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室井尚著『情報宇宙論』より

結章 情報のコスモロジーと身体の編集工学



 前章で、ぼくは知覚の編集工学としての芸(技)術という新しい提案をした。個人的な経歴を語れば、ぼく自身は美学者であり、これまでも長い間芸術をめぐって思考を続けてきた。その中で、アヴァンギャルドという名で呼ばれてきた近代芸術の特異な活動性の中に、世界と身体の体制を変えていくようなもうひとつの技術の可能性を見いだすようになっていた。
だが、それではアドルノやハイデガーと同じではないかと思われる方もいるかもしれない。確かにアドルノは、純粋な否定性としての前衛芸術に、またハイデガーは存在の故郷としての詩や芸術に大きな可能性を見いだしていた。しかしながら、かれらが思い描いていたような人文的伝統としての芸術という文化領域は今では過去の遺産と化してしまっている。とりわけ、ブルジョア的精神に対するラディカルな否定であったアヴァンギャルドが、逆にそのブルジョア的価値体系の中で重要な位置を占め、肯定されるようになったばかりではなく、享楽の対象にまでなってしまった現在において、「芸術」という固定的な文化領域の中に今更何かしらの可能性を見いだすことは難しいかもしれない。少なくとも、それはもはやそれ以外の領域や文化の閉域を打ち破り、媒介し、活性化するような起爆力をほとんど奪い尽くされてしまっているようにも思われる。(1)
 ヨーロッパやアメリカの思想家たちは、伝統的な文化領域、とりわけ「芸術」の伝統に余りにも深く浸透されているために、どんなに厳しく芸術や文学の危機が語られようとも、根本的にはその文化的枠組みに対して疑うことを知らないように思われる。あるいは、少なくとも「危機」を語る自らの言説の自明性を疑っていないようにも思われる。だが、異なる文化に属し、そもそも外部としての西欧文化を学んだぼくたちは、西欧の芸術や文学をひとつの特殊ではあるが一般的な身体技術として受け取ることもできるのではないだろうか。その意味で、ぼくの提案は、「芸術の可能性」を語り、その媒介の力に注目するというよりも、その中に隠されていたもっと広い意味での「情報の編集能力」を、芸術の境界や枠組みを越えて解き放していくことに関わっているのである。つまり、思想、批評、デザイン、その他すべての活動性(本当に広い意味での――たとえば、コンピュータ・ゲームのデザインやポップ・カルチャーも含めて)の中に、アヴァンギャルドが潜在的にもっていた知覚の編集工学的可能性を発見し、拡大していくことが問題なのである。
 こうなってしまえば、「芸術」という概念はひとつの口実のようなものにすぎな い。重要なのはあらゆる活動性の中に潜在的に含まれているこのような可能性を救い出すことなのである。そして、それは自己自身を絶えず編集する自己という意味合いで、モダニズム的な自己言及性に関わっていると同時に、自己の身体や知覚そのもの、更には身体の宇宙的な位相を編集するという意味でその先まで突き抜けていく可能性も含んでいるのである。
 このような知覚の編集工学=身体技術という観念を可能にしているのは、言うまでもなく「身体」に関わる新しい概念である。ここで、ぼくは巨大な情報機械システムとしての身体というイメージを思い浮かべることにした。それは、いくつかの基本的なハードウェアと無限に多様なソフトウェアの組み合わせとして考えられている。そして、この「身体」とはけっして固定的で閉じられた領域ではない。それは別の領域、そして別の身体(たとえば、「社会」という身体、「国家」という身体)へと開かれており、様々な機械状の組み合わせ、あるいはネットワークへとリンクされるべきものとして考えられる。
 こうした「身体」のイメージは本書で何度か触れたように、直接的にはコンピュータという新しい環境から生まれたものであるが、そればかりではない。たとえば、ドゥルーズ/ガタリは『アンチ・オイディプス』において、人間を「欲望する機械」として捉える視点を提出し、フロイトの表象主義的―演劇的アプローチに真っ向から対立する、無意識を欲望の工場として記述するような生産の理論を作り上げた。かれらの欲望機械、文学機械というような観念にぼくは多くを負っている。「人間」と「機械」との対立といった根深いヒューマニスティックな対立図式はここでは完全にその意味を失うだろう。また、同じようにコンピュータが意識の拡大であるのか、それとも意識の消滅であるのかといった二項対立的思考もそれと共に時代遅れのものとなるだろう。
 本書において何度も述べたように、重要なのはこうした「身体」の把握を通して、量子論的世界から相対論的なマクロな宇宙までを横断する統合的な宇宙論を作り出すことである。第七章で語られたヌーサイトと呼ばれるもぞもぞとうごめき、積み重なり、お互いに溶け合い、増殖する細胞のように、自己を編集しながら形を常に変えていく生命の潮流を明確に把握しなくてはならない。
 メルロ・ポンティは『見えるものと見えないもの』の中で次のように書いている。

「……私が目を向けなければならないのは、私の世界経験であり、毎朝眼を開く度に私の身に改めて生起してくる世界との混合であり、朝から晩まで脈打つことを止めない、世界と私との間の知覚的生の交流であって、その交流こそが、どんなにひそかな私の思考をも、その表情や風景の様相を変えて私に現れさせるのであり、また逆に、そうした表情や風景が、私の生活にある人間的なあり方を注ぎ込み、時にはそれを助長したり、時にはそれを脅かしたりするようにさせるのである。」(2)

 この「脈打っているこの世界、私の身体が朝目覚める度に生起してくるこの世界」こそ、ぼくがこの本の中で語ろうとしていた世界と身体、客体と主体との情報論的融合体である。それは、コンピュータや情報論的宇宙と対立するものではない。むしろ、それらはこうした世界をぼくたちの意識に開いてくるものなのである。この事実からはもはや逃げ出すことはできないのだ。
 ぼくはこの本の中で、できるだけ記述の視点を大きく取って、単に新しい自然科学の成果や技術を取り上げ、その「影響」を文明論的に拡大するといった種類の言説から身を離そうとしてきた。最後の何章かで繰り返し語ってきたように、重要なのはテクノロジーに順応することではなく、むしろその空間に深く潜入することによって初めて可能になる主体的な抵抗の技術を身につけることなのである。
 また言うまでもなく、ぼくは技術やメディアだけを独立変数として扱い、社会的、歴史的な領域から切り離すような言説からも遠ざかろうとした。新しいメディアやテクノロジー(だけ)が歴史を変えるのではない。そうではなく、そのような技術が社会化される時点で初めてそれらの技術を生みだした歴史的構造や要因が明確に見えるようになってくるのである。ここでも主体の構成と「国家」、「社会」などの構成のパラレリズムとその多様なリンケージが問題となってくるだろう。重要なのは分節する力ではなくて、統合する諸力のメカニズムなのだ。
さて、それではこのように考えられた世界において、ぼくたちが置かれている状況の問題とは何なのだろうか。それは端的に言って、ポリフォニックでマルチチャンネル的な生をいかにして受け入れ、それを生き抜くことができるかという問題であるように思われる。別の言葉で言えば、それは「物語」をどのように考えるかという問題である。
   いきなり物語について語り始めたのは、ぼくたちの思考にとって物語的な情報の組織化がきわめて重要な意味をもっているからだ。
 物語を持たない民族は存在しない。人間は常に物語と共に生きてきた。というよりも、「物語」とはぼくたちが世界に秩序を与えるただ一つの方法なのだ。それは、ちょうど物質が時空の四次元の中にのみ存在しているのと似ている。空っぽの時空や、時空を超越した物質などは存在しないのと同じように物語の形を取らない体系的知識は存在しないのである。
 だが、だからと言って、物語がそのまま「リアリティ」なのではない。リアリティとは知覚と物語との「間」で振動する記憶の粒子の揺らぎのようなものだ。それを分子的闘争と言っても、差異の戯れと呼んでも、量子論的場と呼んでもいいが、要するに、リアリティとは物語が解体すると同時に生成しようとするあの移行(トランジット)の空間の中にしか存在できないのである(松岡正剛は、こうしたリアリティの形を〈エディトリアリティ〉と呼んでいる)。
 物語は閉じたシステムであるが、さまざまな解釈コードに委ねられることによって、多義的で重層的な構造をもつことができる。たとえばインドの叙事詩「マハーバーラタ」が「物語の物語」と呼ばれ、あらゆる可能的な物語や現実の出来事を先取りしているように見えたり、同じように聖書を初めとする様々な神話や説話があらゆる事柄をあらかじめ語り尽くしているかのように見えるのもそのためである。だが、すべてを語り尽くしているように見える物語も結局のところは常に何か重要なものを語り落としているように感じられるのも事実だ。そこに常にまとわりつきながらも欠如しているもの、それがリアリティというものかもしれない�B
 かつてプロップが魔法説話の分析で示したように、物語はその構成要素と統辞法に注目するなら、きわめて限られた組み合わせによって成り立っている。(3)それは基本的にはヤコブソンが言ったように範列論的な要素群を統辞論的軸に時間的に投射するといった手法で作られているのだが、こうした構造化は同時に主体と世界の関係における人間の思考の構造にも適用されることになる。ヤコブソンの失語症の分析に見られるように、こうした範列論的要素の時間軸への組織だった投射ができなければ、ぼくたちは首尾一貫した思考や発話ができないことになるのだ。(4)
 こうした言説の組織化は、また言うまでもなく歴史のそれでもある。語源的な同一性を問題とするまでもなく、歴史とは物語であり、また個人の自己同一性を保証する履歴や記憶もそうした物語として組織化されていることになる。こうして、物語こそがぼくたちの意識に一貫性と持続とを与え、ぼくたちの生に意味を付与し、方向をつける基礎となっているのである。
 ところでJ・F・リオタールは『ポストモダンの条件』の中で、ポストモダンを特徴づける指標として「大きな物語の終焉」を挙げている。(5) たとえば愛による原罪からの解放というキリスト教の物語、認識による無知や隷属からの解放という啓蒙の物語、労働の社会化による搾取と疎外からの解放というマルクス主義の物語、産業の発展による貧困からの解放という資本主義の物語などといった指導的な物語がその力を失い、そのかわりに無数の小さな物語が断片的に散乱している状態が現代だと言うのだ。近代とは、「われわれ」という大文字の主体によって語られる言説によって支えられてきたが、「われわれ」とは「私とかれら」を意味しており、「かれら」とは常に多数で普遍的なモデルとしての「人間」を指し示してきた。この普遍的な「人間」を主人公とする近代の物語の秩序は戦後の世界においては解体され、複数化されている。また、それは日本やアメリカでは消費の対象になってしまうまでになった。(6)
 また、物語の時間軸にそった線的な展開自体が現代では不可能なものになってしまっている。なぜなら、本書でも何度か指摘したように、時間もまたそこでは分裂し、複数化していくからだ。ニュートンにおいて時間とは「それ自身の本性から、外界の何ものとも関係なく一様に流れる」ものであったが、今日ではニュートンのこのような時間観は覆されている。一般相対性理論によれば、時空とは重力が作り出すものであり、ひとつの次元にすぎない。時間はもはや滑らかで連続的に流れるものではない。そこは至るところ不連続な断層やでこぼこに満ちているのである。
 そして、モノから情報へという時代の流れの中でこうした新しい時間意識はますます重要性を強めている。エジプトのピラミッドやスフィンクスを間近で見た人ならば誰でもそこに壮大な歴史物語を感じとることだろう。数千年の風雪に耐えてきたそれらは見る人を沈黙させる崇高さをもっている。なぜなら単純な事実としてモノは摩耗するからだ。熱力学の第二法則が示しているように、エントロピーの増大という不可逆的な時間の矢が宇宙を支配している。物がそこに一定時間存在するだけで、物語が生み出されていくのである。物語とはモノに刻まれる時間の推移そのものであると言っていいだろう。ところがモノから情報へという推移の中でこうした単線的な時間意識は弱まり始めている。第六章で論じたように、汎メモリー空間の中において時間はその発生のそもそもの現場であるような、量子論的場を多方向的に飛び回る粒子と化すのである。
 初めに、ポリフォニックでマルチチャンネル的な生と言ったのはこのためである。知覚やデータの多様なベクトルを逆投影する虚の焦点としての主体=自己は、物語的な(統辞論的)組織化の原理に従っている。だが、右のような時間=空間の中では、こうした組織化はまるでジョイスの「ユリシーズ」の叙述主体のような(あるいは、「ハイパーテクスト」のような)複数性をまとうことになるのである。「私」はもはや単線的で有機的な持続ではなく、複数の「私」をチャネリングする、その移行の中に存在しているのだ。
 こうした現代に特有な時間意識のあり方を社会科学者は主に「分裂症」という概念で把握し、それをひとつの病理学的な兆候と捉えてきた。だが、ぼくたちはこれからはこの「ポリフォニー的主体」、「マルチチャンネル的主体」という観念をポジティヴに捉えていかなくてはならないのではないだろうか。
 たとえば、コンピュータの世界ではマルチタスク(同時に複数の仕事を進めること)とか、情報の並列処理(逐次型と言われる手順を踏んだ処理ではなく、処理を同時に並列的に行う)とかが問題となって久しいが、逆に言えば人間は既に常にマルチタスクや並列処理を軽々とこなしてきたのである。それに、ある意味では古代の宗教者や巫子、さらには原初の詩人や芸術家などは、既にしてこうしたマルチチャンネル的な主体であったとも言えるのではないだろうか。一貫した単線的秩序において持続する自己同一的な主体という観念こそが、ある意味では近代が作りだした虚構の物語だったとも言えるわけである。
 そうしてみると、基本的にはコンピュータが潜在的に含んでいる汎メモリー空間、あるいはマルチチャンネル的主体―時間といった概念は、実は遥か古代の文明と結びついていると言えるのかもしれない。実際、ぼくが考察してきた情報論的宇宙とは、グノーシス派やプロティノス、バラモン教やマニ教などの宇宙論や身体論と奇妙な形でつながるループを形成しているのだ。
 重要なのは、したがってこうした超―物語的平面に自らを開いていく身体に関わるデリケートな技術なのだ。といっても、たとえば身体を情報端末化することによる身体の拡散とネットワーク化のこと(だけ)を言っているわけではない。それどころか、本文でも触れたヴァーチャル・リアリティ(仮想現実)とかテレイグジスタンスとか言った技術は「この私の身体」を消去するのではなく、まさしくその反対なのだ。それらは程度の差はあれ、電話やリモコン制御で動くマジックハンドと同じことであり、「仮想現実」を「リアリティ」とするのは、まさしくぼくたちの「この」身体なのである。
 知覚の余剰点としての「私」による「この世界」を作り出すのは、常に身体の位置である。ぼくたちの「身体」の「位置」こそ還元不能なものであり、それはシステムの外部にあるということを忘れてはならないだろう。その意味で、ぼくたちの情報論的思考は、こうした絶対的差異性としての「身体」を排除するものではない。だが、同時にそうした位置は別な知覚装置=メディアとリンクすることによって別なリアリティを構築することもできるということも忘れてはならないのである。
 そうなると、結局のところこうした身体の技術を可能にする編集工学としての新しい知識の形態を作り上げることだけが重要なのである。社会科学と自然科学の統合体としての「理論」の構築がそれを可能にしてくれるだろう。いわゆる「ニューサイエンス」や「ニューエイジ思想」ではその意味で不十分である。何度も繰り返すように、身体と主体の編集工学的視点が欠けた理論的企ては単なる科学的啓蒙にすぎない。理論の義務とは主体的にこうした自己変革に関わる人々に土台とフィールドを提供することでなくてはならないのだ。
 そうした「理論」とはどのような形態のものでなくてはならないだろうか。まずそれは、これまで述べてきたように線状の「物語」的言説であってはならない。いわばそれはこれまでの直線的な言説を越えた対話的・ネットワーク的知とならなくてはならないだろう。ちょうどハイパーテクストのように(マッキントッシュのハイパーカードがその最も単純なモデルであるような)相互に関係し合い、相互に意味を変え、予想もしない形で動いていくような柔軟な知の形が作られなくてはならない。あるいは、それはこれまで語ってきたように従来の言説のメディア(たとえば「書物」)を越えた広大なメディアボディ空間の上に構築される知である。
 もし知性をソフトウェアにたとえるならば、そのソフトウェアは閉ざされたものではない。それは、別のソフトウェアすなわち別の知性と結びつき、組み替えられ、そのモジュールを相互に利用し合い、再編集し合うような開かれた空間の中で初めて生かされるものである。その意味で知性とは「インテリジェンス」というよりも「コンテリジェンス」的なものなのだ。新しいメディア=身体空間は、本来知性が属しているこうした空間を極限にまで拡大していく。ぼくたちは、それに見合った新しい言説の場を作り出して行かなくてはならないのだ。その意味では個々人の知性とは独立した単一のソフトウェアなどというものではない。それは、広大な汎メモリー空間にアクセスするための端末プログラム、あるいはデバイス・ドライバーにすぎないのだ(何度も繰り返してきたように、この汎メモリー空間は何等実体的なシステムを意味しているわけではなく、むしろ交錯する無数のアクセスこそがそうした場=空間を可能ならしめているのだということを忘れないでおこう)。
 もともと、人間の思考はシークエンシャルで閉ざされたシステムではなく、不完結で開かれたものである。それは自分以外のものとの多様なリンクによって初めて可能になるものなのだ。ここで語られてきたような新しい時間意識、新しい宇宙意識の出現に触発され、ぼくたちの思考は未知の空間に自らを接続していくことになるだろう。分裂した経験と他者の声の過剰の中で、自己の新たな統合原理を再構築していくのが、人間の、いや生命全体の根源的な力の必然であるとするなら、ぼくがここで端緒を開いたような新しい情報宇宙の理論化の試みもその一つなのだと信じたい。

〈註〉

(1) こうした「芸術」以降の芸術の可能性については、室井『ポストアート論』、白馬書房、1988 を参照されたい。
(2) メルロ・ポンティ『見えるものと見えないもの』紀伊国屋書店、五五頁。
(3) V・プロップ『魔法民話の起源』、白馬書房等を参照。
(4) R・ヤコブソン『一般言語学』、(川本茂雄訳)大修館書店を参照。
(5) リオタール『ポストモダンの条件』(小林康夫訳)白馬書房を参照。
(6) たとえば、大塚英志『物語消費論』新曜社などを参照されたい。

 

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