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第二回 過剰さへの感性
毎年のことではあるが、大学の教員をしていると夏休みまでの四年生のゼミには苦労させられる。もちろん卒論指導それ自体も結構大変なのだが、問題は大半の学生が就職活動のために大学に全く顔を出さなくなってしまうということである。大学は就職センターではないと思うのだが、セミナーだ面接だと毎日駆け回り、当然のように大学を休む。
ぼくは学生の「就職活動」には関心がない。不況だと言っても仕事が全くないわけではないし、大体日頃クリエイティヴなことをしたいとか言っている学生が、人事部があるような既成の大企業に勤めたがること自体不思議だと思っている。個性的であることにあれほどこだわっていたはずなのに、急に就職マニュアルに振り回されたり、リクルート・スーツを着始めたりするのにも納得がいかない。いずれにしても大半の学生は内定が出るまでは大学に来なくなってしまうのだから、ゼミは自然と開店休業の状態になる。真面目な教員ならそれでも自分の時間を割いて指導するのかもしれないが、ぼくはそこまで親切になれないので、ほっておくことにしている。
もちろん、彼らの焦りや不安がわからないわけではない。今まで決められたルートに乗っかっていればよかったのに、急に自分で自分の人生を決定しなくてはならないという局面にさらされて、彼らはすっかり取り乱してしまうのだ。取り乱した余りに、就職のためと称する「自己啓発セミナー」といったいかがわしい商法に引っかかったり、突然すべてを放棄して留年してしまったりする。大学院進学とか留学などと急に言い出す者もいる。ずっとモラトリアムでやってきたのだから、そこからはじきだされるのは怖い。よく考えてみれば彼らの大企業志向も結局はモラトリアムの継続のためなのだ。まあ社会はそう甘くないから、いずれそうした「優しい檻」から出てくことになるのだろうが、そんなことを彼らに話したって、何しろ取り乱してしまっているところだから仕方がないのである。しかし、とりあえず落ち着き払っているよりはいいことかもしれない。ぼく自身にしても卒業のころは人一倍取り乱した方であるから、余り人のことは言えない。
ところで、そうしてすっかり取り乱してしまった一人の学生が四月からゼミに顔を出さなくなった。某有名漫画家のアシスタントになったというのである。週刊誌の仕事なので週の半分は働かなくてはならない。ぼくのところに休学するかどうかを相談しに来たが、そのまま仕事を続けながら卒業するように勧めた。単位は問題ないし、ゼミは定期的に報告を出して卒論さえ書ければいい。それで安心したのか見事に顔を出さない。定期的な報告の方もときどき電話をしてくるだけですませているつもりらしい。アシスタントをやっているうちに漫画への関心が強まり、卒論は漫画をテーマにしたいという。
一応は指導教官として電話でいくつか漫画研究の例を説明した。作家の固有のテーマやモチーフを扱う研究から、漫画から社会の変化を読み解く社会学的研究、歴史的研究、サブ・カルチャーとしての漫画評論、様式論的研究等々……。話しながら、漫画研究とか漫画評論とかいうジャンルはどうも坐りの悪いものだなと思った。数が少ないわけではないし、優れた研究もいくつか頭に浮かんでくる。だが石子順造から大塚英志まで、数々の個性的な書き手の名前を思い出すことはできても、そこには継承されてきた方法もなければ原理もない。つまり、初学者が学び、模倣し、手がかりにすることのできるような伝統がないのである。文学研究や社会学の方法を漫画に適用することはできても、漫画というジャンルそのものに即した共通の理解の土台というものが欠けているのだ。
もっとも、考えてみればこれは漫画だけの話でもないだろう。映画にしてもテレビにしてもポップミュージックにしても、要するに今世紀のポップカルチャーに関して、それを真面目に考えるための「知のデータベース」が存在していないのである。なるほど、これらについて多くの出版物は存在しているかもしれない。だが、たとえば映画ひとつとっても、映画理論史の概略を学べるまともな教科書ひとつ日本には存在していないではないか。映画について勉強したくても、手に入るのはタイトルに「映画」という名前のついた新書本があるくらいのもの。しかも、これらの新書本がいかにタチの悪いものであるか、読んだことのある人ならすぐに思い当たることにちがいない。要するに基本的な文献というものが少なすぎるのだ。
欧米では状況は多少はましである。このことがいいか悪いかは別として、ポップカルチャー研究はアカデミズムの中にもきちんと制度づけられているし、ポップカルチャーでph・Dを取っている人も沢山いるという。何と言ってもそれなりの概説書や研究書を入手することができる環境がある。確かにアカデミズムとポップカルチャーは折り合いの悪いものかもしれないが、映像論とかメディア論とかの講座をもつ大学は数え切れないほどあるのだから、少なくとも基本的な概説書くらいはあってもいいのではないかと思う。
そんなことを考えていたら、タイミングよくぴったりの新刊が出た。四方田犬彦の『漫画原論』(筑摩書房)である。四方田はこの本のあとがきの中で次のように述べている。
「本書はこれまでわたしが執筆してきたもののなかで、もっとも独創性に欠ける書物である。理由は他でもない。漫画を日常的に読みつけている人であれば誰でもその読み方の順序から風船の意味までの悉くを知っており……(中略)。すなわち、誰が書いても同じことだ。誰かが書きさえすればいいのだ」。
もちろん、「誰が書いても同じ」などということは断じてない。この本のきわめて「独創的」な点は、漫画をそのジャンルの自律性において語るという今まで誰もやろうとしなかったきわめて困難な課題に取り組んでいることにある。
今世紀の初め、ロシアのフォルマリストたちは、文学研究をそれまで支配的だった伝記的研究や心理学的研究から切り離して、「文学を文学たらしめている内在的原理」としての「文学性」という概念を提起した。『漫画原論』はいわばこの意味で漫画を漫画たらしめている内在的原理としての「漫画性」に焦点を合わせようとしているのである。漫画をめぐるさまざまな評論や批評を前にして彼は言う。
「……だがわたしが念頭においているのは、こうした評論が可能となるにあたってさらに前段階で検討すべきこと、すなわち漫画を漫画たらしめている内的法則の検討である。」
ロシア・フォルマリズムからジュネット、グレマスらのフランス系記号論に至る成果を下敷にしながら、四方田は漫画というジャンルを支える「文法」を記述していく。本書の第一部をなす全二五項目に渡るこうした記述は、おそらく日本で最初に行なわれた本格的な漫画の記号論の試みなのだ。
ここでは漫画のテクストの基本単位としての「コマ」、「風船」、「運動の分割」などが豊富な事例の分析を通して語られている。それらは漫画という「テクスト」において機能する独自の規則を作り上げている。ここでの分析は必ずしも体系的であるわけではないにしろ、この著者独特の鋭い批評眼によってひとつひとつ説得力のあるものとなっているのである。
それでは『漫画原論』は冒頭に述べたような意味での漫画の「教科書」、「概説書」たりうる書物となっているであろうか。ひとまずはYESと答えておこう。今までこれに類した試みが存在していない以上、今後日本の漫画について考えようとする人にとってはきわめて役に立つ本となることだろう。
だが、同時にそれはNOでもある。もちろん、そのような初学者向けの入門書(それも漫画家になりたい者のための入門書ではなく、漫画の批判的読者のためのそれ)という企て自身が突き当たる本質的な困難さというものが存在している。まず、前述のようにそうした入門書が前提としている蓄積された知というものが存在していないこと。参照すべき過去の文献というものがほとんど存在していない以上、概説とか入門書を書くことは事実上不可能である。飽くまでもそれは開かれた試論でしかありえない。
次に、このことの方がより重要なのだが、漫画というジャンルそのものが「漫画の文法」といった内在的な原理による規定を無効にしてしまいかねないパラドキシカルな表現ジャンルであるということがある。四方田自身が何度も繰り返し指摘しているように、漫画の中には自分自身の文法を逸脱し、規則を破壊する修辞的な運動がまさしくそのジャンル的本質の中に含まれているのだ。そのため「漫画性」を規定しようとする行為は、それがなされたとたんに手酷く裏切られる宿命にある。「漫画的なるもの」とは本質的に逸脱と他の表現ジャンルとのクロスオーバーにあるのであり、共時的体系としての漫画の「ラング」を切り取ることは原理的に不可能なのである。そのことを確認するかのように、本書の第二部は戦後日本漫画の通時的な分析に変化している。漫画の文法あるいは修辞学がある特定の時代や地域と切り離せないのはそのためなのだ。
最後の理由はいわば著者の資質に関わるものである。何よりも四方田は「漫画の記号学」といったアカデミックな研究領域を作り出そうとしているわけではない。彼の関心はもっと実践的なことに向けられている。それではなぜ漫画の記号論が要請されるのかというと、それは何よりも漫画という身近な表現領域を自明のものとしてやりすごす習慣に対して、われわれの社会を特徴づける表象領域として真剣な反省の対象にすることが必要だからだ。
漫画を有害なものとして非難する人々や、あるいは手塚治虫の漫画を人種差別問題の槍玉にあげたりする人々による議論に徹底的に欠けているのはそれが漫画であるという単純な事実である。つまり漫画は紙の上に白と黒という二つの色彩で描かれるテクストであるといった原理的な考察が徹底的に忘却されているのだ。いまどき映画や文学をそのストーリーや思想だけで評価する批評家はいないだろうが、漫画だけはその表現ジャンル独自の形式的特徴を無視されて論議されているのである。ここで試みられているのはこうして不当にそのジャンル的特性を無視されている漫画というきわめて重要な表現ジャンルのいわば批評的な救出なのである。
四方田はこの本を漫画の「過剰さ」を語ることから始めている。内容、発行物の量、社会や他ジャンルに与える影響――これらすべてにおいて漫画は過剰である。この過剰さはポストモダンと呼ばれる現在の文化状況を象徴するものであると言えるだろう。文学、絵画、映画、音楽といった旧来の表現ジャンルから、TV、ヴィデオ、コンピュータ・ゲームといった新しいメディアまで、すべての文化は過剰に供給される消費財となり、文化的な階層秩序はずたずたに解体されつつある。もはや、すべての人間が読むべき本や知っておくべき名画のリストを作ることなどできず、またすべての重要な映画や小説を読むこともできない。
文学全集や美術全集に代表されていた「人類の遺産」としての芸術や文学、ヒューマニズムと国際主義の下に称揚されてきた「世界文化」の理念が、大量に供給され、流通し、消費される「カルチャー」に吸収されようとしてる現代において、漫画について考えることとは、われわれが個人の認識能力を超えた過剰を前にした「部分」にすぎないという厳粛な事実を認めることであり、またそれを認めた上で一体何が可能なのかを問い直すことにほかならない。
四方田はこうした過剰性を力強く肯定している。彼の前著である『電影風雲』(白水社)は、中国、韓国、香港、台湾の二八人の映画監督を論じた八百頁に及ぶ大著であり、まさしく映画をその過剰性においてまるごと肯定した書物であった。彼はここでアジア映画を、たとえば国際映画祭で見られるような映画の「国際性」や「普遍性」といった虚構の視点から語っているのではない。そうではなくそれぞれの映画のもつ還元不能で個別的な「地域性」と「歴史性」の中に一貫してとどまろうとしているのである。この本が感動的なのはまさしくそのためであり、そしてそれはそのまま『漫画原論』にも当てはまる。
誰もが切実に感じている過剰なるものへの感性と原理的な思考のバランスを取って生きることの困難さを、彼の書物は軽やかに乗り越えているように感じられる。この本が概説書や入門書になりえないのは何よりもいわばこの素晴らしい欠点のためなのだ。
話がやや抽象的になってしまった。最後に書いておきたいことは、本書が漫画の愛読者にとってかつてない素晴らしいデータベースになるだろうということだ。著者と世代が近いせいもあって、豊富な図版や解説になつかしさを感じることも多かった。読み終った後、我慢できなくなって漫画専門店や古本屋に走り出したのはぼくばかりではあるまい。