Since February 19th, 1996
室井尚著『情報宇宙論』より
第一章 炸裂する宇宙――中心の喪失から情報の銀河系へ
1 世界の中心の石
ジョン・ファウルズが原作、脚本を書き、マイケル・ケイン、アンソニー・クイン、キャンディス・バーゲン、アンナ・カリーナが主演し、ガイ・グリーンが監督した、二〇世紀フォックス社制作の"The Magus" という映画がある。『魔術師』という題で原作が翻訳もされているこの映画は、日本では未公開であり、ヴィデオ化もされていない。だが、今から一五,六年前に日本の深夜テレビで一度放送されたことがあり、当時大学生だったぼくは偶然にこの映画を見ている。もっとも、ぼくの四畳半のアパートの白黒テレビで一度見ただけなので、それほどはっきりと覚えているわけではないのだが……。
「現実からガラスで一枚隔てられているように感じている」主人公は、恋人を捨てて、ギリシァの小さな孤島に教師として赴任する。そこで、不思議な男に出会い、かれは幻想と現実とが入り交じった狂気の世界に入り込んで行く。エーゲ海の強烈な太陽と重層的で錯綜した世界――そんな映画だったような気がする。
なぜ、こんなことから書き始めたかというと、映画の中で主人公に捨てられた恋人アンナ・カリーナが、彼女の大事にしている「世界の中心の石」について語るシーンがあり、この石のイメージが強烈に頭に焼き付いて離れないでいるからだ。原作を読みなおしてみたが、原作の方にはこんなシーンはない。ほかのシーンはみんな忘れてしまったが、なぜか、彼女が自分の宝物であるという卵ほどの大きさのその「石」について説明するシーンだけが記憶に滲みついているのである。
彼女はその大切な「石」こそが、「世界の中心」だと信じている。そのことに根拠は何もない。だが、その美しく輝く「石」こそが、全世界の秘密の中心であり、自分がそれを人に隠して持っているということが、重要なことなのだ。それは彼女だけの秘密なのである。なぜなら、その石を持っているかぎり彼女は自分がいつも世界の中心とつながっているという確信と安堵を得ることができるからである。彼女が死んでも、その石は残る。その石は、当然のことながら、世界の誕生と同時に生まれ、不滅なのだ。映画の中ではそれは、ビロードに包まれており、その布を広げると真ん中で、不思議な渦を巻く光を発していた(ような気がする)。
ファウルズにはほかに「コレクター」というもっと有名な作品もあるが、ここでも少女を蝶のように蒐集することによって世界との釣合をとっている青年が登場している。この場合も、世界と自己意識とをつなぎ止める不可欠の媒介としてこの「石」のような美的オブジェが存在しているわけである。
考えてみれば、このような「石」の形象は、今世紀における「中心の不在」という感覚をきわめてよく表わしているように思える。
世界にはもはや中心はない。ヨーロッパやアメリカが文化の中心ではなくなったということ。地球が、そして太陽すらも宇宙の中心ではなく、ぼくたちにもっとも近い銀河系さえも二〇〇万光年の彼方にあり、しかもそれは何億もある銀河系のひとつにすぎないということ。そもそも、中心とは恣意的に境界線を引くことによって捏造される虚構にすぎないこと。絶対空間や絶対時間というものは存在しないということ。こうした諸々のすべてを合わせた意味で中心はないのである。
だが、もし世界の中心がないとしたら、ぼくたちと世界との関係はきわめて不安定なものにすぎないことになる。そこでは幻覚と現実を区別することは不可能になるし、何一つ確実な認識ができないことになってしまう。かつて、世界の中心ははっきりしていた。すなわち、それは自分の属している共同体であり、共同体の神であったはずである。ヨーロッパでは中世まで存在していたそのような確実な中心への信頼が、ルネサンスや宗教改革、大航海時代といった交通とメディアの拡大によって崩れ始めることになる。コペルニクスやガリレオの地動説を経て、デカルト的懐疑が芽生えてくるのもそうした中心が揺らぎ始めたことに関係があることは言うまでもない。
中心がないということは、ある意味では相対的な中心の遍在を意味してもいる。絶対的な基準点がもしないのなら、すべては「中心」として考えることができるし、そこには相対的な「関係」しか残らない。こう考えてみると、「世界の中心の石」はどこにでもあるし、誰でももっていると言えるだろう。そうした中心はたとえば「思想」や「学問」や「芸術」であるかもしれないし、何かしらの個人的な「信念」や「価値」であるかもしれない。言うまでもなく個人の「内面化」された信仰もそこに入れることができる。但し、いずれにしてもそれらは固定してもいなければ、もちろん不滅でもないのである。そこに存在しているのは中心化と脱中心化というふたつの力の闘争の過程だけである。そして、おそらく究極的には「身体的実感」(アイステーシス)という形で各人がかろうじて保持しているものがそうした中心ならざる中心の支えとなっているのだ。
だが近代哲学が誕生した時、それは揺らぎ始めた中心に再び確実な位置を与えようとする切実な欲望に貫かれていたに違いない。そして、その時に基準となったのもやはりこうした身体的実感にほかならなかったのである。
2 身体的実感という支点
身体は不変ではない。それは歴史とともに変容してきた。というと、すぐに反論があるかもしれない。確かに、人間であるかぎり、人種的、個人的な偏差はごくわずかなものであり、物理的に考えられた人間の肉体は基本的にはほとんど同一であると思われるだろう。古代人から現代人まで、それどころではなくネアンデルタール人のような旧人でさえも、現在のぼくたちとほぼ同じ身体をもって、同じような身体感覚で世界を捉えていたと考えることができる。
だが、考えてみれば、このような「物理的な」身体という捉え方そのものが近代的な虚構なのである。実際には、頭からつま先までが身体とは限らない。たとえば、家族や家畜までを自分の身体の延長だと考えていた時代もあるし、また、事故などで手足を切断された人が、あるはずのない手や足に痛みを感じたり、それがまだあるように感じたりする現象(幻肢)があることからも、かならずしも物理的な肉体そのものが身体であるわけではないことは明白である。
また、ぼくたちの体内には多量の微生物が共生している。たとえば腸内微生物の働きを抜きにして身体の有機的統一性を語ることなどできないのだ。身体とはこうした微生物の海にほかならない。したがって、それは単なる自動機械ではなく、環境や外部と分かちがたく結びついて変形を繰り返す流体力学的な場所なのである。知覚のあり方も歴史や文化とともに変わることはよく知られている。たとえば、ぼくたちは写真や映画などの映像を世界の忠実な再現と考えているが、人類学は、写真や映画を現実と同定することができない多くの人々の存在を伝えている。このような人々にとって世界は、写真や映画とは似ても似つかないようなものとして実感されているのである。
さらにスピードに関する感覚も大きく変わっているし、それと同時に時間感覚も変化している。高速の乗り物に乗っているときの身体実感や、都市の重層的で複数の時間感覚、それに伴う距離感の変化などは、還元不能な身体感覚の変化と言えるだろう。今後さらにテクノロジーの発展につれて、感覚そのものが微分され電子的に変容される時代がくるかもしれないのである。
とするなら、身体及び身体感覚は時代や文化と共に変わると言ってもそれほど不自然なことではないだろう。そして、世界観や宇宙観の違いや変化とは、結局のところこのような身体感覚の違いや変化なのだ。異なる身体感覚があるだけ、異なる世界がある。こうした身体感覚はまた、個人の学習や思考によっても変化することがあるだろう。身体感覚の数だけ、異なる宇宙があるのだ。このように考えるなら、ぼくたちの直面している大変容はまさしく身体感覚の変化、そして宇宙の変化にほかならないのである。
さて、それではそのような身体の変容とはどのようなものなのか。まずは近代の世界観において「身体」がどのように捉えられてきたのかを簡単に見てみることにしよう。
デカルト以来、心身はふたつの異なる実体と考えられるようになった。言い換えれば、「身体実感」が疑わしいものとして「精神」から分離され、対象化されるようになったのである。身体とは、延長をその本質とする物質的実体であり、機械論的因果関係に支配されている。人間の精神と松果腺で媒介されているとされる身体は、精神に感覚データを与えるが、このデータは必ずしも対象の本性を含んでいるとはかぎらない。近代哲学とは、この身体感覚に対する懐疑や批判から始まっているわけだが、それはこの身体実感の相対性を自覚し、それを超えた普遍的な認識を獲得しようという動機に支えられていた。
但し、身体実感の相対性とは言っても、それが超えられるべきものとして措定されている限り、それは相変わらずすべての出発点として考えられていることも確かである。つまり、初めに身体実感による知識があって、その誤りが後から精神の働�ォによって取り除かれる。ソクラテス以来の哲学は基本的には常にこのようなプログラムに従っていた。だが、宗教改革を経て自明な中心を見失った近代哲学にとって重要なことは、すべての既成の知を疑い、その根幹である知覚と身体をもう一度徹底的に洗いなおすことだったのだ。そして、そこで身体は一種の精巧な自動機械と考えられることになったのである。
デカルトは「哲学原理」の中で次のように書いている。
「しかも精神は幼年期には、身体に融合していたので、多くのものを明晰にではあっても判明には知覚しなかった。にも拘らず、当時も多くのことについて判断を下していたので、ここから多くの偏見が生じ、大多数の人々においては、後に至っても取り除かれていないのである」。(1)
したがって、純粋な精神の働きによって克服されるべき、このような低次の認識があるわけであり、まずそうした枠組みが存在することが前提とされているわけだ。そうした低次の認識の中には世界の本性は含まれてはいるのだが、同時にきわめて過ちやすいものでもあり、理性によって吟味され真の知に高められなくてはならないのである。
スピノザは、こうした認識のあり方を三つの段階に分けている。すなわち、第一にかれが「漠然たる経験による認識」と呼ぶ感覚を通した認識。第二に、記号や言葉による認識(この二つは「意見」(オピニオ)、あるいは「表象」(イマギナティオ)と呼ばれる)、つぎに「理性」(ラティオ)と呼ばれる事物の特質についての共通観念による認識、最後に直感知と呼ばれる認識がある。先のふたつが誤謬の原因となるのに対して、後の二つの認識は必然的に真であるとされる。だが、いずれにしても後の真なる認識も、前の感覚による認識の克服の上にしか成り立ちえないのであり、身体の変状(アフェクティオ=刺激状態)が認識の前提となっているのである。「人間精神とは人間身体の観念あるいは認識にほかならない」(『エチカ』第二部定理13)のだ。(2)
実際のところスピノザは、身体を通して外部の物体から与えられる刺激をつねにきわめて具体的に記述している。たとえば、「人間身体の流動的な部分が柔らかい部分にしばしば衝き当たるように外部の物体から決定されると、軟かい部分の表面は変化する。この結果として、流動的な部分は、軟かい部分の表面から、以前とは異なる仕方で弾ねかえることになる」(第二部定理17の証明)、といった具合である。近代哲学はこのように「身体」を精神と世界の間に固定されたデータ入力装置として位置づける。この場合の身体=機械のイメージが時計に代表されるような、歯車やネジによって構成されたアナログ自動機械であったことは言うまでもない。こうした身体機械を通して、精神は初めて世界と向かい合うことができるのだ。
こうして、「世界―身体―精神」という固定した三項関係が生まれた。といっても、ここで重要なのは最終的には「世界―精神」という向かい合った二項であって、身体は単なる機械的媒介の位置に貶められている。媒介はその役割を十全に果たしたら、ただちに無化され忘却されるのだ。あるいは、それはこの二項のいずれかのうちに吸収される運命をたどるのである。一七世紀以降の哲学におけるこうした構図を完成させたのは、イマヌエル・カントであり、以後の哲学は観念論と唯物論という二極に分かれて進んで行くことになる。今世紀になってメルロー・ポンティの知覚の現象学が現れるまで、哲学においては常に媒介する第三項としての身体は世界と精神との純粋な向かい合いの内にほとんど忘却されていたのである。
3 精神と自己の外在化
一般に物心二元論といわれるこうした構図の中で、重要なのは固定された身体という媒介を通してはじめて精神と世界の二項が分節されるということである。つまり、身体による世界の体験という出発点は原則として不動でなければならない。また、それが不動であってくれないと、この構図自体がきわめて不安定なものとなってしまう。そうなれば、世界と精神が共に流出し、境界を失い、認識の可能性そのものが溶け出して行ってしまうだろう。
そして、二〇世紀の知に生じたのは、まさしくこうした危機だったのである。二〇世紀は一九〇五年に発表されたアインシュタインの特殊相対性理論と共に始まる。それはニュートン的時間と共にカント的時空概念を根本から覆した。とりわけ、重要なのはそれが同時性に対して「ずれ」を、同一性に対して「差異」を提起したことである。
アインシュタインは、一般に出来事の同時性と言われてきた概念に疑念を表明した。すなわち、ある出来事の時間と言われてきたものすべては、実は問題にしている出来事と、たとえば時計の針がある一定の位置に存在するという出来事が同時に起こったということを述べているのであるが、ここには不確実な概念が含まれているのだ。というのは、その二つの出来事は正確に同時には観察することができず、実際にはそこには常に「ずれ」が生じているからである。もちろん、通常こうした「ずれ」は、光の速度が非常に大きく、また問題になる距離がとても小さいので、ほとんど問題にならないような「ずれ」である。だが、たとえば違う惑星上での出来事の同時性といったようなことを考えてみると、この「ずれ」はきわめて大きなものとなるであろう。つまり、真の同時性などは存在しないのである。それが存在するように見えるのは、そこである準拠枠が仮構されているからにすぎないのだ。こうした準拠枠は、ふたつの出来事を観察する観察者の視点と重なることになる。言い換えれば、出来事の同時性とその同一性を保証するものはこうした視点以外にないのだ。これは、物理学の世界では一部ではアインシュタインの相対性原理が、また一部では、原子以下のレベルでは粒子の速度と位置とを同時に正確に求めることは原理的に不可能であることを証明し、客観的実在そのものの不確定性を提起した、ハイゼンベルクの不確定性原理が意味していたことでもある。
同じことが、哲学や他の人文社会科学の領域においても起こっている。すなわち、哲学においては通常、言語学的転回(The Linguistic Turn )と呼ばれている、「精神」から「言語」への力点の大規模な移行が起こった。言うまでもなく、二〇世紀の知の特徴のひとつは外在化した精神としての言語への注目ということでまとめられるだろう。とりわけ、ソシュールは言語を「差異の体系」として捉え、ぼくたちの思考を可能にしているのがこうした恣意的な差異のシステムであることを明らかにした。それは、ロシア・フォルマリスム、チェコ構造主義を経てパリ構造主義へとつながる巨大な構造論の潮流を形成し、また人類学や社会学にも大きな影響を与えることになった。ここでは、いわば「物質的実在」の同一性の解体と並行する形で「精神」の同一性の解体が生じたわけである。
こうした「差異」ないしは「ずれ」への注目が、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論やジャック・デリダのグラマトロジーにおける「差―延」の概念やエクリチュールの概念を可能にしたことは言うまでもない。それは、長い間「精神」や「自己」と呼ばれてきたものが、けっして純粋に内的なものなどではなく、それどころか反対に徹底して外的なもの、外在的なものとしての言語や記号システムによって支えられているということを意味しているのである。
近代哲学は、身体というインターフェースを通して外部の世界をすべて内的な精神の中に透明に、かつ無矛盾的に取り入れることを目指していた。だが、そうした夢はここで原理的に解体されるのである。なぜなら、そのような身体の同一性の装いの下には過剰な差異としての「外部」が渦巻いているからだ。
外部性、他者性の出現ということに関して言えば、銀河系外宇宙の存在証明や拡散膨張宇宙の証明、ビッグ・バン仮説、ブラックホールなどに関する宇宙物理学上の発見、あるいは生体の恒常性や、免疫の仕組み、ホルモンや酵素の働きの解明などにおける生物学の進歩、さらにはフロイトの精神分析学なども挙げることができるだろう。これらはすべて、もっとも内密なものと信じられてきたものの中にある「ずれ」や「他者性」の発見であった。また、精神の外在化の過程は別の章で述べているように、一九世紀の市民社会における複製メディアやマスメディアの出現の中にも先取りされていたことも忘れてはならない。実体的な思考から社会的関係の網の目に視点を移す思考へということなら、マルクスやニーチェの思想がはたした役割も見逃すことはできないだろう。個々の例を挙げだしたらきりがない。要するに、ひとつの遠近法の全体が約一世紀の間に根本から覆されたのだ。あるいは、それはひとつの変容あるいは断層というよりも、ある複合的な流れの底に隠されてきた別の流れが浮かび上がってきたと言うことができるかもしれない。
一人だけ特別な、そしてきわめて重要な例を挙げよう。それは一九二〇年代におけるミハイル・バフチンの一連の仕事である。
4 バフチンと視覚の余剰
バフチンの名前は、ラブレーやドストエフスキーに関する特異な研究や、メドヴェジェフやヴォローシノフといった実在の人物の名を借りた反フォルマリスム的文学論、フロイト研究、言語哲学などで知られている。しかしながら、一般にはトゥイニャーノフのような先鋭的なフォルマリストから、ムカジョフスキーのような社会性を組み込んだ機能的構造主義者、あるいはタルトゥ記号論グループなどへの橋渡し役を果たした文学理論家あるいは、文学史家としてのみ扱われることが多い。だが、その活動の実体は、トドロフやホルクイストなどが明らかにしているように、独特の哲学的人間学といったより大きな領域に関わる巨大なものであった。その仕事の全体は、まさ�オくぼくが目指している「宇宙論」的な広がりをもっていたのである。
バフチンは「他者性」ということを、つねにその思考の土台にしていた。そして、「ずれ」や「自己―他者」の関係をあらゆる生命の基盤にあるものと考え、その絶えざる動的な交流としての「対話」(ディアローグ)という概念を提起したのである。かれにとって「対話」とは、異質なものが出会い、反発し、応答し、火花を散らし、相互に変化を与え合うような過程そのものであって、けっして何かしらの「合意」のための手段であるとか、高次の統一において止揚されるようなものではない。異言語混交と対話は、ヒドラから人間まで、あらゆる生物の生の根本事実であり、細胞の複雑な相互作用や電気化学的刺激、ホルモンや神経伝達物質の流出などのレベルから、人間の意識やコミュニケーションのレベルまでを貫く原理なのである。
そして、かれはこうした他者性の概念を、視覚の――ということは、いいかえれば身体的知覚の――「余剰」という認識によって基礎づけている。ホルクイストによれば、それはかれが二〇年代初期に準備していた幻の著書『責任の構築学』の中心をなすテーマでもあった。
「視覚の余剰」とは、次のようなことである。すなわち、ぼくたちは誰でも「自分の」視点からしか世界を見ることができない。たとえば、数人がひとつの部屋に居る時のことを考えても、私にはあなたにはけっして見えない、あなたの背後の景色を眺めることができるが、逆に自分の背後の景色を見ることはできないだろう。つまり、私の見ているものは常に私の居る位置に支配されているのであり、その位置が観察される世界の意味を決定するのである。
ホルクイストは次のように書いている。
「バフチーンの感覚の現象学においてもっとも重要なのは、私に見える物であって、位置法則によって私の視覚から奪われている物ではない。私が存在において占めている唯一無二の場所からみれば、私だけに見える物しか存在しない。私だけが知覚している世界の際立った断面は『視覚の余剰』であり、ここでは余剰は、もっぱら私によって形づくられた世界に対する他者の欠如と相関して決まってくる。自己の構築におけるこの土台はすべての人びとが共有する条件だが、特定の人においては経験として唯一無二である。その結果、私たちはみんな唯一無二の本性を共有しているという逆説が生まれる。」(3)
視覚はしたがって常に不完全で部分的である。そのことが、つまり自己以外のシステムによって「自己」をモデル化することができないという意味で、それをシステムの「余剰」=特異点とするのだ。したがって自己はいかなるカテゴリーにも属さず、それゆえそれ自体は「空虚」な特異点にすぎない。しかしながら、、意識とは自己自身を定位する過程のことである。いかなる方法によってそれを定位するのか。その答は、他の自己、すなわち他者の中にあるのである。
「私には私自身の自己は見えないから、私はそれを他者の眼の中に知覚しなければならない。他者の諸価値を通じて世界を屈折させ、それによって概念的に私自身を見るという過程はごく幼い時から始まる。……意識は世界を視覚化することによって世界を知るが、いわば自己の視覚あるいは他者の視覚によってしかそれを見ることができない。これらの道具の一つ一つが、まったくさまざまに異なった方法で知覚されるものを屈折させる。視覚の生理学において右眼と左眼がするように。私の眼の前にあるものを理解しようとする私の企てにおいて、私はどちらか一方のレンズから屈折された諸価値によって世界を形づくるのである。」(4)
左眼による知覚と右眼による知覚は、いずれも微妙にずれを含んでいる。「自己」とは、そのどちらかに一方的に属しているわけではない。そうではなくて、そのどちらにとっても「他者」である、もう一つの視線との対話的過程そのものが自己の視線を形成するのだ。だが、いずれにしても、それは固定したものではない。そうではなく、ずれをはらんだ複数の視線の狭間に生成されるものが自己なのである。バフチンのフロイト論では、したがって「無意識」もまた「他者の言説」として捉えられることになる。自己自体が複数の「公的言語」と「私的言語」の他者性に基づいているのである。
こうして見てくると、アインシュタインからバフチンまで、今世紀の思想にはきわめて共通したひとつの流れが隠されていることがわかるだろう。すなわち、視点の問題がそのひとつであり、もっと広い言い方をすれば「身体の構え」とでも呼ぶことができるものが、世界の意味づけに根底から関わっているということである。そして、この身体の構えそのものである「自己」は一種の特異な余剰点であり、いかなるシステムに還元することもできない。なぜなら、それはシステムの破れそのものでありながら、システムの存立を可能ににするような一点であるからである。第二に、それは「他者性」という「外部との交通=コミュニケーション」に関わっている。「構え」とは複数の異質な「位置」同士の「ずれ」によって対話的に「生成」されるものであって、けっして超越論的なものではない。それは、たとえばメルロー・ポンティが語っているような、自分の右手で左手を触る時に、その両方が触る主体でもあり触られる対象でもあるという知覚のずれから自己が生成されてくるという過程である。「構え」とは、したがって他者性の中でのみ構成されるものであり、また、ある「構え」=視点を選び取るということは、同時に他の視点を隠蔽することにほかならない。絶対的なひとつの視点は存在せず、外部との交流によって生成される多様な視点が存在するだけである。だが、同時にそれぞれの視点は常に特異なものなのだ。
言い換えれば、視点は世界の差異の直中で生起するが、それ自体は多様性の積極的な隠蔽として選びとられる部分的なものにほかならない。獲得される知がつねに個人的なイントネーションやアクセントや創造性や価値に浸透されているのはそのためである。後にマイクル・ポランニーが明らかにしているように、システム化されたいわゆる「客観的な」知とは、身体化された前言語的な暗黙知に支えられているのであり、それは世界への積極的な身体的「潜入」なしにはありえない。そして、それは多様性からひとつの視点を積極的に選択することであり――ということは、積極的に他の視点を隠蔽することでもあり――そのことによって部分から全体という無限の層を組み立てていくことなのである。知識とは、客観的に同定できるシステムではありえず、このような個人的な「構え」によってのみ支えられているのである。
こうした、認識の基本的な核のようなものは、もちろん、けっして一義的に理解されたわけではない。むしろ、それはお互いに矛盾するような形でいろいろな思想や世界観に分岐していった。たとえばそれは現象学から実存主義への流れに見られるように、主体性の哲学に向かったり、あるいは反対に超越論的主体を徹底的に排除した構造主義的な思潮へとつながりもした。だが、大勢としてそれは求心性よりも遠心性の方により傾いて進行したと言うことができるだろう。つまり、普遍的な視点は存在せず、それは常に外部との対話的交流によって生成される仮構であると考えられるようになったのである。
こうした傾向を決定的なものとしたのが、今世紀におけるテクノロジーの進展であった。一九世紀の光学的、音響的複製メディアや、今世紀前半の電波メディアが既に準備していた「精神の外在化」という潜在的な力は、四〇年代のコンピュータの発明、及びサイバネティクス的自然観の誕生によって決定づけられ、また同じ頃急速に進歩し始めた分子生物学や脳科学によっても強化されることになる。
「情報革命」とは、したがって、今世紀の言語学やテクスト理論、哲学、物理学、文化理論などと連動した、巨大な変容の中に位置づけられるのだ。その意味で、デリダやフーコーとコンピュータ理論とは連続している。もはや、「人文」科学と「自然」科学の断絶などという時代遅れのストーリーは、その根底から意味を失いつつあると言えるだろう。
5 情報論的世界
農業化、工業化という文明論的なふたつの「波」を乗り越えて進んできた人類は、いまや情報社会化というより巨大な「第三の波」を迎えつつあるというのは、アーウィン・トフラーの有名な『第三の波』の冒頭部の時代区分であった。
筑波大学の三田村�右は、それを受けて人間のイメージによる情報処理のラフな時代区分を試みている。(5)
それによると、第一の波はBC八世紀頃から一七世紀までの農耕社会におけるイメージの組織化であり、マンダラや宇宙樹といった宗教的宇宙像に対応した図像に代表される。ここでは、光は仏像や聖人画の光背に代表される「慈光」であり、影は存在しない。
第二の波は一七世紀から今世紀の半ばまでであり、この時代には宗教革命、産業革命、市民革命と大きな変革が続いて起こると共に宇宙観も天地が逆転し、視覚像もそれに見合った太陽中心の透視法、投影法に則った統一が行われた。しかし、それも様々な主義、主張の対立が生まれ、ものの見方の抗争が起こるようになった。ここでの第三の波は、拡散膨張宇宙論による中心の喪失である。テクノロジーの急速な発展が情報社会化を進行させ、非物質的なメディア環境を作り出している。ここではイメージは主義やイデオロギーから遊離した、テレビに代表される人工光によって作られる。イメージは情報処理のシミュレーションとなる。
もちろん、このような図式があまりに大ざっぱすぎることは確かである。ただ、前章で示したように、今世紀における新しい宇宙像の出現や、生物学や脳科学における進歩が、世界や身体のイメージを根底から変えつつあるということをここからも見て取ることができるだろう。それは当然、社会の共同幻想や制度や文化にも大きな影響を与えつつある。
ウィーナーが提唱したサイバネティクスは、自然のあらゆる現象を通信工学の用語で記述可能であると考えた。コンピュータは、あらゆる情報をバイナリー・データに置き換え、その制御や編集を行う環境を作りだした。重要なことは、コンピュータが、これまでの機械のように人間の筋肉や身体器官の能力を外に拡大する技術ではなく、脳や神経が行っている情報の制御や処理を外に拡大する全く新しいタイプの技術であったということである。
初期においては、巨大な空間を占拠しながらも、要するに単なる計算や数式処理の道具に過ぎなかったコンピュータ=計算機は、短期間の間に小型化し、パソコンという形で、社会のあらゆる場所に侵入し、その上、それは言語処理や図形、イメージ、音響などあらゆる種類の情報を処理できるようになってきた。それは本質的にいわゆるマルチメディア化の方向性をもっており、ハイヴィジョン、電話、出版、音楽、通信などのさまざまな要素をむすびつける環境を作り出していくことになるだろう。身体とのインターフェースも現在のキーボードやマウスといった原始的で不自然なものから、もっと身体に密着した音声や脳波そのものによる制御といったものに変わっていくかもしれない。いずれにしても、そこではぼくたちの「身体の構え」が大きく変化していくに違いないだ。
とりわけ、注目したいのは、ぼくたちの世界認識を感覚器官が受け取るデータに還元して、その感覚データを制御あるいはシミュレートしようというような、いわゆるインナー・テクノロジーの技術である。すなわち、身体を世界と中央情報処理センターである脳とをつなぐインターフェースと考え、その部分を人工的に制御しようというような発想の下に進められている技術のことだ。
こうした技術においてはその根底にコンピュータ科学や脳科学がもたらした新しい宇宙の把握が隠されている。たとえばそれは、
知覚=データのインプット
身体=インターフェース
記憶=メモリーチップにおける帯電
精神=脳の情報処理過程
意識=大脳前頭葉におけるフィードバック機構
といった簡単な等式で書き表されるだろう。このような読み替えは、それが単なるメタファーとして使われているのかもしれないが、それにしてもぼくたちの過去の宇宙観や身体観に決定的な打撃を与えざるをえないようなものである。
SFの世界では、こうした空想は比較的早くから現れていた。たとえば、生ける脳髄を描いた古典的SF、ベリャーエフの『ドウエル教授の首』の発想を更に推し進めた、スタニスラフ・レムの『泰平ヨンの回想記』の第一話のような物語がある。この中でレムは、人工的に作られた人間のシミュレーションを描いている。すなわち、それは鉄の箱に入れられた「脳と全く同じ機能をもつ」コンピュータに、数千億のデータをつないだ装置である。その間には人間の感覚受容器とパラレルな機能をもつインターフェースが埋め込まれており、そのためそれらの鉄の箱は自分達を人間だと思いこんでいる。あるものは学者、あるものは恋に悩む一七歳の乙女であり、それらの鉄の箱の中には狂人もいる。発明者のコルコラン教授はこのシステムを次のように説明する。
「実に簡単なことだ。われわれがつまり、ほかでもないこういう体を、こういう顔をしているということをどこから知るだろう? 立っていること、手に本をもっていること、花に香りがあること、いったいどうやって知るかだ? 一定の刺激が感覚器官に作用し、神経を伝わってしかるべき信号が脳に送られるからだと、おたくは答えるはずだ。……わたしが、おたくの神経全体にそれとおなじことをやったら、おたくが感じとるのは外界じゃなくて、わたしがその神経を通しておたくの脳にプログラムしたものだということになる……おわかりかな?」(6)
つまり、それらのケーブルでデータ・ボックスと繋がれた鉄の箱は、ぼくたちと全く同じだと言っているのだ。
ところで、このような試みはSFの中だけではなく現実に行われてもいるのだ。といっても既に実用化されて久しい飛行機のシミュレーション操縦器や自転車で町を走るシミュレーションのようなものは別にしての話である。
たとえばNASA(米航空宇宙局)が開発している仮想現実(Virtual Reality )システムがある。これは、コンピュータが作りだした虚構の世界をあたかも現実であるかのように人間の身体に提示するシステムのことだ。ここでは、オペレータは両目を覆うヘルメット搭載型のディスプレー装置を被り、データグローブと呼ばれる光ファイバー・センサーを用いた装置でコンピュータと接続される。また全身の運動を計測するボディスーツも開発されており、これによってコンピュータが作り出す空間の中でテニスをしたり、走ったりすることができるのである。
似たようなシステムは通産省機械技術研究所でも進められており、テレイグジスタンス・システム(遠隔―存在システム!)と呼ばれている。ここでは、人間の身体の動きを伝えるマスターロボットを動かすことで、遠くにあるスレーブロボットをその通りに動かすことができる。将来的には、遠方に置かれたターミナルとしてのスレーブロボットを通して、人はいながらにして、それぞれの場所で見たり、聞いたり、触ったり、話したりすることができるようになるわけだ。こうしたテレイグジスタンスにさまざまな人工現実感の技術を組み合わせることによって、ぼくたちの身体はまさしくデータ空間の中に溶けこむことになるだろう。同時に二つ以上の空間を占め、小さくなったり大きくなったり、人間以上の能力をもったりすることで、多様な身体的能力をもつことができるだろうし、それどころか時間の矢を乗り越えることができる。つまり過去の体験や、他人の知覚データを自分の身体のように感じることもできるのだ。(7)
ダグラス・トランブルの映画『ブレインストーム』は、脳波に直接知覚データを送り込むことのできる仮想現実システムを描いたSF映画であったが、身体を情報入出力装置と考え、脳をCPUと考えるような空想は、もはや空想から現実に変わりつつあると言えるだろう。
ここで、ぼくたちが置かれている状態をもう一度考え直してみなくてはならない。復習してみよう。今世紀の様々な知的営みの中に共通している流れとは、ひとつには「外部」との対話的交流への注目であり、もうひとつは知は必ず独自の「身体的構え」によって獲得されるということだった。だが、右のようなテクノロジーの状況は、この「身体の構え」を増殖させ、それ自体を編集の対象に変えてしまおうとしているのである。コンピュータ科学はこうしてテクノロジーの位相を、単に身体の外在化ばかりではなく、精神=身体の構え=視点そのものを外在化し、拡張し、編集の対象にしようとしているのだ。情報革命とは、したがって、ただ単に「人間」の編集能力の拡大であるわけではない。そうではなく、それは情報としての宇宙の無際限の増殖を意味しているのである。
問題は技術の進歩を称えることでもなければ、こうしたテクノロジーを「人間性」に離反する「悪魔の技術」として攻撃することでもあるまい。そうではなく、これらの事実が否応なく明示しているひとつの宇宙像・自然像の変化を受け入れることではないだろうか?
それは「物質―精神」、あるいは「ミクロコスモス―マクロコスモス」の対立といった過去の二元論的な図式を破棄して、いわば「情報」の一元論という新しい(あるいは古代的な?)立場を選択することである。すべての現象はさまざまなレベルにおける「情報のデザイン」、あるいは「編集」として捉えなおされる必要があるだろう。ここでの「情報」とは、もちろんシャノンの情報の定義や、ウィーナーのサイバネティクスにおけるそれのような狭い概念ではない。そうではなく、あらゆる物質やあらゆる現象が、そのデザインとして語られるような存在の基底的な概念として考えられるだろう。それは実体ではなく、いわば物質以前の乱流から生まれる純粋なエネルギー粒子とでも考えてほしい。それでは「デザイン」や編集をする「主体」とは誰か? また「主体」と「編集」との関係はどのようなものなのだろうか? こうした問いは恐らく倒立している。なぜなら、「デザイン」や「編集」が作り出すものこそがそうした「主体」なのだ。
これは、けっして特異な発想であるとは思えない。たとえば「物質の科学から情報の科学への移行」を唱えている清水博、「トポス」や「リズム」概念の再評価を唱える中村雄二郎、「生命のリズムの共振動」や「シンクロニシティ」への注目を語る栗本慎一郎など、多くの人々が密かに気づいているのはまさしくこのような一元的な情報の宇宙の現前なのである。第三の波はそこまで来ているのだ。
注意すべきなのは、これがけっして人工的なテクノロジーの領域にのみ関わる思考ではないということだ。そうではなく、こうした視点によって生命や自然、エコロジカルなシステムや進化の過程、芸術や文化の捉え直しが行われなくてはならない。物質と精神という二分法から離れることによって、数十億年にわたる生命の進化の過程や、数十万年にわたる人類の知的営みも、全く別の視点から理解されるようになるだろう。
それでは、そのような別の遠近法はどこに見いだすことができるのだろうか?その一つのヒントは現在AI(Artificial Intelligence=人工知能)という名の下に進められている議論の中に隠されているように思われる。
6 フレームと知識
西垣通はAIに関する途方もない書物とも言うべき『秘術としてのAI思考』の中で、AIを単なる新しい技術として捉えるのではなく、古代以来の人間の記憶術や概念操作――要するに情報の編集――の歴史における新しい段階とみなしながら、人間とAIとをつなぐ巨大な「汎記憶空間」という概念を提唱している。
「幾重にも入れ子構造になった記憶は、まるで胞子のようなエネルギーを秘めている。つまりそれは、いつか一人の人間の頭脳の中で喚起、編集され、一回性をもつ華やかな〈意味〉を開花させるポテンシャルをもつのである。その瞬間のために、記憶は〈形式的な処理・貯蔵〉の長い冬を耐えるわけだ。/ところで、本章の初めで、『世界(像)は究極的には個々人の頭脳に別々に宿る』と述べた。だがこのことは『個人を超えた〈記憶蓄積=情報交換〉の場』という視座と相いれないものではない。右に述べたように、ある巨大な記憶空間が存在し、たくさんの人間や人工知能コンピュータ群がそのなかに包摂されていると考えることもできるのである。つまり我々という個体は、記憶空間を変容させるための〈情報プロセッサ=エージェント〉にすぎないという見方もできないわけではないのである。……仮に、右のような空間を〈汎記憶空間〉とよんでおこう。」(8)
この「汎記憶空間」という発想は、単に人間とコンピュータとの複合システムを意味しているばかりではない。ぼくたちの遺伝情報や暗黙の身体知、無意識の記憶など、ぼくたちの意識にとって未知の部分をも含んだ包括的な記憶の大海が「汎記憶空間」なのである。ぼくたちはこうした情報の巨大な空間の中に生きている。とりわけ「記憶=情報の胞子」というイメージは面白い。細胞のレベルから意識のレベルまで、様々な層においてこのような無数の情報の胞子が飛び交っているのだ。生命とは、まさしくこのような微細で無際限な情報の胞子の「編集」として考えられるのではないだろうか。
ここで考えてみたいのは人工知能や認知科学で「フレーム問題」という名で呼ばれている問題である。フレーム(枠組み)問題とは、ある問題を解こうと、行動を起こそうと思ったときにどの範囲の事実を考慮に入れればいいかという問題である。レストランで食事をするとか、電車に乗るとかいう「場面」は、各々フレームを形作る。人工知能にこうした問題を解かせようと思ったら、こうしたフレームを与えなくてはならない。ところが、実際の状況はきわめて多様な可能性に満ちており、いったいどれがその問題解決に関わるのか関わらないのかを形式的に決めることはきわめて難しい。人間はあらゆる状況に適応してこの問題を難なく解いているように見えるが、機械にそれをさせることは事実上不可能に近い。 こうしたことは、AIの研究に立ちふさがる巨大な壁として考えられてきた。たとえば、自動翻訳などのシステムを考えてみても、形式化できる一定の構文の範囲ならば充分実用的なシステムが組めるのだが、隠喩や詩的表現などを含む「自然言語」の全体を処理できるプログラムは対象となる範囲が余りに巨大すぎてできない。つまり、人間ならばあらゆる状況に柔軟に対応できるのだが、コンピュータに同じことをさせようとするなら、無限の状況や文脈に対応できる巨大なフレームか、あるいは柔軟なフレームの切り替え装置などを作ってやらなくてはならないということである。
しかしながら、ここには大きな問題の取り違えがあるように思われる。なぜなら、右の例で言うならコンピュータが到達すべき「自然言語」というのは全くの虚構だからだ。そのような単一の言語システムなどというものは存在しない。したがって、当然そうした単一言語システムの形式化処理もありえない。そもそも、人間があらゆる言語表現を「理解できる」とか、あらゆる状況に柔軟に対処できるということ自体に嘘が含まれているのだ。
ぼくたちは他人の発話をすべて理解しているのではない。ましてや客観的に形式化できるように理解しているわけでもない。理解するということが知識を「自己」と関係づけることであるとすれば、それらを理解するとは、「理解したと思う」ことに他ならないが、その仕方は個人によって全く違っている。たとえば、あなたは今この文章を読んでいる。だが、あなたが「理解する」ものは、ぼくが意図したものとは異なっているし、そこには常に「誤解」が含まれている。とするならば、人間がフレーム問題を解決しているというのは、ただ単に人間においてはただ「そう見える」というだけのことではないのか? すなわち、すべての状況に柔軟に対応しているのではなくて、いかにも対応しているように見えるだけなのではないだろうか?
AI研究者の橋田浩一は、このような問題を「情報の部分性」という概念で説明している(9)。橋田によれば、AIとは不確実性を扱うものである。なぜならAIの扱う対象については必要な情報が常に部分的であるからだ。世界についての情報は巨大ですべての制約や情報を処理することは不可能である。最初から限られた情報の中で問題を解いていかなくてはならないのが、もともと人間が与えられている位置であり、AIの位置でもある。
それではなぜ人間はいかにもフレーム問題を解いているように見えるのか? それは彼がこの情報の部分性を自己に結び付ける時に、それがいかにも全体的知識であるかのように思いこむ仕掛があるからなのだ。それは何かといえば、価値の観念や自由意志の観念だ、と橋田は言う。すなわち善悪や愛や美や正義、宗教などの価値のヒエラルキーは、この人間のもつ情報の部分性から発明されたのである。この情報の部分性という概念は、前に論じた「身体の構え」(視覚の余剰)という概念と重なる部分が多いことはすぐに見て取れるだろう。AI研究の文脈では、たとえばウィノグラードなどはハイデガーの「盲目性」という似たような概念に言及している(10)。言うまでもなく、ここで言われているのは「解釈学的循環」と呼ばれてきた問題と同じであり、ハイデガーの『存在と時間』もまた、前章で示したような今世紀の巨大な思潮に属しているのである。ぼくたちの知識は「世界―内―存在」として行動の状況に投げ込まれた投企的、了解的な体験であって、それは対象のシステムにはけっして解消されることはないのである。
こうして考えてみると現在AI研究や認知科学で議論されている問題が実は、哲学や芸術の文脈で論じられてきた問題と同じものであることがわかるだろう。ただ、異なっているのは、それが「実際に」プログラミングの対象として論じられているということである。先に言ったように情報の編集を容易にするコンピュータ技術の出現は、引き返すことのできない、決定的な切断をもたらしている。なぜならそれは、この特異な「身体の構え」である自己そのものをシミュレートし、コントロールしようとしているからである。
ここから見ると、AIの実現可能性そのものに関する議論は意味を失うだろう。あるいは失わないにしても、その意義は今までとは異なるものになるだろう。なぜなら、情報の部分性という事実を受け入れるならば、既にぼくたち自身がレディメイドのAIと考えることができるからである。むしろ、そもそもの初めからレディメイドのAIだからこそ、ぼくたちは別な自己を作り上げることができるし、他者との対話的関係をもつことができると考えるべきなのだ。そして、今やその特異点の形成のメカニズムが、そして、その他者との関係そのものがまさしく技術の対象になっているのだ。これが現在の状況なのである。
7 情報の銀河系へ
さて、この章においてぼくは、身体的実感とそれに基づく知識の獲得という基本的な状況が、文明の各段階を経て変容し、脱中心化していく過程をたどってきた。とりわけ、重要なのは近代における知の脱身体化=システム化=客観化であり、それは身体の外在化=疎外をもたらし、その結果として、精神的過程そのものを制御する新しいテクノロジーの出現を準備したのであった。だが、常にそうであるように、こうした情報のテクノロジーも全く社会と無関係に存在していたわけではない。一九世紀における社会的関係への注目や、実体的世界観から関係的世界観への変貌、意味を作り出す場としてのコミュニケーションへの注目、複製技術の出現、そしてとりわけ今世紀初頭の宇宙観の変化などの動きとそれは密接に関わっていた。
一九二〇年代頃、こうした動きはひとつの巨大な潮流へとまとまり始めている。この時代にバフチンやハイデガー、ウィトゲンシュタイン、ロシアやチェコの構造論的思考、ベンヤミン、ダダ、シュールレアリスム、カフカの文学、シェーンベルクの音楽、エイゼンシュタインの映画等々の様々な文化の隆起が起こったのは偶然ではない。それは同時に膨張宇宙論が登場し、ラジオが誕生し、ハイゼンベルクの不確定性原理が登場し、高柳健次郎のテレビ実験が成功し、また、ビタミンや抗生物質が発見された十年間でもあった。
ここから、ぼくたちは個人の閉域と宇宙の対立(ミクロコスモスVSマクロコスモス)というロマンティックな図式の外で生き始めるようになる。情報の宇宙とその編集性という新しい視界が生まれ、個人は情報の編集の結果として捉えられるようになったのだ。
とは言え、かつての情報科学やサイバネティクスがそうであったように、この銀河系はけっして、単なるシステマティックで閉じた情報の制御に関わる平板なものではありえない。それは「身体の構え」を伴う特異点としての自己を前提にしてしかなりたちえないものであり、言い換えれば、その都度の主体のポジティヴな関わりあいを抜きにしては語り得ぬものなのである。そして、それは「情報の部分性」を世界―内―存在としての自己に結び付ける、了解的行為の中でしか意味を持ち得ないのである。情報テクノロジーの真に脅威的で革新的な部分とは、こうした構造そのものをもその制御の対象としてしまったことであった。
とするならば、この状況を真に引き受けるとは、単に楽観的にテクノロジーやそれがもたらす「情報の一元的宇宙」を賛美することでもなければ、固定した「自己」の防衛と再構築に固執することでもあるまい。とりあえずは、ここで語られたような状況をそのまま現実として受け入れ、そこから新しい自己と世界との関係を模索していくしかないのである。
だが、いずれにしてもぼくたちはまだこの試みの出発点に位置しているにすぎない。次の章では、今世紀のもうひとつのターニングポイントとなった別の十年間の出来事を振り返ってみることにしよう。
〈註〉
(1) デカルト『哲学原理』(桂寿一訳)岩波文庫、六六ページ
(2) スピノザ『エチカ』(畠中尚志訳)岩波文庫
(3) M・ホルクイスト+K・クラーク『ミハイール・バフチーンの世界』(川端香男里・鈴木晶訳)せりか書房、九九ページ
(4) 前掲書、一〇一~一〇二ページ
(5) 三田村�右の日本記号学会第十回大会シンポジウムにおける発言より。
(6) S・レム『泰平ヨンの回想記』(深見弾訳)ハヤカワ文庫、一八~一九ページ
(7) 舘�「存在を伝送するシステム」、『科学朝日』一九九〇年六月号
(8) 西垣通『秘術としてのAI思考』筑摩書房、一三五ページ
(9) 橋田浩一「AIとは何でないか――情報の部分性について」、『パソコンを思想する』翔泳社。
(10)ウィノグラード、「コンピュータと知能」、『現代思想』一九八七年四月号。