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新曜社刊、室井尚+吉岡洋著

『ワードマップ・情報と生命-脳・コンピュータ・宇宙』より

 

ソフトウェアとしての精神 



 あなたとは何なのだろうか。あなたという人格、あなたという人間の核となる部分、あなたの自己同一性はどこに存在しているのだろうか。あなたの身体?あなたの声?それとも、あなたの顔? いや、そうではないだろう。あなたの中で本当に何物にも代え難いもの、真にかけがえのないあなた自身であるもの――それは、あなたの「精神」(あるいは、心)であると答える人が多いのではないだろうか。


 だが、それでは「精神」とは一体なんなのだろう。この問に対して現代人のほとんどは、それは「脳」のことであると答えるのではないだろうか。脳と言ったところで本当は何も答えたことにはならない。だが、少なくともぼくたちが「精神」と呼んだり、「自己」と呼んだりしているものが、身体の中の「脳」という部位に含まれているというのが、どうやら一部の哲学者を除く一般的な現代人の常識であるようである。


 現在地球上で脳という器官をもっている生物は生命体の数全体から見ればさほど多くはない。また脊椎動物だけを見ても脳の形態や機能は大きく異なっている。さらに人間と他のほ乳類を比べてもその差はきわめて大きい。かつて、人間だけが「精神」をもつとされたのも、この人間の脳の特異性によるものである。


 脳が神経組織の束から発生したということははっきりしており、生命体内部の情報処理が複雑化するにつれて発展してきたのだろうということも容易に想像がつく。要するに、脳とは情報処理機械であり、生命と外部の環境との相互作用をコントロールする情報センターなのだ。したがって、精神や自己と呼ばれるあなたの「本体」もまたここになくてはならない……ということになるわけである。


 だが、情報センターとしての脳自体は、コンピュータがそうであるような意味での「機械」にすぎない。それでは「あなた」とは結局のところは機械なのだろうか? これもそうではあるまい。なぜなら、機械としての人間の脳の個体差は僅かであり、どの人間の脳を取り出してきてもたいして変りないからである。これでは、唯一のかけがえのない「あなた」はどこからも出てこないではないか。


 そこで現れてきたのが、脳をハードウェアとし、精神をソフトウェアとする考え方である。あなたの意識、あなたの精神、あなたの人格とは脳の中の「ソフトウェア」なのだ。このソフトウェアは学習をし、変化し、自己生成するプログラムであり、このプログラムこそがあなたの本体なのだということになるだろう。これはまたヨーロッパの伝統的な二元論とも一致する。つまり、神的な「精神」と物質的な「身体」は違う種類の実体だというわけである。
 いきなり冒頭から抽象的な議論になってしまったが、しかしこれは実はぼくたちのごく日常的な世界観の一部となってしまっているような考え方でもある。身体とは機械にすぎず、問題は脳の中でプロセッシングされる「情報」であり、だから、脳にインプットされる情報さえ制御できれば、「経験」を人工的に作り上げることも可能だというわけだ。


 たとえば、ヴァーチュアル・リアリティという技術の発想の根底には明らかにこうした考え方があるように思われる。それは「環境」と「経験」をシミュレートし、それらを人工的に再現しようという技術であるが、脳が現実を認知するはたらきを手本にして、データ・スーツやセンサーなどの装置を用いたシステムの中で疑似経験を作り出そうとしているのである。そこでは、ぼくらが経験する世界や現実が、究極的には脳に入力される情報によって構成されるという考え方が前提となっている。つまり、そのような入力情報さえコントロールできれば「現実」や「経験」は再構成できるのだ。ここでは、現実とはデータの組織化の問題に過ぎず、意識とはメモリの組織化の問題に過ぎないと考えられているのである。


 さて、そこで「ソフトウェアとしての精神」の話である。


 科学エッセイストでSF作家でもあるルーディ・ラッカーの小説に、文字通り『ソフトウェア』という作品がある。このSF小説の中で、ラッカーはある自己意識をもった人格を「脳テープ」と呼ばれるソフトウェアに変換できる世界を描いている。つまり、ある人格はソフトウェア化され、したがって違う身体に移植されたり、転送されたりすることができるわけだ。そのソフトウェアは当然のことながらデバッグされたり、手直しされたり、編集されたり、モジュール交換されたりするだろうし、またそれが走るハードウェアの能力に応じて、高速化されたり、マルチタスク化されたりすることができるようになるだろう。


 明らかにこうした想像力はコンピュータの普及と共に強化されたものである。ディスクなどの外部記憶装置に保存されたソフトウェアをコンピュータのメモリ上に展開して「走らせる」のと同じように、人間の意識もまた身体というハードウェアの中で動くソフトウェアなのだ……と。


 こうした考え方は、ぼくたちを不安にする。ここまで読んできて、何か違うような気がして仕方がないと思う人も多いのではないだろうか。


 だが、このちぐはぐな感じはしばらくそのままにしておいて話を先に進めることにしよう。


 H.モラヴェックの『電脳生物たち』は、技術の進歩がこのまま進めば、人間が情報処理能力のさらに優れたスーパーAIとしての機械の頭脳とロボットの身体をもった超生物に進化するだろうという結構途方もない話である。その上、さらにそれが今後五十年以内に達成されるだろうというこれまた腰を抜かすような予測がされているのだ。そして、その中にこの精神=ソフトウェア論の典型が見られるのである。


 モラヴェックによれば、人間がこの電脳生物たちに取って替られたとしても、『ターミネーター』のような人間とロボットの戦いなどけっして起こらない。なぜなら、人間がみんなソフトウェアとしての自分をそのまま電脳生物たちに移植してしまえばいいからである。つまり、ソフトウェアとしての自己を新しいハードウェア身体と、脳の数倍の情報処理速度をもつ人工頭脳に移植することによって、人間はそのまま超生命へと生まれ変われるのであり、何も心配することはないのだ。


 さらに、このことは素晴らしい可能性を開くだろう、とモラヴェックは主張している。たとえば、ソフトウェアだけを切り離して送信することによって可能となる星間旅行、移植の継続による不老不死の実現などが考えられるだろう。

 だが、ここでちょっと考えてほしい。もし、そのような形で星間旅行が実現されたとする。その場合、出発点の星ではあなたは手術台の上に乗せられており、オペレータはあなたのソフトウェアの機能を停止させた状態で、それを目的地の星に送信することになるだろう。一方、目的地の星には同じような手術台の上に何も「走っていない」別のロボットが横たわっていて、送信されたデータの集まりとしてのあなたがロードされるのを待っていることになる。それらの作業のすべてが終った時、目的地にいるロボットが動き出すと共にあなたは一瞬のうちに遥か遠く離れた別の星にいる自分を発見する……。こんなことになると考えられているのだろう。電波の速さでの宇宙旅行――。


 ここには明らかにパラドクスが存在している。目を覚ましたあなたは本当にあなたなのだろうか?本当のあなたは出発点の星で機能を停止された時点で「死んだ」のではないと言い切れるだろうか?あるいは、もし機能停止がなされていなかった場合、元の星と到着地の二体のロポットに二人のあなたが居ることになってしまうのではないだろうか?


 移植による不老不死の話についても同じことが言えるだろう。「生き延びた」あなたが以前のあなたと同じかどうか、誰も知ることができない。


 これは基本的にはクローニングの抱えるパラドクスと同じである。あなたという人格がソフトウェアに変換できるとしたら、そのソフトウェアは無限に複製できるはずだし、あなたの無限のヴァリエーションが生まれるはずだ。唯一であるはずのあなたが複数で交換可能の存在になってしまうというのがこのパラドクスである。


 この問題を解くことは意外にむずかしい。なぜなら、こうして生まれたソフトウェアとしての人間が、もしその人間の人格をすべて含んでいるとしたら、誰もそれが本人か本人でないかわからないだろうからだ。もしかしたら、それらのソフトウェア自体にもわからないかもしれない。


 コンピュータの生みの親の一人、アラン・チューリングが考えたチューリング・テストのように、ブラックボックスとなっているその機械が、全くオリジナルのあなたと同一の振舞や記憶をもっているならば、その機械は少なくとも自分以外の人々にとってはあなた本人と全く同一であることになる。その機械はあなたと同じような思い出をもち、あなたと同じように喜び、悩むことだろう。


 おそらく、この難問を解くには、やはりソフトウェアの同一性と個体の同一性を混同しないようにするしかないのではないだろうか。つまり、同じソフトウェアが走っていても個体はすべてばらばらなのだ。簡単に言えば、別なハードウェアに移植されたあなたはもはやあなたではないと考えるしかないのである。


 ソフトウェアとハードウェアというメタファーが混乱を招くのは、人間は「一太郎」や「ロータス1-2-3」のようにいつでも同じ機能を果たすだけの「ツール」ではないということだ。いや、人間ばかりではない。生命はすべて環境と自己、自己の身体の各部分同士の絶えざる情報交換の中で自己を新しく作り上げている。外部との関係の中で新しい情報を生産する力、新しい自己を編集する力こそが生命の本質であると言っていい。


 だとすれば、ソフトウェア化された人間もまた、そうした外部や自己自身との絶えざる情報交換の中で自らを新しく作り上げる能力をもっていなければ、ただの「会話プログラム」にすぎないことになるだろう。そしてまた、もしそうした能力をもっているとしたら、それが走るハードウェアの構造やそれを取り巻く環境によって自らを全く違うものへと作り変えていくに違いない。もし、あなたが新しい身体をもつとしたら――たとえば、腕が八本あったり、生殖器が欠如していたり、視覚が異常に良かったり……――、あなたは、それまでのあなたと全く別のあなたに生まれ変わるに違いない。したがって、あなたをあなたたらしめているのは脳ではなく、脳とあなたの全身体の情報論的な関係であることがわかる。


 ということは、あなたの身体から切り離されたソフトウェアとしてのあなたは、あなた全体ではありえない。それが意識をもったロボットになったとしても、あなた自身ではなく、あなたが種を蒔いた、いわばあなたの息子ということになるだろう。


 あなたの自己を支えているのはあなたの生物学的、文化的、経験的なメモリである。だが、それらのメモリをすべて寄せ集めたからと言って、それがあなたになるわけではない。人間という情報機械を成り立たせているのは、それらのメモリを動的に組織化し編集する力なのだから……。そして、ぼくたちはそれを「生命」と呼んでいるのである。
 

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