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新曜社刊、室井尚+吉岡洋著

『ワードマップ・情報と生命-脳・コンピュータ・宇宙』より

 

情報と生命


 スティーブン・スピルバーグの映画「ジュラシック・パーク」では、遺伝子工学によって「復元」された恐龍たちが気持ちよく暴れまわっている。映画の中では、マツヤニなどの樹脂が化石になったものである琥珀の中に閉じ込められた「蚊」の腹中に残っている恐龍の血液からDNAが取り出され、念入りに修復された上で、ワニの未受精卵の核に注入するという方法で、恐龍が復元されるということになっている。


 言うまでもなく、これはけっして不可能な技術ではない。これに似たようなことは、既にアフリカツメガエルなどで成功している。受精卵から核を抜いて、かわりに腸細胞からとった核を入れてクローンとしてのオタマジャクシがかえっているのだ。また、現実に日本のいくつかの大学ではこれと似たような方法で数千万年前の昆虫を復元しようという計画が進行している。PCR法と呼ばれる方法で、主に表現形質に関するDNAを選んで増やす。さらにバクテリア中のプラスミドDNAによって増やし、塩基配列を分析する。それを似たような現生種のDNAと比較して、現生種の遺伝子に組み込んで卵から育てていくと、遙か古代の昆虫が誕生することになるわけだ。このようなやり方で「トキ」などの絶滅動物の復元も考えられているという。


 もちろん、原理的には不可能でないとしても、実際に成功するためにはまだまだ多くの困難が横たわっていることは言うまでもない。たとえば、どの遺伝子が実際に発現するのかを決定するメカニズムに関して、謎の部分が多い。だが、いずれにしてもDNA学はどんどん進んでおり、部分的にしてもこのような研究がいずれは成功するであろうことはほぼ確実であるように思われる。ところで、「ジュラシック・パーク」のストーリー自体は残念ながら子供だましの域を出るものではなかった。ここでも何度か言及したような「フランケンシュタイン・コンプレックス」が全く無反省に踏襲されていたのである。すなわち、「自然を支配しようとした人間が自然の底知れぬ力によって復讐される」という図式はここでも念入りに繰り返されていた。


 大体あの程度の「防衛システム」で恐龍を制御しようとする技術者などいまどき存在するだろうか。あれでは、そもそもライオンやトラさえ制御できるはずがないではないか。もっとも、ああした愚劣な紋切り型を持ち込むことによってのみ、映画が一般の人々に受け入れられるのだと考えれば、なかなか周到なマーケッティング戦略だったと言うべきなのかもしれない。


 だが、この映画で圧倒的だったのは、コンピュータを駆使した恐龍の立体アニメーションであった。「キングコング」における人形を使ったコマ撮りアニメーションや、東宝の怪獣映画のぬいぐるみ合成とは違って、巨大なティラノサウルスや草原を走り回る草食恐龍たちの動きはきわめて滑らかで、観客はまさしくジュラシック・パークの中にいるかのような錯覚に浸りこむことができた。恐龍映画としては出色の仕上りであると言えるだろう。


 この映画のほとんどはハードディスク上で編集されたと言われている。つまり、実際に撮影されたフィルムと恐龍のマペットを用いたCGの組み合せは、ほとんどコンピュータ上でなされているのだ。このような「デスクトップ」ムービーは、他にも作られているし、これからの映画編集の主流となっていくだろう。


 デスクトップ・ムービーとは、要するに動画のイメージ・プロセッシングのことである。ワープロが言語を、シークエンサーが楽音をプロセッシングし、編集するツールであるのと同じように、ここでは、実写のデータとCGとを組み合せ、編集し、自由に加工する技術が実現されているのだ。将来的にはこのような技術はよりパーソナルで、低コストなものになっていくだろう。近い将来には、映像データを自由に組み合せて、ロケーションも要らなければ、俳優も要らない自分だけの映画を、まるで漫画を描くように簡単に作り出せる日が来るかもしれない。
 要するに、ここでは生命を遺伝子情報から組み立てて復元していくという内容をもった映画が、視覚情報を加工し、復元していくという形式によって成立しているということになるだろう。


 最後にもう一度「情報と生命」というテーマで考えてみたい。ここでも何度か繰り返してきたように、今世紀の後半になって現れた遺伝子工学やバイオテクノロジーとコンピュータ科学には大きな共通点がある。それは、どちらも自然を「情報の組織化」の問題としてとらえ、それぞれの情報過程に編集的に介入しようとするということである。
 整理して考えてみよう。


 分子生物学や遺伝子工学の立場からすれば、生命とはまさしく「情報の組織化」の問題にほかならない。生命は熱力学の第二法則に逆らって、秩序を作り出し、その秩序を維持し続けるシステムである。有機的生命体を作り出す設計図としてのDNAは、まさしくディジタルな言語であり、その指令に従って生命体は卵細胞から組み立てられる。
 もちろん、DNAの解読だけですべてが解決するわけではないだろう。生命の情報処理活動は、細胞のレベルから、環境と個体のレベルまできわめて多くの層を形成しており、単純にその最も下位のレベルにあるDNAの活動に還元することなどはとてもできそうにない。だが、それと同時にそれぞれのレベルで行われているのがまさしくそれぞれのレベルにおける情報の組織化の過程であるということは確かであるように思える。そして、その限りにおいて、ぼくたちは生命の編集可能性を手にしていると言うことができるのではないだろうか。


 このような見方に対して、二通りの疑問が寄せられるかもしれない。


 ひとつはすべてが情報であるというのは何も説明していることにならないのではないか、という疑問である。生命という途方もなく深遠で複雑な対象に対して、それが情報であるという言い方で何事かを解決したと思うのは僭越ではないのか? また、そうした視点は実際の研究に対して何も新しいものを付け加えないのではないか?


 だが、これに対しては「視点」こそが「すべて」であると答えることができる。世界はそれ自体で固有の意味をもっているのではなく、視点によって意味を変えるのだ。情報という視点は、すべてが神の見えない力によるものであるという視点や、すべてが物理現象であるという視点がかつてそうであったと同じように、特定の新しい世界観を作り出す枠組となるだろう。そうした視点を取ることによって、見馴れた世界が異なる相の下に浮び上がってくる瞬間が重要なのではないだろうか。


 もう一つの疑問は、さらに特定されたものとなるだろう。つまり、それぞれのレベルの情報論的過程における関与的な情報の単位を特定できない限り、このような視点は単なる比喩にすぎないのではないか、あるいはそのような分析が必ず取り逃がすことが宿命づけられている領域――すなわち、けっして秩序を見いだすことのできない深遠な何かが生命の基底に残されるのではないかといった疑問である。たとえば、ここでも何度か触れたドーキンスの「ミーム」のような概念の場合、基本単位が見つからない以上、単なる空想的で粗雑な概念にすぎないのではないかといった批判が投げかけられている。


 これに関しては、人文科学における「記号論」や「テクスト分析」の理論の歩みが参考になるのではないだろうか。これらの学問は、言語とは異なる記号――映像や音楽、あるいは、マス・メディアや演劇などの複数の記号による集積体――を分析する方法論を独自に探究してきた。映画のようなモデルの場合、明らかに固定された音素や単語のような単位は存在していないが、それでもそれはなお記号によるテクストとして取り扱うことができる。このように考えた場合、多数多様な情報過程という捉え方は必ずしも不適切なものではない。また、分析しきれない「残余」という考え方の底には、必ず何かしら形而上学的なイデオロギーが潜んでいると指摘することができるだろう。


 コンピュータ科学におけるAL(人工生命)の試みは、生命現象を情報の過程であると考え、それを別なシステム上でシミュレート、組織化、編集しようとする企てである。このような研究と生物学のクロスオーバーなリサーチ・プログラムによって、今後、生命のさまざまなレベルにおける情報編集の過程が明らかになるに違いない。


 そればかりではない。今度はその逆に生命体の内部に人工的なデバイスを埋め込むことも考えられるだろう。DNA操作から人工内臓や脳内コンピュータに至る生命体の編集が行われることになるに違いない。ナノテクノロジーやバイオテクノロジーの進歩がこのような新しい情報の編集工学の可能性を切り拓くことになるだろう。


 これは神の領域への侵犯行為だろうか? ぼくたちは「ジュラシック・パーク」のように、人間の制御を越えた自然の途方もない力によって復讐されるのだろうか? 


 だが、石器時代の矢尻や槍は歯や爪の、鍬や鍬は手や足のシミュレーションであったし、人間が作り出してきた道具や技術は、結局はつねに生命体のシミュレーションだった。飛行機やパワーショベルやトラクターもまた、生物の筋肉系身体のシミュレーションであった。したがって、コンピュータが現われ、神経系的身体、つまり情報系としての生物のシミュレーションが可能になったということ自体はその延長線上のできごとにすぎない。問題はそのことによって、ぼくたちの自然や文化、人間や生命に対する固定的な先入観がいま大きく揺さぶりをかけられているということなのではないか。重要なのはぼくたちの固定的な先入観に合わせて技術を制限することではなく、その逆にこの技術的可能性が提起する新しい情報論的な視点から、ぼくたちの世界観の方を変えていくことなのではないだろうか。


 ぼくは技術者でも科学者でもない。だが、このような技術や科学の新しい展開に「意味を与える」のは、それぞれの専門家ではなく、まさしく「普通の人」をも含めたぼくたち全員の役割なのだ。そして、そのことによって文化や自然についての新しい視点を「言説の中に」構築すること――哲学者や人文科学者たちの任務はそこにあるように思われる。
 

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