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室井尚著『情報宇宙論』より

序章・情報の宇宙と身体の変容



 昆虫の変態というのは神秘的だ。もぞもぞと動いていた芋虫が突然思いもかけない姿のサナギに変わる。昆虫のサナギはまるでギーガーが描く宇宙船の部品か、それとも装甲ロボット、あるいは変な言い方だが生まれる前のミイラのように見えるが、いずれにしても幼虫の時には想像もつかなかった形態をしている。幼虫はその中で眠っていると同時にすさまじい勢いで変成しているのである。そのサナギを破って成虫になる時には彼の姿は更に一変している。サナギの期間に一体何が起こっているのか外から見ることはできない。だが、少なくとも言えるのは、これらの一連の変化は連続的な変化というよりも、根本的な何かが一挙にそこで変わったのだということだろう。あるレベルの存在が、別のレベルの存在にジャンプする。その時、すべての細胞が一斉にある一つの統合の力に導かれ、うごめき、炸裂し、別の存在に変わるのだ。
 たとえば蝉の幼虫が地中からはいだし、木の枝で羽化を始める様子を思い浮かべるがいい。幼虫の背中がピリリと割れ、中から白くてしわしわの蝉の成虫が出てくる。翅はくしゃくしゃになったラップのように萎れて背中にはりついたままである。ところが暫くじっとしていると、突然翅がピーンと張りつめてくる。まるで内側からエネルギーが一挙に漲るように、あるいは太陽と空気中のエネルギーがすべてそこに集中していくかのように、ある特定の瞬間になると何かが一気にはじけるのだ。
 このように、生命がある一定の段階に達した時、それまでの延長線上での成長や発展ではなく、全く異なる別のレベルの存在へと一気に跳躍することがある。芋虫が蝶になるように、全く新しい全体、全く異なる存在へと変わるのだ。芋虫のいかなる部分を寄せ集めてもそれは蝶の部分に当てはまらない。その無数の不格好な足は蝶の繊細な六本の足と全く別の原理で作られ、動いている。芋虫の環境世界と蝶の環境世界はおそらく全く違ったものに違いない。
 こんなことを可能にするものは一体何なのだろう? すべてが遺伝子によって決定されているのだろうか? だが、DNAに含まれる塩基の組み合わせはただ単にタンパク質の合成指令を意味しているにすぎないことが知られている。たとえ、すべてがあらかじめ未知の仕方でプログラムされているとしても、それが現実となるためには、たとえば「サナギ」という別のレベルに統合されなくてはならないし、外部の環境も整わなくてはならない。その時に初めて成虫になるという更に上の統合原理が生まれるのであってみれば、上位のレベルの統合原理はけっして下位の要素に還元されることはないように思える。この上のレベルへの統合と乗り越えという生命に特有の現象はいったいどのようなメカニズムによっているのであろうか。
 人間は自らの環境世界を変えながらその歴史を生きてきた。それはぼくたちが自らの内部に矛盾と過剰を抱え込んだ存在であるからである。だが、生命とは元々過剰なものなのかもしれない。自然や他の生命の流れに一見逆らって生きているように見えるぼくたち人間もまた、結局はその過剰な生命の乱流に漂っているだけであり、せいぜいそれを観測することができるだけの存在なのかもしれないのだ。ぼくたちの環境世界や世界像、それに対応する身体感覚などもその流れの変化にしたがってめまぐるしく変わっていく。
 現在ぼくたちの文明はサナギの段階にある。この比喩はただ単に、ぼくたちが羽化というより巨大な変化の時を迎えつつあるというばかりでなく、以前と全く異なる形態を既に取っているにもかかわらず、それは外側の鎧だけであり、内部では古い形態が別の形態に変成する過程の直中にあるというような意味も含まれている。
 今世紀になって人間は初めて共同体や民族・国家などといった社会システムの外部を意識して生きるようになった。同時に、ぼくたちの太陽系や銀河系の外の 宇宙や、その逆に目で見ることができない一〇のマイナス数十乗センチといったミクロな領域にも関心をもつようになってきている。近代的な統合原理や枠がどんどん無効なものとなり、ぼくたちの身体は新たな境界のない世界へとはみ出しつつあるのだ。したがって、そこではこれまでと全く異なる統合的思考の原理が求められることになるだろう。こんなことは人類の文明が生まれて以来初めてのことなのである。
 この本のテーマは「身体」と「情報の宇宙」である。言い換えれば、それは「情報の一元論」という立場から新しい宇宙像と身体性の構築を目指す試みとなるはずである。
 「情報の一元論」などというと、かなりいかがわしい感じをもたれる読者が多いかもしれない。実は書いているぼく自身も少しいかがわしいような気がしているのだ。また、本書の表題の「情報宇宙論」というのは、この情報の一元論という視点から語られる「コスモロジー」というような意味であるが、これまた相当にいかがわしい感じのする表題かもしれない。だが、これは少し控えめに言えば方法論的に取られた仮設の立場にほかならない。物質と力を中心とする世界像から、情報を中心とする世界像へ時代は変わりつつある。また、ぼくたちの身体実感もそれと共にどんどんと変化しつつある。こうした仮設の視点から語られる本書が本当にいかがわしいものであるかどうかは全体を通読していただいた読者のみなさんの判断に任せるしかあるまい。だが、一元論にしてもコスモロジーにしても体系性や一貫性を背負った言葉であるが、この本でぼくはむしろ断片的で分裂的な構成を取ることにした。なぜなら、このコスモロジーは単一で体系的に統合されたものではなくて、むしろ「星座」のように分散しつつ大きなまとまりをもつような、そうしたものでなくてはならないと感じていたからである。各章が独立しつつ、一見バラバラなようでありながら、全体としてひとつの統一されたヴィジョンが浮かび上がってくる……そんなふうにしてみたかったのだ。
 今世紀における人間の変化を象徴する一九二〇年代と一九六〇年代、「技術」の変貌、交通や流通のシステムの変容、メディア、サイバースペース、生命科学、コンピュータ理論、身体の哲学等々、本書の扱うテーマはさまざまであるが、いずれも生命の根源から思想や文化までを貫く「情報」と「コミュニケーション」の視点から眺められている。これらはすべて遺伝子や分子などのミクロのレベルから社会のマクロのレベルまでを貫く情報の自律的な交錯と交通の過程から見ることができるのである。
 ここで「情報の宇宙」とぼくが呼んでいるのは、物質とエネルギーを基盤にしそれらの間の情報のやり取りやその制御を問題にしようとするような狭義の「情報理論」とは無関係である。むしろ、ここでの「情報」はその最も広い意味で使われていると言っていい。つまりそれは、あらゆる物質や現象の背後に、そしてそれ以前に存在する揺れ動く「情報」の自己組織化と分散の、そして自己編集化の動きを見ようとする態度に由来するような宇宙像である。
 「情報の自己組織化」と言った。だが、自己組織化する宇宙と言うような「新しい」言い方にそれほどこだわっているわけではない。それは、たとえばギリシァ人がピュシスと呼んだものやナトゥラ・ナトゥランス(能産的自然)とか、生成の力というような概念が意味していたものと多分つながっているのだ。あるいはパルメニデスやグノーシス派、ネオプラトニストたちやブルーノが思惟していた宇宙とも、おそらくそれは連続性をもっている。
   と言っても、ここで新しい「客観的」で「普遍的」な宇宙像を提示しようというのではない。むしろ「客観的」で「物理的」な世界と「主観的」な世界という分裂を解消したいのだ。今世紀になって自然科学は自らの存在基盤そのものをも揺るがすようなさまざまな発見を提示した。たとえば、一九二〇年代における銀河系外宇宙の存在証明や、ビックバンに始まる拡散膨張宇宙の発見などがそのひとつである。だが、それらの「客観的宇宙像」は、けっしてぼくたちの「生きられた世界」とはなっていない。たとえばコペルニクスの地動説が、神を中心とする宇宙=身体イメージから人間を中心とするそれを導きだしたような意味では、拡散膨張宇宙は未だに単なる観念にすぎないのだ。その意味で、ぼくが構築したいのは、ぼくたちの身体や社会の「構え」と結びつくような生きられた宇宙像である。
 あらゆる物質の始まりはビッグバンに始まると言われている。宇宙の始まりは十のマイナス三十五乗センチほどの超微細な粒子の爆発であったらしい。物質とはアインシュタインのE=mc2 という公式が示しているようにエネルギーの別な形態にすぎない。質量とは実体とは無関係であり、動的なエネルギーのプロセス、ダイナミックな過程そのものなのである。また、それは時空の歪みとも関連しており、ぼくたちの生きる時空連続体もこの時に起源をもっているのである。このような宇宙のイメージは物質的実体に基づくぼくたちの想像力を遥かに越えたものである。
 したがって情報の宇宙といっても、「情報」が宇宙の基本的単位だと言いたいわけではない。宇宙の基本的構成要素などという概念はハイゼンベルクの不確定原理と共に霧散してしまった。いかなる素粒子も究極の構成要素ではありえない。そこにあるのは観測者との相互作用をも巻き込んだダイナミックな過程だけなのである。したがって、ここでぼくは単に宇宙を情報の自己組織化と自己編集化という視点から捉える見方を提案しているだけである。なぜ「情報」なのかというと、ひとつにはこの言葉は常に意味とコミュニケーションを伴っているからである。もし、観測者から独立した客観的実在という概念が虚構であるのなら、あらゆる現象は意味を担った出来事であり、また、相互作用とは常に意味の交換でもあるからである。
 もう一つの理由は、言うまでもなくぼくたちの社会が「情報社会」と呼び慣わされるようになってきていることに関係している。やはり今世紀の初めに現れたラジオ、テレビなどの電子通信技術は、世界のイメージを大きく変化させた。それは自動車や航空機のように移動の空間的距離を縮めたばかりでなく、情報の到達距離と量を飛躍的に増大させることになった。また、事の本質を一挙に明らかにしたのは、コンピュータの出現である。コンピュータはあらゆる情報を制御したり、処理したりすることを可能にし、その結果、音、画像、文字その他の感覚データは、データ構造の違いにかかわらず同じように編集、処理することができるようになった。通信技術とは結局こうしたデータ処理過程という巨大な領域の一部分にすぎなかったのである。あらゆる情報はディジタル信号に書き換えることによって、メディアに依存せずに編集、処理、転送、複製することができる。こうして、実際に「もの」に依存しない純粋な情報を語ることが可能になったのである。「もの」から「情報」へという移行はここでも大きな流れとなってきているのだ。
 だが、ここでふたつのことをあらかじめ強調しておかなくてはならない。それは、まず第一にぼくの立場とサイバネティクスや情報理論との違いであり、二番目に、いわゆる「情報社会論」との違いである。
 ウィーナーのサイバネティクスは、自然を通信工学的な視点から包括的に見る視点を作りだした。だが、シャノンの情報のモデルと同じく、それは固定された実体間の関係を記述するという構図の枠内にとどまっている。実際には実体の間に相互作用が行われるわけでもなければ、量的に扱えるメッセージが存在しているわけではない。実際にそこにあるのは絶え間ない相互作用だけであり、実体や情報量とは後から取り出すことができる抽象にすぎない。また、そこに意味が関わっているかぎり、その意味を解釈する人間が含まれていないとならない。客観的なシステムなどは存在しないのである。
 また、主に社会学的な視点から語られる「情報社会論」もまた、情報社会を単なる外的環境として捉え、適応の問題としてしか提示できないという根本的な欠陥をもっている。こうした立場からは、情報の選択とか、リアリティの確保とか、テクノストレスの回避とかいう防衛的な結論しか導き得ないだろう。重要なことは、ぼくたちの身体もまた「情報社会」の一部として変化するということである。こうした身体論的な視点が入っていない議論は無駄である。
 逆に言えば、ぼくが「宇宙論」と言う時、それはこれらの「情報理論」や「情報社会論」を包括するような、もっと根源的な視点をもつものを目指しているのである。ぼくが「身体」にこだわるのは、右のような理由からなのだ。重要なのは「情報」を「身体」の位置やそれらの相互作用の直中でのみ考えることなのである。あるいは、「情報」を実体化することなく、つねにその粒子が超高速で衝突しあい、純粋なエネルギー体となって変化を続けていくような、いわば量子論的な場の中で捉えることである。
 最後に、この本のもうひとつのテーマは二〇世紀の巨大な知的潮流をもう一度捉え直すことである。それは、フッサール、ハイデガー、メルロ・ポンティなどの現象学の流れや、ソシュールに始まる構造論の流れ、マラルメ以降のアヴァンギャルド文学や芸術の流れ、アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルクらによる物理学上の革命、チューリング、ノイマンらによるコンピュータ科学の誕生、ワトソン、クリック以降の分子生物学等々の多様な知的達成を、ひとつの包括的な視点から眺めようということだ。一見相互に無関係なように見えるこれらの流れは実はひとつのものなのではないだろうか。たとえば、デリダやドゥルーズの仕事は量子論と関連してはいないだろうか。そんなことを考えてみたいと思っている。
 人文科学の領域では構造主義以来、ぼくたちは常に「差異」をめぐる物語を語ってきた。だが、今必要なのはおそらく差異をめぐる物語ではなく、〈編集〉と〈統合〉とを目指す反(半)―物語なのだ。このことは「差異」を隠蔽したり消去したりして外部のない閉じた円環を作りだそうとする力への屈服などではない。そうではなく、「差異」や「外部」を、視点の位置が生み出す必然的な「帰結」として捉え、重点をその原因となる情報の流体力学の方へと移してやることである。とりわけ、断片化、分断化が進む現在の身体の政治において、新しい身体性を構築するための原理を作り出さなくてはならない。それは新しさを前に立ち尽くしている時はもう終わった。重要なのは「見ること」と「考えること」の可能性を、もう一度取り戻すことなのである。ソシオロジーからコスモロジーへ、そして認識論から情報の存在論へと歩みを進めなくてはならない。そして今、サナギから羽化する時を目指して、次なる全体へと跳躍する準備を整えておくことが最も必要なのだ。

 

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