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新曜社刊、室井尚+吉岡洋著

『ワードマップ・情報と生命-脳・コンピュータ・宇宙』 より

 

アナザーワールド



 ぼくが中学、高校時代を過ごした茨城県の水戸市は、関東平野の北に位置するなだらかな山々に囲まれた台地である。高校は城跡の高台にあり、教室の窓からは周囲の平野や山々を遙かに見渡すことができた。窓際の席からぼくはいつも目の前に広がる風景の境界線を眺めていた。地平線の向こう側の世界を夢見ていたのだ。そのころのぼくは地平線の内部に閉じ込められているような得体のしれない閉塞感に苛まされていた。円環の外側に広がる非在の世界には何があるのか――ぼくの高校生活はそうした別の世界への憧れと共にあったような気さえする。


 その一方では、水戸という「場所」が持っている独特な「場所の記憶」にも惹かれていた。古い城下町の内部にはさまざまな記憶が埋め込まれた空間が残されている。そうした町の内臓を、ぼくはまるで地下迷宮をさまよう旅人のように歩き回った。町に刻印されている無数の生の記憶が飛び交う情報空間に言い知れぬなつかしさを感じていた。
 別にここで個人的な思い出を語り始めたいわけではない。そうではなく人間には誰にでもそうした「別な世界」(アナザーワールド)への憧れがあるということを確認したいだけである。地平線の向こう側の世界や空の彼方に対する憧れと、その逆に地下の世界や過去の暗闇に対する郷愁、人間の意識はこの二つの「別世界」に宙づりにされている。この二つの世界はただ現実世界の外側にあるのではなく、いつもぼくたちを魅惑し、語りかけてくる豊かな情報空間なのだ。言い換えれば、人間の意識は常にこうした複数で多層的な世界の中に浮かんでおり、無数の別世界へと開かれているということなのかもしれない。


 人類が生まれて以来、人間はこうした「別の世界」との交信の中に自分達の文化や文明を築いてきた。旧石器時代人が死者の埋葬を始めて以来、「あの世」や「地下世界」との交信の中に無数の宗教や神話が作り出されてきた。あらゆる芸術や文学もこの二つのベクトルの中に作られてきたと言うことができるのではないだろうか。そうしたものが合理主義の名の下に抑圧されてしまった近代においてさえも宗教や神秘主義が絶えることがないのは、おそらくそのためだったである。


 浦達也は、『仮想文明の誕生』の中で、こうした感覚を「レトロ・フューチャー」と命名している。つまり、人間の遺伝子や脳の中には未来と過去の両方の記憶がまじりあって多層的、重層的に存在しており、人間の意識は「未来の記憶」である「宇宙意識」と「過去の記憶」である「生命記憶」の間に浮かんでいるというのである。そして、こうした過去と未来が混じり合った「レトロ・フューチャー」感覚こそが、これからの文明のキーワードになるであろうと、浦は主張しているのだ。


 この過去から未来にわたる記憶を巨大で宇宙的な情報空間と考えてみよう。あるいは宇宙とはそもそもそうした無限の記憶に満ちた情報システムだと考えてみよう。人間の脳の中にはこれらの記憶が充満している。意識の在り方を変えるだけで、ぼくたちは別の意識状態へと移行することができる。今ぼくたちが確固とした「現実」と思い込んでいるものは、こうした無限の記憶空間からダイジェストされ、きわめて限定された回路に取り込まれたその極小部分にすぎないのではないだろうか。


 六十年代から七十年代にかけてのオールタナティヴ・サイエンスの流れが探究しようとしたのもこうした意識の多層性、多次元性だった。たとえば、イルカの研究でも知られるJ.リリーの「アイソレーション・タンク」(隔離タンク)の実験やLSDをめぐるT.リアリーの「神経政治学」的探究などをここで挙げることができるだろう。


 リリーは人体よりも比重の大きい液体が満たされたタンクの中に自ら入り、そこで瞑想することによって、様々な意識の様態(変性意識状態=オルタード・ステーツ)を体験することができた。あらゆる外的な刺激を遮断して、重力からも解放された状態で彼は、意識が通常の状態を遙かに越えた広がりをもったもの――いわば宇宙意識――であることを発見したのである。それは東洋の修業者たちの瞑想やドラッグを用いたトリップとつながるような意識状態であり、時間と空間を超越した幾層にも分かれた多元的な意識である。文化や社会はこのような複数の意識を生存のためにきわめて限定された枠に閉じ込めてしまう。リリーの実験はこうした枠を乗り越えて、意識をそれが本来持っている豊かさへと解放していこうというムーヴメントを生み出したのだ。


 また、リアリーはLSDによる精神病治療の実験を通して、通常自己と呼ばれているものが、単なる社会的文化的刷込みによって固定された貧弱な神経回路のルーティン化にすぎず、「チューニング」を変えることによって意識の別なチャンネルを開いたり、拡大することが可能であると主張するようになる。ここにも同じような意識拡張論が含まれている。


 そして八十年代になって、こうした「別な意識の探究」はコンピュータ革命と結びつくことになったのだ。ドラッグやアイソレーション・タンクからコンピュータへ――これがサイバー・パンクの子供たちの合言葉となる。復活したリアリーは「マインド・ミラー」というソフトを作り上げ、さらにヴァーチュアル・リアリティへと関心を向けるようになる。テレビやラジオなどが人間の感覚を拡大したように、コンピュータは意識や精神の拡張装置とならなくてはならないのだ。これは、コンピュータをビジネスのための道具と考えるIBMに代表されるメインフレーム系の考え方や、「等身大」の人間が「手帖」のように使いこなすことのできるスーパー・ツール(ハイパーメディア?)という考え方の対極にある考え方である。


 「意識の錬金術」?――確かにいささか神秘主義的でいかがわしいところがある潮流かもしれない。だが、中世の錬金術が近代科学の母胎となったように、こうした潮流こそが近代の諸限界を越えていく唯一の道である可能性もまた否定することはできないのではないだろうか。


 二十世紀には宇宙、自然、生命、時空、そして人間の意識に対する考え方の大きな変換があった。たとえば、相対性理論や量子力学、DNAの発見、カオス物理学、トランスパーソナル心理学などがぼくたちの認識に与えた衝撃は不可逆的なものであり、ぼくたちは引き返すことができないような新たな認識の地平に投げ出されていると言うことができる。


 それは簡単に言えば。、宇宙が古典物理学の示したような明晰で単純な原理によって構成されている静的な構造ではなく、微細で多重で多層的で複雑な乱流であるということだ。それは単純な規則性では説明することはできない。たとえば北京で蝶がはばたいて起きた僅かな風の動きがニューヨークではハリケーンとなるように、微細な揺らぎが大きな変化を生み出しているのである


 そして、意識もまたそのような意味でのカオスなのだ。ジェイムズ・グリックが『カオス』で描いているような宇宙像はまた意識にも適用されなくてはならないのである。したがって、世界の意味は単に「客観主義的」なものではなく(そもそも、そんな概念は不確定性原理と一緒にとっくの昔に吹きとんでしまっていたのではなかったのか?)、こうしたカオス的な意識の探究の中に見いだされなくてはならないのだ。


 それでは、意識拡張装置としてのコンピュータにはどのような可能性が隠されているのだろうか。


もうVR(ヴァーチュアル・リアリティ)という言葉はすっかり市民権を獲得したようである。それと共にその言葉が当初もっていた衝撃的な響きもすっかり薄められてしまっている。最近ではVRのかわりにTP(テレ・プレゼンス)とかTE(テレ・イグジスタンス)という言葉が用いられており、その応用範囲の性格づけもより明確なものになりつつある。


 たとえば舘、廣瀬編『バーチャル・テック・ラボ』の中ではつぎのように定義されている。
 「人工現実感とは、人間が今、現在、実際に存在している環境以外の仮想環境(virtural environment)を、あたかもそれが現実の環境のような感覚を持って体験し、かつその仮想世界で行動することを可能とする新しい技術である。一方、テレイグジスタンス(tele existence)とは、人間が従来の時空の制約から開放され、時間と空間ないしはそれらの両者を隔てた仮想環境に存在することを目指す新しい概念であって、人工現実感を別の観点からいい表わしている。」


 これらの技術が既に実現している、あるいはしようとしている成果については敢えて口にしないようにしよう。それは基本的にはコンピュータと人間のインターフェースにおける単なる技術革新にすぎないし、主としてゲームマシンや設計のシミュレーションに使われるツールに利用されているにすぎない。将来ロボットの遠隔操作による人工衛星の修理や惑星の観測、名医による遠隔手術網などが実現したところで、それ自体は技術的革新の域を出るものではないだろう。


 仮想世界、または仮想環境を経験するということにしても、たとえばそれがゲームワールドのような人為的に構成された空間や環境の中を疑似的に体験するというだけならば、現在のゲームの延長線上のものにすぎないだろう。そんなことを言えば人間はいつだって想像力の中でそのような体験を実現することができたのではないか。


 したがってVRの可能性はその使用価値それ自体にあるわけではない。言いかえればその機能にあるのではない。これが何の役に立つかということを考えても余り意味はないのである。それ自体は鋸が電動鋸になるくらいのことにすぎないのだ。


 だが、一方でそれは必然的に、人間による世界の経験をシミュレートしようという限りにおいてリアリティの探究とならなくてはならないだろう。人間がひとつの環境を経験するとはどういうことか、という問題をめぐって、それはシステムからのフィードバックを受けながら探究を進めていくことになるだろう。感覚センサーひとつにしても、視覚、聴覚、皮膚感覚などの精度や解像度を自由に変えながら、また環境との相互作用の変数を変えながら、それは経験を構成してくことになる。異なる重力、異なる身体条件、異なる環境の中で意識は世界をどのうに把握するのだろうか。VR技術の進行はこうした経験や認識の編集機械の誕生を予見させるのだ。


 経験を構成する要素を自由に変え、身体条件や感覚データを即座に切り替えることができるこうした「ワールド・プロセッサ」は、まさしく新しいアイソレーション・タンクとなるだろう。それは単なる「テレ・エグジスタンス」ではなく「マルチ・エグジスタンス」と呼ぶべき複数のリアリティや宇宙意識との同調装置となるのだ。もはやここではリアリティ/ヴァーチャル・リアリティという対立など問題ではない。ヴァーチャルで潜在的な情報空間こそがリアリアティを背後で支えているのであり、ワールド・プロセッサはそうした対立を解体し、意識を本来の豊かな広がりへと解放することになるだろう。


 また、ディジタルな複製であるシミュレーションが、アナログで「本物」の「リアル」な体験にはけっして近付けないというようなヒューマニスティックな議論も一掃されなくてはならない。遺伝子の例を出すまでもなく、生命の基本原理もそもそもディジタル複製であるからである。


 コンピュータ技術はこうしてアナザーワールドとの交信装置として、生命の根源と宇宙へと開かれた意識のプロセッサとなることができるはずである。それはぼくたちの文明を予見できない道へと導いていくことになるだろう。
 

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