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第三回 問われているのはリアリティそのものなのだ


 三年前に『情報宇宙論』という本を書いた。
 手前味噌になってしまうが、コンピュータやテクノロジーの文化的インパクトとその思想史的意味について、この本で自分なりにほとんどのことはやり終えたという思いがある。その後コンピュータや情報文化に関するさまざまな本が出版されているが、ぼく自身としてはもう付け加えたいと思うことはない。去年は吉岡洋と一緒に『情報と生命』という本を作ったが、こちらはいわば「SFとしての文化理論」であり、実際半分程度はフィクションになっている。いまやフィクションでなければ言い表せないことだって沢山あるのだ。
 「情報」とか「情報文化」という言葉がキーワードになっているらしい。かくいうぼくも国立大学の「情報芸術」という奇妙な名前の講座をもっている。誰が名前をつけたのか知らないが、とにかく「情報」とか「環境」とか「総合」とかをつけさえすれば、文部省がケチをつけないだろうということで安易につけられた名前であり、そこに集まってきた学生や教員は今更ながら途方に暮れている。もっとも名前だけで安心できるようなところなど今の日本の大学にあるはずがないのだから、このいい加減さはむしろ時代の混乱をよく表わしていると考えることもできる。そんなことを言うならわけの分からない講座名で有名な東大の教養学部が『知の技法』などといううろたえた本を出版し、それが一般書としてベストセラーになってしまう現象の方がよっぽど危機的ではないか。
 ともかく、「情報文化」的なネーミングは、今では日本中の大学や研究機関でかなりポピュラーなものになってきている。最近「情報文化学会」というものを作ろうという話もあるらしい。
 だが、結局のところ「情報文化」って何だろうか。たとえば、『バーチャル・ワールド』(インプレス)の著者、ベンジャミン・ウーリーはこんなことを言っている。  「すなわち、シャノンが定義を広げた結果、この語の伝える内容がどんどん希薄化しているのだ。つまり『シグナル』が失われてきているのである。情報『空間』、情報『不安』、情報『過負荷』、情報『時代』……。(中略)。お金も、電話での会話も、建築の模型も、バラの花弁の香りも、円周率も、レッド・ツェッペリンの『天国への階段』も、DNAも、彼方の星の光も、すべてが情報である。しかし、それでいったい何が分かるというのか?こんなふうに何もかもいっしょくたにしてしまうと、重要な差異を明らかにするどころか、逆に隠蔽してしまうことになる。」
 これはこれで確かにわからないこともない。あまりに「情報」という言葉が広まってしまった結果、その本来の意味や衝撃が伝わりにくくなってしまっているのだ。もっとも、これはあらゆる流行語に当てはまる現象でもある。
 かつて「ポストモダン」などという言葉が流行したたときにも同じだった。ある意味ではあまりにもその語感が時代状況にぴったりしすぎていると、言葉というものはすぐに摩耗してしまうものだ。言葉もまた、他の言葉や言説とのダイナミックな相互作用の中にしか存在し得ないものである以上、意味のインフレーションはしばしば起こる。ウーリーの言っているのはそういうことだろう。
 だが、それでもウーリーのように言い切ってしまうことには正直言って抵抗がある。というのも、「情報」の代りに彼が提出している概念群――「ヴァーチャル」、「コンピュータブル」、「ワールド・シミュレーション」――だけでは、どうしても説明しきれないことがあるからである。「ポストモダン」が手垢にまみれ、意味を薄められ、時代遅れの流行語になったとしても、その言葉が問題提起していたことは残る。それと同じく、かつて「言語」や「記号」がそうであったように、「情報」が新しい文化理論を作り出す可能性をもつキーワードであることもあながち否定できないのだ。
 ここでウーリーが引用している「シャノン」とは、一九四九年にウォーレン・ウィーバーと共に「通信の数学的理論」を発表したクロード・シャノンのことである。情報理論の始まりと言われているこの論文でシャノンとウィーバーは、コミュニケーションを意味論から切り離して「ビット」という単位で計量できる「情報」という概念を提起したのである。
 こうした情報理論の立場は、その後の通信テクノロジーの発展にはかりしれない貢献をすることになるわけだが、現在ではかなり評判が悪いものになっている。とりわけ情報を「意味」から切り離してしまったのは致命的であり、その結果として情報という概念をきわめて貧しいものにしてしまった。少なくとも狭い意味での情報理論と最近流行りの「情報」や「情報文化」には現在のところそれほど強い関係はないと捉えておいた方がいい。
 だが、その一方でそれは情報という概念をこれ以上ないほどに豊かで、広大なものにしたのである。なぜなら、ここでは「すべて」が「情報」として計量可能である! ということが暗に示されていたからだ。
 この辺りのところが、シャノンとウィーバーの論文がもたらした複雑でややこしい部分なのだ。つまり、それに先立つウィーナーの「サイバネティクス」が自然を通信と制御の問題に還元してしまったのを受け、シャノン=ウィーバーは通信(コミュニケーション)を情報の制御の問題として捉えるわけだが、このことは「世界」のすべてを「情報」として捉えることができるという「情報一元論」的な世界観を暗黙のうちに作り上げていたのである。すなわち世界のすべて--つまり、生命も自然も、人間の思考や感情も意識も……要するにすべて――を情報として取り出すことができ、それゆえ制御可能であるという世界観がそれである。
 たまたま同じ頃DNAの構造が発見されたことによって、生命の根幹にも四つの塩基で書き込まれた遺伝「情報」があることがわかった。脳の中で起こっている思考や感情ばかりでなく、生命もまた「情報の組織化」の問題だったのだ。そのことに着目したのが、生命の編集工学としての「バイオテクノロジー」である。あらゆることを「情報の組織化」の問題として捉えること、自然や宇宙もまた情報の自己組織化の問題として捉えること――「情報一元論」的想像力はこのような連続的な宇宙観を作り出したのである。
 そして、それは明らかに近代的な想像力を越える起爆力をもっていた。ぼくに言わせれば、だから、ウーリーが「何もかもいっしょくたにしてしまう」と嘆いている点こそ、「情報」という概念のもっているほかには換えがたい魅力なのだ。それは、近代的パラダイム「内部」における些細な「差異」を隠蔽してしまうかもしれないが、もっと根本的で大きな「差異」を異なる枠組みのもとに開示してくれる可能性をもった言葉なのである。「情報文化」とは単なる「情報社会の文化状況」ではなく、情報という視点からみた包括的な文化論に関わるものでなくてはならないのはそういうわけなのだ。
 とはいえ、現在「情報文化」的なネーミングに与えられている意味づけはもっと限定された貧しいものにすぎない。それはせいぜいのところ、コンピュータとその周辺のテクノロジーに結びついた近未来の技術文明についての物語にすぎないことが多い。「ハイテク・ヒッピーズ」たちの活躍はおおいに応援したいが、その思想的基盤はきわめて浅薄なものであることは忘れないでおきたい。
 『情報宇宙論』を出してから、ぼくのところにはコンピュータ文化やメディア絡みのエッセイや書評の依頼がたくさん来るようになった。随分とその手の本を読まされたが、はっきり言ってほとんどのものが圧倒的につまらない。シミュレーション、電脳社会、ヴァーチャル・リアリティ、人工生命、マルチメディア……と、目先の対象はどんどん変わっているが、要するにテクノロジーやメディアがぼくたちの生活や意識を変容させるというようなおなじみの話の繰り返しにほかならない。多少見るべきものがあるとしても、それはポストモダンやディコンストラクションなどの文学理論を電子メディアと結びつけた、ジェイ・デヴィッド・ボルターの『ライティング・テクノロジー』(黒崎・下野・伊古田訳、産業図書)などといったごく一部であり、それも従来の文科系的な狭さを脱け出せるまでにはいっていない。
 この分野では日本に西垣通が居るが、彼の屈折した文体はなかなか一般には理解しにくいようだ。『マルチメディア』(岩波新書)は、現在のマルチメディア・ブームの中でも最も売れている本だと言うけれども、その内容はほとんど著者の意図と正反対に受け取られている。彼のような才能もあり、志も高い書き手が、単なる「マルチメディアの伝道者」的な役割を担わされるは悲喜劇であり、不幸なことであると言わざるをえない。結局のところ一通り「ブーム」が終った後でなければまともな議論などはできないのかもしれない。
 それはともかく、このウーリーの『ヴァーチャル・ワールド』はその中ではかなりましな書物である。まず、ここでは技術的側面にも文化的側面にも偏らず、情報テクノロジーの発達から生じてきたさまざまな問題をジャーナリストである著者が平易に説き明かしている。奇怪な夢想に捕らえられたパイオニア達の列伝も興味深いし、人工知能、サイバース�yース、インターフェイス、ハイパーテクストといった事項の選び方もよい。何よりも序論の中にある次のような一節はきわめて重要な指摘を含んでいると思う。
 「人工現実は現実という『神話』について――少なくとも、西洋人が現実というものをどのように理解しているかについて――多くのことを明らかにしてくれるとわたしは思う。……また、『現実』であることも『自然』であることも、価値観から自由で何の問題もない――政治的なものを含まない客観的な状態などではないことをはっきりさせてくれる。そのように見せかけることも、その神話の一部なのである。そして『新しい』とか『自然な』といった言葉と同じように『現実』もマーケッティングの用語と化し、ビジネスに収奪されてしまったことが明らかになる。」
 要するに、重要なことは「現実」が先験的に存在しており、その上に人工現実が作られるのではないということだ。人工現実という概念/技術は、むしろ「現実」というイデオロギーを暴露するのである。そして、それはさらに「現実」そのものに対する問いに開かれていくのである。
 彼は続ける。
 「そのようなわけで、VRと人工現実をめぐるテクノロジーと文化とが、一般の人々の現実を変貌させつつあるということにわれわれは目を向けなくてはならない。現実というものの定義に、商業、とくにコンピュータ産業が強い影響力を及ぼすようになった現在、われわれは彼らが現実をどうしようとしているのか、注意深く見守っていかなければならない。」 
 この視点こそが重要なのだ。VRやシミュレーションは、「既にある確固とした現実」の「上に」人工的に作り上げられるのではなくて、むしろそのような「現実」の神話を揺るがし、違う形で意識にもたらすからこそ面白いのだ。この点において、ウーリーは本書の後半ではやや後退した姿勢をとっているのだが、それでも凡百の「マルチメディア」論よりも数段優れた書物となっている。ジャーナリズムがやれるのはそこまでだろう。あとは哲学なり文化理論なりの領域だ。
 ところで、そんなことを考えていたらM・C・エッシャーの自作についての文章を集めた『無限を求めて―エッシャー、自作を語る』(坂根巌夫訳、朝日選書)が出た。
 エッシャーというと思い出すのは数学パズルであり、あるいはダグラス・ホッフスタッターの名著『ゲーデル・エッシャー・バッハ』である。地と図が反転する図形や、目の錯覚を利用した不可能な図形や建物の透視図は、主に知的なパズルとして愛好されてきたが、エッシャー自身についてはいろいろな点で謎に包まれていた。本書はエッシャーの不思議な作品がどのような動機から生まれてきたかを解き明かしてくれている。
 ここで驚かされるのは、エッシャーが一般にイメージされるような遊戯的な作家ではなく、求道者的な作家であるということである。エッシャーは自分のことを「芸術家」とは考えてこなかった。しかし、彼はつねに「全身全霊を打ち込む版画家」であろうとした。
 彼にとって繰り返しや増殖は、混沌から秩序を生み出し、リズムとコントラストを生み出す探求であった。そして、そうした創造は伝統に関わりなく「一刻一刻、自分自身でイメージを削り出すことから始めなければならない」ものであり、他の精神的文化的領域とは根本的に異なるというのである。
 エッシャーは、「自然」や「現実」を再現しようとしたのでもなければ、「美術史」という伝統の中で新しい様式を生み出そうとしたのでもない。ましてや、人の目を惑わすトリッキーなトロンプ・ルイユを考え出したのでもない。そうではなく、まさしく彼は現実そのものを彼自身にしかできないやり方で「作り出そう」としていたのだ。
 コンピュータ・アートやVR、あるいはボトムアップ型の生成に期待を寄せるALアートに一番欠けているのは、こうした現実の真摯な探求なのではないだろうか。言うまでもなくヴァーチャル・リアリティよりもリアリティそのものが問題なのであり、「情報文化」において重要なのも「情報」ではなくまっとうな「文化」への問いかけなのだ。

今月取り上げた本
ベンジャミン・ウーリー『ヴァーチャル・ワールド』(福岡洋一訳・インプレス)
M・C・エッシャー『無限を求めて・エッシャー、自作を語る』(坂根巌夫訳、朝日選書)

 

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