが錯覚ではないとしたら、考えられることは一つしかない。何らかの仕方で「他人の記憶」が復元されたということであろう。もし、その記憶がその人間の脳にあらかじめ含まれていたものだとすれば、それは別人格の共存を意味するか、獲得された記憶の遺伝を意味しているかもしれないし、またそうではなくてその記憶が外からもたらされたものだとするならば、それは情報の波動の共振現象のようなものが想定されることになる。馬鹿げたことを書いているようだが、しかし、問題はそうした馬鹿げたことを考えざるをえなくなるような状況というものがかつて確実に存在したという事実なのである。当時ユング心理学や様々な神秘主義に多くの人々の関心が集まったのはそのためであろう。
 だが、ぼくはそうした従来の神秘主義をすら越えた解釈システムが構築されなくてはならないと提案しておきたい。なぜなら、現在のコンピュータ社会は、そうした記憶の共振や伝播を(とりあえず、コンピュータのシステム内においては)「ごく普通の出来事」にしているからであり、それは記憶(メモリー)の自己同一性に支えられたぼくたちの自我や意識の把握に対しても重大な影響を与えつつあるからである。 

4 情報処理システムとしての人間

 つまり、ここで大事なことは、まさしくリアリーが言うように、こうした状況を今世紀の物理学、生物学、通信理論、コンピュータ理論などと同じ文脈において捉えることなのだ。六〇年代がもし再評価される価値があるとすれば、それはまさしくこうした文脈の成立を準備した時代であったからである。
 たとえば、ぼくたちの自己同一性が記憶に支えられていることは、とりあえずは自明のことであるように思われる。記憶の一定の配列が時間を作りだし、その時間軸に準拠して「私」の同一性が形作られる。だが、ぼくたちの精神や意識のあり方が「メモリー」に支えられている、というように記憶という言葉をメモリーと言い換えてみたらどうだろうか? それだけで、とても不安な気持ちに駆られる人も多いはずだ。そう、「精神」とか「意識」、「自我」や「自己」、そして「人間」や「自由」といった概念は、メモリー空間の組織化の問題に還元できるのだ。
 こうした想像力は、もちろんサイバネティクスやコンピュータの出現が可能にしてくれたものである。とは言っても、ここで言っているメモリー空間とは、たとえばあなたの知っているような、計算または文書処理に使用されるあのパソコンのものでもなければ、かと言って巨大なスーパーコンピュータのものでもない。なぜなら、ここでのメモリー空間とはいずれにしろ、それらとは比較にならないほど広大なものだからだ。脳が処理できる情報量、そしてさらには人間や動物のひとつひとつの細胞が、そしてDNAが持っている情報量はとてつもなく大きなものなのである。
 また、ここで言う「情報」とは、情報工学が扱うような没価値的で意味から切り離されて計量的に扱われるものではない。それは常に意味論的な構造に貫かれているが、かと言ってあらかじめ設定された「意味」規則に縛られているわけでもない。むしろ、それ自体が意味を形成するものなのだ。それは「もの」が作り出すものではなく、むしろ「もの」や出来事の母胎にあるものである。
いずれにしても、こうした巨大なメモリー空間における情報の組織化こそが「精神」の根底に存在していると考えることができる。だとすれば、前章で紹介した西垣通の言葉をもう一度借りるなら、人間をこうした「生ける情報」として「汎記憶空間」の中に位置づけることもできるはずではないか。
ところで、SF作家フィリップ・K・ディックはその晩年の作品『ヴァリス』の中で、このような視点から見て極めて興味深い一種のコスモロジーを展開している。「ヴァリス」とは「巨大にして能動的な生ける情報システム(Vast Active Living Intelligence System )の略語であり、この小説の主人公ホースラヴァー・ファットに啓示を与える「超存在」として描かれているのだ。(4)
 『ヴァリス』の物語を簡単に紹介することは難しい。ファットはピンク色の光と共に突然啓示を受ける。この啓示から彼は秘密の教典書を書き始める。そして最後に彼は救世主を求める旅に出かけるのである。全編がファット(実は人格分裂したディック)の妄想に彩られており、読者は現実と虚構、科学と神話、覚醒と幻覚の境をさまようことになる。ここでは一人称で語られる人格分裂の物語が、ドストエフスキーの『二重人格』や夢野久作の『ドグラ・マグラ』をほうふつさせるような複雑な言語の迷宮を作り出しており、読者はファットの狂気と、グノーシス主義やドゴン族の神話などが分かちがたく混じり合った独特の宇宙へと引き込まれていくのだ。
 『ヴァリス』の宇宙観の母胎となっているのは、ディックが影響を受けたドラッグ、ロック、東洋哲学、エスノメソドロジーなどに関わる六〇年代の西海岸文化である。ファットが狂気に陥るのは女友達が麻薬中毒で自殺した時からであるし、また作中の映画「ヴァリス」のプロデューサーはロック・ミュージシャンということになっている。だが、それと同時にここではディックの他の諸作品にも見られるように、人間と機械の――別の言い方をするならばコンピュータ時代の人間の問題が存在しているのである。あるいは人間をコンピュータに似た一種の情報処理システムとして捉える視点が『ヴァリス』の宇宙観を可能にしていると言えるかもしれない。
 ここで、ドラッグ・カルチャーを七〇年代から八〇年代にかけて引き継いだのは、コンピュータの普及であったことを確認しておくのは無駄ではないだろう。別の言い方をすれば、現在ぼくたちが手にしているパーソナル・コンピュータこそ、六〇年代に始まるコスモロジーの変容に明確な形を与えたものなのだ。アップル社を作り上げたスティーヴン・ジョブスがインド帰りのヒッピーだったというのはけっして偶然ではない。ひとりひとりがもつパソコンはかつてドラッグがそうであったように脳の未知のチャンネルを開く精神の拡張器であり、その探究手段となったのである。いわばドラッグ・カルチャーが発見した未知の通路がここで初めて科学的探究の対象となったのだ。
 「巨大にして能動的な生ける情報システム」とは、「宇宙」そのものと考えてもいいだろう。このように宇宙が「情報」であるという考え方が現れたのは、おそらくコンピュータによるディジタル情報処理が普及してから以降のことであるように思われる。なぜなら、それ以前においては、「情報」とは「物質」の後に、「物質」を基底としてのみ存在するものと考えられていたからである。たとえば、宇宙に関する問いは常に、どのようにして「物質から情報が生まれたか」ということであった。つまりいつだって、物質から精神、無機物から生命体、下部構造から上部構造がどのようにして作られるかということが問題にされてきたわけである。
 このことはメディアの変遷を考えてみればわかりやすい。情報は従来つねにもの=メディアに縛られてきた。言葉は音声や文字、映像は絵の具や写真やフィルム、音楽は楽器や人間、そしてレコード盤やテープなしには存在しえなかった。また、ぼくたちはそれらなしの情報を思い浮かべることすらできなかった。ところが情報のディジタル処理が日常的なものになるに従って、こうした前提が揺らぎ始めたのである。フロッピーやCDに納められたプログラム、画像、音楽、文書などの情報がバイナリー・コードの形で保存されていることは誰でも知っているだろうが、問題は「あらゆる情報がバイナリー・コードに変換できる」ということの含意なのだ。実際のところ精度の高いスキャナーで読み込まれた充分な解像度をもった画像は、オリジナルの画像と肉眼では判別できない。また少なくとも「人間にとっては」、それがオリジナルと全く同一のものであると言っても何の差しつかえもないのである。またこうした情報はメディア(もの)への依存度がきわめて低い。というよりも、それは磁気媒体であろうが、その他の媒体であろうが(たとえばさまざまな文字型コード)、何にでも載せることができるし、また電話線や無線によってやりとりすることも自由である。そこではあたかも情報が自立しているように見えるのである。そして、このように考えるとき、電子芸術家ローリー・アンダーソンが言うように「宇宙のあらゆる存在は0/1のコードに変換可能である」といった想念が浮かんでくるのだ。そして、一度浮かぶともはや頭からぬぐいさることができないこの想念はその中にひとつの全く特異なコスモロジーを含んでいる。
 問題はこのことが正しいかどうかではない。そうではなく、そのような想像がある種のリアリティをもつようになったことそれ自体が重要なのだ。そこにこそ現在ぼくたちが迎えつつある変容の根拠が見いだせるのである。分子生物学がDNAの構造を明らかにして以来、ぼくたちは「情報」こそが根源的な存在なのではないかという観念を抱き始めている。宇宙が情報から成り立っており、物質世界もそのような情報が生み出したものにほかならないのではないかといった疑念が、従来の世界観から見ればきわめて異常なものであることは言うまでもないだろう。ここでは「情報から物質へ」という逆の方向への問いが可能になるのである。『ヴァリス』の中核をなしているのはこの「情報としての宇宙」という観念であり、古代の宇宙観への言及もここから生じているのだ。つまり、物質宇宙の背後にいわば精神的な実在(情報)が存在しているのではないかという観念が古代と未来とを結びつけるのである。ファットの「教典書」には次のように書き込まれている。
 「宇宙は実際には情報から構成されているため、情報がわれわれを救うのだといいうる。これがグノーシス主義者の捜し求めた救済するグノーシスである」。
 ところで、コンピュータの普及と共に人間と機械との対立図式にも変化が起こりつつある。時計やエンジンなどの従来の機械モデルと違ってコンピュータは情報の流れを制御する機械である。それは電流の流れを処理する流体力学的な装置であり、丁度水車が水の流れを制御する機械であるのと似ている。そして、そのように考えられた流体制御的な情報システムとしてのコンピュータは人間に対立しているというよりも、むしろきわめて類似したふたつのパラレルなシステムとして感じられることになるだろう。なぜなら、人間の身体もまた体液や神経系統を流れる情報の流れや循環を制御する情報システムにほかならないからである。こうして、人間の精神と身体と宇宙が「巨大な情報システム」というひとつの解決の中で統一されることになる。もはや、それは階層的な秩序でもなく、ミクロコスモスとマクロコスモスの照応でもない。すべてはひとつなのだ。『ヴァリス』のコスモロジーはここから生まれてきている。同じく「教典書」からの一節……。
「われわれはコンピュータに似た思考システムにおけるメモリー・コイルであるように思える」。
 「思考システム」それ自体ではなく「メモリー・コイル」でしかないという部分に注意しておきたい。
 もう一つコンピュータに関して言っておきたいことは、コンピュータとの関係が人間の心に一連の変化をもたらすということである。このことは身近な例で言えばよく出来たワード・プロセッサーで文章を作成している時に起こることである。たとえばアイディア・プロセッサーでアウトラインを作成して、それをカット/ペーストする際に、意外な論理の可能性が突如として目の前に現われ、書き手の人間は自らの内的な思考の表記というよりも、ディスプレーに現われるテクストの自律性に従って自らの思考を再アレンジするといった、いわば「自動記述」的な関係に入りこむことになる。また、電話線と接続したネットワークにアクセスをしている時に、コンピュータを通して身体がネットワークの空間に直接つながっているという感覚を告白しているネットワーカーも少なくない。つまり、ネットワークのサイバースペースにおける事件は直接身体的な体験となるのである。とするとヴァーナー・ヴィンジの『マイクロチップの魔術師』やギブソンのサイバーパンク小説に描かれる世界は既に潜在的には実現していると言えるかもしれない。
 これを身体の拡張とみるか、人間のアンドロイド化とみるかはその人の主観の問題であろう。いずれにしても「身体」、「人間」、「アンドロイド」などという概念は不変のものではないからだ。ただ、そのような相互作用が明らかに存在し、コンピュータが(従来の)人間の意識の専制を強化するのではなく、むしろそれが実現する情報空間にぼくたちの意識が結合し、その二つが一体となったより大きな情報システムに組み込まれているという「感じが存在する」ことそれ自体が重要なのである。これは、たとえば「コンピュータはただの機械であり、それに人間が振り回されるのは正しくない」というような「倫理的な」議論によってはけっしてくつがえすことのできない直感であり、新しい身体感覚ではないだろうか。
 たとえば、よく作られたシミュレーション・ゲームやロールプレイング・ゲームの場合、ぼくたちはほとんど現実の人生とかわらない体験をしているような錯覚に陥ることがある。もちろん、シミュレーションはあくまでシミュレーションであって、論理的にはリアリティとの間にいつでも境界線を引くことができる。だが、たとえば株式のシミュレーションと現実の端末を通しての株の取引とは、それが「現実の」売買にかかわるかどうか以外はほとんど同じ行為となるのである。つまりそこにかかわる主体の「内部」にとってはいかなる差異も存在しないのだ。あるいは単なるロールプレイング・ゲームにおいてすら、その偶然性、多様性、リアリティにおいて実人生との「内在的な」差異を見いだすことは難しい。もちろんぼくたちはそのようなゲームが単純なアルゴリズムを組み合わせたプログラムによって支配されているものにすぎないことを知っている。だが、もし人生をひとつのシミュレーション・ゲームと考えたら、それが同じように単純なプログラムの多様なプレイにすぎないわけではないとどうしてわかるだろうか?
そして、それは背後のプログラマー(デミウルゴス?)によって決定された単純で限定されたプログラムが生み出す、一見多様であるように見えながら実は単一のゲームだとしたら……。ディックのいう「帝国」とはそのような支配を指しているように思える。そして、それはまさしく「不条理」な運命の押し付けにほかならないのである。
 もちろん、右のような想念がただの妄想であり、今重要なのはこうしたシミュレーションが生み出す妄想に振り回されず、もう一度かつてのリアリティ(あるいは「大地」)を回復することであると主張することはできる。ディックにしたところで、ファットをもう一度分裂させることで、こうした問いを再び開かれたものにしている(実際のところ『ヴァリス』で最も感心したのはこの終結部である)。だが、何度も繰り返すようにこれが妄想であるかどうかということよりも、そうした想念が一種のリアリティを持ち始めているという事実そのものが重要なのだ。なぜなら、その時われれはもうひとつの別のリアリティを生き始めているからである。リアリティそのものの変容がここで既に始まっているのだ。
 今重要なのはソシオロジーからコスモロジーへ移行することかもしれない。あるいは認識論から情報の存在論へ、と言っても同じことだ。いくらサイバーパンクやインナー・テクノロジーについて考えても、それがリアリティへの、つまり実在への問いを欠いたままでは、ディズニーランドで遊ぶのと何等変わらない、安全な遊戯にすぎないからである。あるいは、日常感覚のまま六本木の街を歩いていて、そこでシンクロ・エナジャイザーを試してみたところで、それはジェット・コースターに乗るのと何も変わらないだろう。重要なのはその街路を歩いている時の日常感覚そのもの、リアリティそのものを問うことなのだ。
 そして、それは必然的に近代の、そして短いレンジで見れば六〇年代から(あるいはその先駆としての二〇年代から)現在にかけてのひとつの精神の水脈をもう一度徹底的に検討してみるという作業を要請することになるのではないだろうか。『ヴァリス』はそんなことを考えさせてくれるのである。

5 六〇年代からのメッセージ

 このように、もし六〇年代が回顧されるべき時代だとしたら、それは決定的な一つの精神の転換点としてではなく、無数の精神、意識の多方向への生成の始まりとしてでなくてはならない。ビートルズやサイケデリック・カルチャー、人工知能理論や分子生物学、政治的動乱、アンダーグラウンド文化などの様々な動きの中で、何か共通するものがあるとしたら、それは近代の世界観を支えてきた主体や精神に対する全く別のアプローチの可能性である。そのことは、ただ単に道具的、操作的理性による精神の自由の危機というような形で捉えられるべきではない(一面そうした批判はけっして間違っていないが、飽くまでも部分的なものにすぎない)。もはや、解放や自由が語られるとしても、全く違った空間における全く違った概念とならなくてはならないような、そのような契機を探ることだけが重要なのだ。その意味で六〇年代はまさしく今現在のぼくたちの生きる空間の中にある。それ自体としては単なる時代の風俗にすぎなかった当時の表層の文化にノスタルジックに回帰するような六〇年代論とは正反対の問題設定を、いまこそ作り出さなくてはならないのではないだろうか。

〈註〉
(1) ティモシー・リアリー『神経政治学』(山形浩生訳・トレヴィル)、三一ページ
(2) 前掲書、二四ページ
(3) 前掲書、二五ページ
(4) フィリップ・K・ディック『ヴァリス』(大瀧啓裕訳・サンリオ文庫)

【参考文献】
アルバート・ホッフマン『LSD―幻想世界への旅』(福屋武人監訳・新曜社)

 

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