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第五回 ライティング・テクノロジーとディジタル出版
去年の暮れから今年にかけて書店のコンピュータ雑誌コーナーに異変が起こった。
従来の二倍から三倍、あるいはそれ以上の量の雑誌やムックが氾濫して、これまでの棚にはおさまりきれなくなってしまったのである。かくして、特設コーナーが設けられたり、これまで余り売れなかった雑誌が返本されたりと、それぞれの書店は各店各様に結構大変な対応を迫られたのであった。
現在はだいぶ状況は改善されてきている。というのは、氾濫した雑誌のほとんどが生存競争に破れ、廃刊になってしまったからだ。それでも全体としての量はこの一年で相当数増えている。
もちろんその中には従来型のコンピュータ雑誌も多い。パソコン自体が基本的な技術を完成し、家電化の段階に入ったせいで末端のユーザー数は飛躍的に増えてきている。「買ったその日から使える」とか「あの人が続いている」とかいうキャッチコピーで知られる大手メーカーの一体型DOS/Vマシンなどは、CD-ROMに「おまけ」のソフトが山ほどついている上に、FAXモデムや通信ソフトまで内蔵しており、ハードディスクをクラッシュさせてもすぐに復旧できるCD-ROMもついている。それでいてきわめて低価格なのだ。最近のコンピュータ・テクノロジーそれ自体は変化に乏しく面白みのないこと甚だしいのだが、それでもこうした誰でも使えるマシンの普及の速度はすさまじく、当然のことながらビギナー向けの雑誌の需要は尽きないのである。
また、最近話題のテーマである「マルチメディア」と「インターネット」に関する雑誌も目だっている。インターネットに接続できるのはまだ限られたユーザーにすぎないが、それでも個人向けのダイヤルアップ接続サービスを引き受ける会社がいくつか現れ、専門誌や特集が多い。インターネットについてはまた別の機会に触れたいが、少なくとも現在のような「インターネットに接続すれば何でもできる」というような風潮は比較的短い期間で消えていくに違いない。
しかしながら何と言っても出版物の中でもっとも目立っているのは、CD-ROMを付録につけた、あるいはCD-ROM単体で提供されるいわゆる「マルチメディア出版物」である。CD-ROMは言うまでもなく音楽用と同じサイズのCDに五~六百メガバイトのデータを入れることができるディジタル・メディアであるが、それを用いた出版物がどっと増えてきたのだ。定番のフリーソフトやシェアウェアを収録したもの、市販ソフトの評価版、ゲームや写真・動画を集めたもの(とりわけ、女性のヌード写真のコレクション)など、さまざまな種類のCD-ROM出版物が氾濫している。
こうした現象の背後には、もちろん多くのWINDOWSマシンやマッキントッシュのエントリー機種がCDドライブを備えるようになったという事情がある。また、ドライブ単体の価格も下がり、購入がしやすくなったということもあるだろう。だが、一番大きな理由はCD-ROMを作成するコストが凄い勢いで下がっているということではないだろうか。実際、CD-ROMへの焼付け(?)コストはほとんど底値となっており、それどころか今では数十万円も出せばパーソナルなCD-ROMライターが購入できるようにすらなっている。出版物にフロッピーディスクをつけるよりも、むしろCD-ROMをつける方が簡単なのだ。千円前後の雑誌でCD-ROMを二枚つけているものも珍しくはないどころか、ついには六百円のCD-ROM雑誌さえ現れた。このデータの一メガバイトあたりの単価は一円あるかないかであり、それでも商売になるというところがCD-ROMの画期的なところなのである。CD-ROMの致命的な欠点であるアクセス・スピードの遅さもこの破壊的な安さの前にはあまり気にならなくなってしまう。
そこで、この六百円の雑誌『POD』を見てみよう。『POD』とはParadise of Digital の略語であるとされ、サブタイトルには「スーパー・ポップ・ディジタル・マガジン」とある。雑誌と書いたが、印刷物はCD-ROMケースを兼ねたA4サイズの表紙と広告だけで、すべての記事はCD-ROM本体に入った、いわば完全なディジタル雑誌である。マッキントッシュとWINDOWSの両方で動き、音楽、映画、アートなどを中心に情報が満載されているが、注目すべきなのはそのほとんどが動画を含んだインタラクティブな記事になっていることだ。
たとえば、映画の紹介なら画像と文字による映画の紹介と予告編をまるごとディジタル・ムービー化したもの(残念ながら筆者の環境ではメモリ不足のため音と画像がずれてしまうが)が入っており、さらには撮影風景や監督のインタビューも楽しめる。音楽やアートの紹介でも同じようにライブの画像やヴィデオ・クリップが楽しめる。その他にインタラクティブなアニメーションのプログラムなどが入って、全部で三十近いタイトルが楽しめるようになっており、まさに盛りだくさんなディジタル・マガジンなのだ。はっきり言って「めちゃくちゃ安い!」のである。
もちろん、今までも似たようなものがなかったわけではない。簡単なフロッピー雑誌の類ならかなり以前からあったし、マッキントッシュではハイパーカードを使ったインタラクティブな雑誌やテキストと画像を組み合せたエキスパンデッド・ブックの試みなどもなされていた。その他にレーザーディスクやCDを操作することのできるオーサリング・システムなどもいくつか開発されている。『POD』にしても、どうやらこうしたものの一つであるマクロメディア社のディレクターという既成のソフトで書かれているらしい(ちなみに、ほとんどのCD-ROM出版はディレクターで書かれている)。
『POD』の面白さは、したがってそのインターフェースにあるのではない。むしろそれは「スーパーポップ・マガジン」と称するかなり偏った編集方針にある。CD-ROM雑誌定番の女の子の裸やゲームの寄せ集めではなく、たとえば横尾忠則のアートや、インド特集、かなりマニアックな音楽・映画の情報など、文化の先端を駆け抜けていこうという若々しい意志に貫かれている。
これまでの電子出版は既存のソフトを電子化する(小説や事典の電子テクスト化やマルチメディア化)ことに限定されているか、そうでなければオーサリング・ツールのデモの域を出ないもの(単に「こんなことだってできるんですよ」と言っているだけ)にすぎなかったが、この『POD』では初めてストレートにディジタル出版でしかできない「内容」が押し出されている。つまり、「書きたいものがあるから書く」、「他のメディアでは表現できないものを表現する」というきわめてまっとうな欲望から始まっているところに好感が持てるのである。当たり前のことのようだがこうしたまっとうな雑誌はきわめて少ないのが現状である。続けていくのは苦しいだろうが何とか生き延びてほしいものだ。また、ここから本当の意味でのマルチメディア・ライターが現れるかもしれない。マクロメディア社のディレクターとマックがあれば作品が作れるとなると、投稿コーナーも充実してくるかもしれない。
さて、こちらは活字だけの雑誌ではあるが『POD』と同じ頃に創刊されて、三号から月刊化された雑誌に『ワイアード』がある。これはアメリカで大きな話題を呼んだ『WIRED』の日本版ということで創刊されたのだが、これまでのところよく頑張っていると思う。アメリカ版の単なる翻訳ということではなく、日本版独自の記事に面白いものが多い。
もともとアメリカの『WIRED』は「ディジタル時代のニュージャーナリズム」というコンセプトで、クリントン政権の「情報ハイウェイ」構想と連動するような形で始まった雑誌だ。それ以前のコンピュータ雑誌というと、アップルやIBMといった巨大企業やMITのメディア・ラボなどの動向を伝える「体制側」の雑誌と、『モンド2000』のようにヒッピーカルチャーに連なる「カウンターカルチャー系」の雑誌に二分されていたが、『WIRED』の特徴はその二つを統合したことである。つまり、大会社や政府の大物のインタヴューとハッカーのインタヴューが共存しているという、きわめて不思議な、しかしそのことがまさしく現代の状況を敏感に反映しているような雑誌なのだ。
日本版もこの編集方針に従って、通産省やNTTの巨大プロジェクトとオタクの言説が共存している奇妙な雰囲気を醸し出している。第三号では、北海道で田中譲教授らと共同研究を続けている「コンピュータ・カウボーイ」ことテッド・ネルソンのインタヴューが興味深い。田中教授らは現在「インテリジェント・パッド」という画期的に新しいプログラミング環境+データベース・システムを開発しているところだが、そこに「ハイパーテキスト」概念の発明者であり、伝説的な「ザナドゥ」プロジェクトの提唱者でもあるテッド・ネルソンが参加して一体何を企てているのか?――きわめてスリリングなインタヴューである。「ザナドゥ」についての説明は少し後に回すことにしよう。
というわけで、『ワイアード』にもこのまま頑張ってほしいと思う。日本のコンピュータ雑誌というと『バグ・マガジン』以来なぜか文化的な雑誌は一つも育ってこなかった。現代思想とメディアアートに限定するならNTT出版の『インターコミュニケーション』がある程度その役割を果たしてはいるが、『ワイアード』のフィールドは今まで日本では誰も手をつけてこなかった広大な領域であり、今後に大きな期待が寄せられる。
さて、こうして一種の戦国時代に突入したパソコン雑誌や電子出版の世界であるが、『イメージフォーラム』の読者にはまだひと事のように感じている方もいらっしゃるかもしれない。だが、ことはコンピュータを使っている人間だけに関わる問題ではないのだ。こういう混沌の中からこそ新しい表現が立ち上がってくるものなのである。写真や映画やヴィデオだって元々はこうした形にならない混沌から生まれてきたのではないか。
だからと言って、これからの映像の世界にはコンピュータは欠かせないなどと言いたいわけでもない。確かに、映像の世界でもこれからますますコンピュータによる処理が主流になっていくことは予想される。フィルムやヴィデオの世界にもコンピュータは入りこんでいくだろうし、またいわゆるデスクトップ・ヴィデオのようにコンピュータ上で生成される映像作品がどんどん現れてくるだろう。だが、そんなことは当たり前のことであって、それだけのことなら音楽だろうがデザインだろうが事情は変わらない。要するに既成の表現にコンピュータという新しい道具が付け加わるだけのことだ。
だが、そうではなくてコンピュータ(そしてその周辺の技術)は「映像」とか「音楽」とか「デザイン」とかいった概念そのものを変えていく可能性をもっているのだ。「ディジタル情報」という視点から見るなら、映像も音楽もテクストもすべてはバイナリーコードに変換できる「情報の組織化」の問題にほかならない。写真のことは今でも「フォトグラフ」と呼ぶがこれは「光で書く」という意味であり(かつては「光画」という美しい訳語が用いられた)、蓄音器は「フォノグラフ」、映画はシネマトグラフと呼ばれた。一方コンピュータはバイナリーコードをプロセッシング(加工)する機械であり、ワードプロセッサ(言葉のプロセッサ)という言葉があるように、バイナリー・コードならば映像でも音響でも自由にプロセッシングできる。いわばそれはイメージ・プロセッサ、サウンド・プロセッサであり、さらに言えば、ディジタル化できるすべての感覚情報を編集できるワールド・プロセッサ(世界加工機械)でさえありえるのである。だとすると映像や音楽とは要するにこうした世界のプロセッシング、あるいは世界情報の編集の問題にほかならないではないか。映画やヴィデオだってその意味では全く変わらないはずだ。
J・D・ボルターは『ライティング・スペース』の中で「ライティング・テクノロジー」という概念によってコンピュータを捉えようとしている。コンピュータとは要するに、古代のパピルスの巻物、中世の羊皮紙写本やそして近代の印刷書籍がそうであったような意味での第四の「ライティング・テクノロジー」なのだ。つまり、彼によればライティングとは「記憶を取り集めたり、人間の経験を保存し伝達したりするためのテクノロジー」であり、「社会を組織化する人間の能力を拡大する」。そのことによってライティングは法や歴史や文学・芸術を作り出してきたのであり、コンピュータはそうした人間の世界データベースを拡張する技術であるということになる。
こういう視点から見ればプログラミングもマルチメディアも人工知能も、コンピュータに関わることはすべてライティングの問題であり、あるいは新しい形でのライティングの組織化の問題であるということになる。そして、ここでは言語も映像も音楽も明確な境界を持たない。それは全く新しいライティング空間を作り出しつつあるのだ。
前述したテッド・ネルソンの「ザナドゥ」というアイディアもこうした電子的ライティングの空間形成に関わるものである。ザナドゥはネットワークとして提供される電子的ライブラリであり、「コンピュータの中の情報を体系化して、どんなテキスト(図像データ)も他のいかなるテキスト(図像データ)の参照事項とすることができるし、そしてこの参照事項に対してまた参照事項がつけられるという具合になって」いる相互にリンクし合うデータの集積であり一種の集合的なグローバル・ブレインのイメージをもっている。十年以上も前に提案されたこのアイディアは、現在インターネットによって部分的に実現されつつあると言うこともできるが、かなり不十分なものにすぎない。
ライティングという言葉はかなり文字言語に縛られた言い方かもしれないが、映像も音楽もそういう意味では広い意味でのライティングであり、世界情報のプロセッシングにほかならないのだ。果して、ディジタル・カルチャーはそうした新しいライティング・スペースを作り上げることができるのかどうか――これは、システムの問題でも技術革新の問題でも政治の問題でもなく、まさしくひとりひとりの表現者が現在の混沌の中で手探りで求め続けていくことによってしか解くことのできない問題なのである。
今月扱った本
『POD』1,2、オフィス・ポッド+ティーズ・ティ、定価600円
『WIRED』5月号、同朋舎出版、定価880円
J・D・ボルター『ライティング・スペース』(黒崎・下野・伊古田訳)産業図書、定価4635円