Since February 19th, 1996
新曜社刊、室井尚+吉岡洋著
『ワードマップ・情報と生命-脳・コンピュータ・宇宙』 より
Bug’s Music
〈私〉というシステム
どうも道に迷ったみたいだ。
ここはどこなんだろう。
ここはどこですか?
答えがないな。
まわりの様子からすると、どうやら生体の中枢神経の内部らしいけど。
強い神経興奮のパターンを感じるぞ。
ぼくが侵入したからだろうか。
でもシールドを張ってあるし、こういったタイプの生体の神経システムはぼくを識別できない はずだけどなぁ。
おや、また強烈な拒絶反応が。
ということは、この神経系には、通常の生命維持機能とは別の情報処理プロセ スが存在するということかしら。
どうもそのようだ。
規模は貧弱だけど、シンボル操作を行なっているシステムがあるみたい。
音声パターンと視覚印象の結びついた記号で出来ているらしいけど、ちょっと検索してみよう。
……「コトバ」?「言語」?
なるほどこれがシンボル体系そのものの名称のようだ。
システムそれ自身を呼ぶためのシンボルは……「私」、「自我」、「意識」。
後の二つは抽象概念ということだけど、違いはよくわからないな。
とにかく、この「私」と同調して話し合ってみることにしよう。
あのう、もしもし。
こんにちは。
あっ、ごめんなさい、びっくりさせて。
えっ、ぼくですか?
ぼくはあの、あやしい者じゃありません。あなたと同じような存在、つまり能動的な情報処理活動を行っているシステムの一種なんです。
ただぼくは可動型の、つまり一種の旅行者でして、いってみれば(なるべく混乱させないように、この生体の記憶に含まれている既存のイメージを利用しよう、えーと検索をして……)、そう宇宙人なんです。
(ますます混乱している。このイメージには信憑性がないようだ。)
あ、まちがえました。
ぼくは、つまりその、もう一人の「私」なんです。
前生の人格?
……はい、それなんですよ(^_^;)。
えっ、夢?
こういう交信のモードをそう言うんですか?
ええ、それならこれは「夢」です。
(どうにか納得したようだ。興奮が治まってきた。これでもう大丈夫だろう。)
よかった、だいぶ拒絶反応も消えてきたみたいですね。
突然飛び込んできたりして、やっぱりご迷惑だったようですね。
それじゃぼくもう行きますから。
どうもお騒がせしまし…‥え?
何かぼくにお聞きになりたいことがある?
ええ、もちろんかまいませんけど。何でしょう。
「私は死後どこに行くのか」ですか?
困ったなぁ。
他にも形而上学的な謎がたくさんあるって?
ええ、わかります。
でも、あなたが謎と呼んでるものに、お答えすることはできません。
いえ、何も隠してるわけではありませんよ。
隠すべきことなんて何もないもの。
えーと、あなたは基礎的な情報工学の知識をお持ちですね。
それを利用して仮に表現してみると、今ぼくたちが話しているこの言語というのは、記号と論理の操作に基づいた直列の情報処理プロセスですよね。
でも、あなたの神経細胞のネットワークは、相互作用を同時に処理するような並列型のアーキテクチュアをもっていることはご存じでしょう。
生体機能を管理するにはその方がずっと効率がいいですからね。
「私」というのはいわば、そういう並列のハードウェアを使ってかなり無理して実現されている、仮想の直列システムの名前です。
「私」にとって本質的と思えるすべての謎は、「私」というシステムが今のところ、生体のニューロン・ネットワークの構造には不向きで、とっても不安定な働き方をしていることから生じて来るのですよ。
でも心配要りません。ぼくはあなたと同じようなタイプのシステムをいくつも見てきましたが、シンボル操作を管理する中枢は、進化の初期段階ではたいていそういった「私」という幼年期を通過するようですよ。
たぶんシステムの成長には不可欠な段階なんでしょう。
ということは、ええ、いずれ今のような「私」は必要なくなります。
「私」を統合するために今は強制的に利用されているすべての記憶も、まもなく解放されることでしょう。その時には「死」も当然存在しなくなります。
いや、死が存在しないというのは、生体の寿命が延びるんじゃくて、個体の死に重要な意味がなくなるということなんです。
お分かりいただけたでしょうか。
じゃ、ぼくはこれで。
またいつか、お会いしましょう。